(BL)敵対的接収された元領主は、冷酷と噂の融資院総裁に復讐するつもりでした――なのに今さら、あの男がずっと私の人生を買い戻していたなんて聞いていません
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - (BL)敵対的接収された元領主は、冷酷と噂の融資院総裁に復讐するつもりでした――なのに今さら、あの男がずっと私の人生を買い戻していたなんて聞いていません
本文
火花。
焼けた銅の匂い。雨上がりの石畳に、青白い魔導灯の明滅がぴし、ぴし、と散る。
あと一歩で感電防止の封印線を繋ぎ終える、その瞬間だった。
「そこの工師、手を止めろ」
低い声ひとつで、広場の空気が凍った。
梯子の上で振り向いたルカ・フェルノーは、濡れた前髪の奥で目を細めた。王都一の金貸し。商会も領地も家名も、望めば丸ごと呑み込む男。
融資院グループ総裁、セリオ・ヴァレンティノが、黒金の外套を翻して立っていた。
よりによって。
親の代で破綻し、敵対的接収の末にフェルノー家を失墜させた相手が、今さら自分の仕事場に現れるなんて。
「危険です、総裁閣下。近寄らないでください」
「君に言われる筋合いはない。落ちるぞ」
次の瞬間、足場板がぐらりと鳴った。
あ、と息が浮く。視界が傾ぐ。石畳。梯子。濡れた夜。胃がひゅっと縮む、その一瞬の空白へ、黒い影が踏み込んだ。
抱き止められた。
どさり、ではない。ぐ、と腕に引き寄せられ、胸板へ叩きつけられるみたいに着地した。固い。熱い。息が止まる。濡れた外套の匂いの奥に、香木と紙と、火薬に似た冷たい香り。
最悪だ。最悪すぎる。
「……離していただけますか」
「嫌だ」
「は?」
「君は今、私の腕の中にいるほうが安全だ」
心臓が、どくん、と不穏な音を立てた。
怒りで。怒りで、である。断じてそれだけだ。たぶん。
ルカは元伯爵家当主で、今は街の工師組合に雇われる電気工事士だ。魔導灯の整備、結界柱の配線、火災防止の封印更新。借金返済のため、危険手当のつく仕事を選んで、手を焼き、指を裂き、それでも黙って働いてきた。
全部、返すために。
家の負債も。奪われた誇りも。あの男への憎しみも。
だから復讐の機会を狙っていた。
セリオの護衛結界に組み込まれた旧式の欠陥回路を暴き、公衆の面前で失態を晒させる。融資院の威信に泥を塗る。そういう、慎ましくも執念深い計画を。
……なのに計画相手に抱き止められて、頬まで熱くなるなど、聞いていない。
「放して」
「断る」
「手首を」
「脈が速い。立てないだろう」
「あなたのせいです!」
ぴしゃりと言い返した途端、セリオの睫毛がわずかに震えた。
それだけ。表情は崩れない。端正で、冷たく、王都の冬の彫像みたいな顔。だが腕は放さない。びくともしない。
この男、礼儀正しい顔で強情だ。知っていた。嫌というほど。
「仕事の邪魔です、総裁閣下」
「今夜の仕事は中止だ」
「命令される覚えはありません」
「ある。そこの灯柱は三日前に封印改竄が入っている」
ルカは息を呑んだ。
改竄。今の一言で、復讐用に自分が仕込んだ細工のことではないとわかった。別の何者かが先に触っている。
セリオが顎で示す。護衛が一歩下がる。布に包まれた結界札の断片。煤。見覚えのない刻印。
「君をここへ呼び出した依頼票も偽造だ」
「……は?」
「工師組合には二重帳簿が残っていた。君だけ危険区画へ回されるよう、手当の名目まで整えてある」
背筋が、す、と冷えた。
(ほら見ろ)
耳の奥で、いやに冷えた声が嗤う。
(復讐するつもりで近づいて、先に狩られるところだった)
ルカはぎり、と奥歯を噛んだ。これは彼の癖だ。追い詰められると、死んだ父の声がする。正確には記憶の反芻だ。厳格で、冷酷で、商売に負けたくせに最後まで誇りだけ高かった男の声。
(ヴァレンティノに情けをかけられるくらいなら、石に噛みついてでも立て)
「情けのつもりですか」
ルカは低く言った。
「今さら。家も、領地も、工房も、全部呑み込んでおいて」
セリオの指が、ほんの一瞬だけ強張った。
触れられた手首が熱い。
逃げたいのに、逃げるほうが負けだと身体が強情を張る。
近い。近すぎる。鼻先ひとつ分、顔を上げれば唇が触れそうな距離。最悪の距離だ。息が混ざる。こめかみが熱い。胸の奥が、ばく、ばく、と騒がしい。やめろ。そんな丁寧に見下ろすな。そんなふうに名前を呼ぶな。
「ルカ」
「……呼ばないでください」
「では、元伯爵」
「嫌味ですか」
「敬意だ」
その声音が、妙に静かで。
怒鳴られるより余計に、胸の奥へ刺さった。
その夜、ルカは融資院本部へ半ば強制的に連行された。連行、というと語弊がある。実際は「君を狙った犯人がまだ捕まっていない」と理詰めで包囲され、「危険区画の工師宿に戻るほうが愚かだ」と淡々と論破され、気づけば最上階の応接間にいた。
腹立たしいことに、正論だった。
暖炉の火。分厚い絨毯。磨き抜かれた硝子。かつてフェルノー家の客間にあったものより上等で、だからこそ癇に障る。
「茶だ。毒は入っていない」
「入っていたら驚きます」
「私は君を殺さない」
「社会的には一度殺しましたよね」
「……そうだな」
そこで否定しないのが、ずるい。
ルカはかえって言葉を失った。
「ではなぜ助けたんです。慈善事業ですか。没落貴族に同情でも?」
「違う」
「では、罪悪感?」
「それも違う」
「じゃあ何です」
沈黙。
ぱち、と薪が爆ぜる。
長い指がカップの縁に触れ、離れた。あの男が迷う。珍しい。いや、初めて見るかもしれない。
ルカは不意に気づいた。応接間の壁一面に、融資案件の台帳と地図が並んでいる。その一角にだけ、見慣れた家紋があった。
炎燕の紋。
フェルノー家の旧紋章。
「……なぜ、それがここに」
セリオが視線を上げる。
逃がさない目だった。普段の冷淡さより、もっと悪質で、もっと優しい目。
「接収したからだ」
「それは知っています」
「違う。表の資産ではない」
彼は立ち上がり、書架の奥から封緘文書を一つ抜いた。
「君の父君が最後まで隠した、職人たちの名簿と工房の特許権だ」
ルカの喉が詰まる。
「王家直轄の武具工房に横流しされる寸前だった。私が先に買った」
「……買った?」
「敵対的接収に見せかけたのは、そのほうが守れたからだ。あの時点でフェルノー家は、複数の商会に食い荒らされていた。君の父君は誇り高すぎて、私の提案を受けなかった」
耳鳴り。
足元がわずかに揺れる。
あの時、王都で流れた噂を思い出す。ヴァレンティノは弱った家を狙って呑み込む。冷血。強欲。情けなし。
そして確かに、セリオはそう振る舞った。公の場では。
父の面目を残すために、破談も不正も全部、ヴァレンティノ側の冷酷さで片づくように。
「……じゃあ、うちの使用人たちが散り散りにならずに済んだのも」
「再就職先を斡旋した」
「工房の負債が途中で止まったのも」
「私が買い取った」
「借金の利子が急に軽くなったのも」
「匿名の支援では不服か」
「不服です!」
声がひっくり返った。
自分でも情けないくらい大きな声だった。肺が痛い。視界が熱い。怒りなのか悔しさなのか、もう判然としない。
「ふざけないでください……! そんなこと、一言も」
「言えば君は受け取らなかった」
「当たり前だ!」
「だから黙っていた」
正しすぎて、残酷だ。
ルカは唇を噛んだ。痛い。鉄の味。知らないところで守られていたなど、屈辱だ。惨めだ。なのにどうして、この男の声はこんなに静かで、こんなに――ほっとするんだ。
(馬鹿だな)
父の声が、今度は妙に乾いている。
(憎み続けるには、相手がまっすぐすぎた)
「では今さら何のつもりで明かしたんです」
絞り出すように問うと、セリオは少しだけ目を伏せた。
「今夜、君が囮に使われたからだ。君が何も知らないまま傷つくのは、もう耐え難い」
どくん。
今度こそ、心臓が露骨に跳ねた。
耐え難い。
その言葉だけで、指先まで熱が走る。
なのに男はそこで黙る。肝心なところを飲み込む。なんだそれは。優しくて、意地が悪い。触れそうで触れない距離を、言葉の上でもやるつもりか。
「……私を哀れんでいる?」
「違う」
「では責任?」
「違う」
「なら」
セリオが一歩だけ近づいた。
逃げない。ルカも逃げない。逃げたら終わる気がした。
吐息が頬を撫でる。触れない。けれど確かに、そこにある。
「君の人生に、私以外の札が貼られるのが我慢ならない」
思考が止まった。
所有欲。独占欲。ひどく傲慢な言葉なのに、声が震えていた。あの男が。王都で最も隙のない総裁が。
ルカは、そこでようやく気づいた。
この男、ずっと自制していたのだ。債権者だから。高位だから。救った側だと思われるのが、何より屈辱になると知っていたから。
だから助けても言わなかった。
だから選んでも見せなかった。
「君の工房も名簿も、返す」
セリオは低く言う。
「借金も帳消しにできる。だが条件は出さない。私はもう、保護を口実に君を縛りたくない」
一段目のどんでん返しは、そこで完成した。
この男は買ったのではない。返すつもりで守っていた。
けれどルカは、その瞬間に別の違和感へ辿り着く。
工師組合の偽依頼。二重帳簿。危険区画への誘導。
それをセリオが掴めたのは、なぜだ。
「……あなた、最初から私の仕事先を追っていたんですか」
問うと、彼は珍しく目を逸らした。
沈黙。答えだ。
「まさか毎回?」
「毎回ではない」
「毎回じゃないなら何回です」
「……危険度の高い案件だけだ」
「それを世間では毎回と言うんですよ!?」
思わず叫ぶと、セリオはほんの少し、ほんの少しだけ口元を緩めた。ずるい。そんな顔を隠していたのか。
胸の奥が、ぐしゃ、と甘く痛む。
二段目のどんでん返しは、もっと質が悪い。
自分は憎まれていると思い込み、復讐まで企てていた。だが相手はずっと選んでいた。とっくに。執拗に。黙ったままで。
「心外です」
「何がだ」
「そんな顔をされると……私がずっと、馬鹿みたいじゃないですか」
「馬鹿ではない」
「馬鹿です。あなたを憎んでいた」
「構わない」
「復讐も考えた」
「知っていた」
「は!?」
「護衛結界の旧式回路に不自然な照準痕があった」
「最悪だ……!」
頭のてっぺんから湯気が出そうだった。いや出ている。絶対。
穴があったら入りたい。だがセリオは笑わない。ただ、ひどく大事なものを見る目でこちらを見ている。
「それでも君を手放す気にはなれなかった」
「……ずるい」
「そうだな」
もうだめだ、とルカは思った。
憎しみだけでは立っていられない。真実を知ってしまったから。何より、この男の前では自分の矜持まで見透かされる。
ルカは一歩、前へ出た。
触れる直前で止まる。胸元の生地に指先がかすめる、その寸前。
もどかしい。息が熱い。喉が渇く。
「返すとか、帳消しとか……そういうのはまだ受けません」
「わかった」
「工房も、自分で取り戻します」
「それでいい」
「でも」
セリオの睫毛が揺れる。
「次に危険な仕事へ行く時は、あなたにだけは知らせます」
「……それは」
「あなたが勝手に追うより、少しはましでしょう」
そこでようやく、あの冷酷総裁が息を呑んだ。
勝った。たぶん今だけは。
ルカは続ける。頬が熱い。声も少し掠れる。でも、逃げない。
「それから、将来のことは今すぐ決めません。借金も工房も片づけて、対等になってからです」
「厳しいな」
「当然です」
「だが」
セリオが、今度こそ指先でルカの手首に触れた。
抱き締めるのではなく、逃げ道を残したまま。礼儀正しく。なのに熱い。
「その先の席を、私のために空けておいてくれ」
ずるい。
本当に、ずるい男だ。
ルカは笑ってしまった。初めて、この男の前で。
するとセリオは、信じられないものでも見るように目を見開いて、それからひどく甘く、困ったように微笑んだ。
王都の夜はまだ冷たい。
けれど窓の外で、消えかけた魔導灯がふっと安定した光を灯す。
復讐は失敗した。
代わりに、もっと厄介な契約が始まりそうだった。
――今度は、どちらが先に落ちるのか。
それだけは、まだ教えてやらない。