笑えない氷妃は、南王の過剰求愛をだいたい誤解している
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 笑えない氷妃は、南王の過剰求愛をだいたい誤解している
本文
熱。光。潮の匂い。
婚礼七日目の大広間で、南国の王が孔雀の羽根を背負って階段を滑り落ちた。ぼてっ、ではない。しゃらん、である。羽根飾りが無駄に豪奢だから。
「……陛下」
「今のはどうだ、アルシェラ。口角が一分ほど動いた気がした」
「気のせいです」
「そうか。では次は火を噴く」
「玉座のある広間で?」
「君が笑うなら国庫も燃やす」
「やめてください」
南の王レオネルは、そういう男だった。
海硝子を煮溶かしたような碧眼。陽に灼けた肌。諸侯を黙らせる冷たい横顔。戦場では慈悲がなく、廷臣の失策には氷より冷ややかなくせに、氷の国から嫁いできた私の前でだけ、どうしてこうも甘く、馬鹿で、加減を知らないのか。
私はアルシェラ。北方フィエルダの王妹で、和平の証としてこの国へ来た二十一歳の王妃。
そして、笑えない。
笑わない、ではなく、笑えない。
北の王族は、政の席で感情を見せぬよう幼い頃から叩き込まれる。とりわけ敗戦のあとに南へ渡った私の顔は、祖国そのものの面子だった。ここで安堵した顔を見せれば、北は屈したと笑われる。だから口元は、癖になった氷のまま。
レオネルはそれが気に入らないらしい。
「王妃を笑わせるのも王の務めだ」
「国務はもっと他にございます」
「ある。だが君が笑わないのは私にとって国難だ」
平然と言う。そのくせ、触れない。
私の頬に果実酒がひとしずく落ちたときも、彼は指先を伸ばし、触れる寸前で侍女から布を奪った。喉元の飾り紐が揺れるほど近くまで来て、柑橘と海風の匂いだけを残し、丁寧に拭っただけ。
近い。熱い。なのに、そこまで。
ずるい男だ、と思ったとき、道化師が拍手した。
鈴の帽子。白い仮面。宮廷で一番陽気な顔。
……靴先に、青銀の粉。
私は息を呑んだ。海の洞窟でしか採れない魔石粉。王家の秘匿鉱脈――敵国が喉から手を出すほど欲しがる、あの海蝕洞のものだ。
道化師がなぜ、そこへ。
視線だけで追うと、仮面の笑みがわずかにこちらへ傾いた。ぞわり、と背骨を細い氷が走る。
その夜、私は王の執務室へ向かった。だが扉を開ける前に、中から声がした。
「明日は猿ではなく、歌う貝殻でいく」
「陛下、それは諜報会議です」
「だから何だ」
「王妃殿下を笑わせる話では」
「最優先事項だ」
……本当に、馬鹿だ。けれど扉を開けて粉を差し出した瞬間、彼の目は別人のものになった。
「どこで見た」
「道化師の靴先に。海洞の粉です」
「誰にも?」
「話していません」
沈黙。つめたい刃のような静けさ。
次いで彼は立ち上がり、机を回って私の前へ来た。影が落ちる。鼻先が触れそうな距離で止まり、低く囁く。
「明日、私と洞窟へ来い」
「囮ですか」
「私の隣だ」
その言い方が卑怯で、胸の奥がどく、と鳴った。
海の洞窟は、美しかった。蒼い魔石が壁という壁に脈打ち、寄せる波のたび星空が息をする。私は北で鉱脈を見て育った。だからこそ分かった。削り跡。共鳴位置を記した印。盗むつもりではない。壊す気だ。
「洞窟ごと崩せば、この国の海路が死にます」
「……やはりそうか」
レオネルが剣の柄に触れる。その指先が、歩みを合わせた拍子に私の袖へかすった。たったそれだけで脈が跳ねる自分が腹立たしい。
鈴が鳴った。
「さすが氷妃」
道化師が現れた。仮面の笑み。乾いた声。
「王妃を返していただければ、洞窟は助けて差し上げましょう」
護衛が殺気立つ。私は喉の奥が冷えるのを感じた。やはり狙いは私でもある。北との和平を裂き、海洞も潰す。二つまとめて。
レオネルは静かに言った。
「断る」
短い。冷たい。ぞっとするほど。
「その女は敗戦国の飾りでしょう?」
「私の前で、私の妃を値踏みするな」
低い声が洞窟の壁を打った瞬間、魔石が明滅した。罠だ。共鳴が走る!
「下がって!」
私は壁へ掌を当てた。北の氷術は、熱を奪い、脈を鈍らせる。蒼い光が白み、連鎖が一拍だけ止まる。その隙にレオネルが私の腰を抱き寄せた。
「走るぞ」
「近いです、陛下!」
「黙ってつかまれ」
背に腕。耳元で弾ける息。滑る足場。波音。心臓がうるさい。恐怖なのか別のものなのか、もう判別不能だった。
崩落を抜けたあとも、彼はしばらく離さなかった。
手袋越しに私の指先を確かめ、傷を見つけると眉を寄せる。そして唇を寄せる、と思ったのに――額に触れただけ。
「次からは私より先に無茶をするな」
「陛下こそ」
「私は王だ」
「私は王妃です」
彼は一瞬、笑いそうになって、でも飲み込んだ。
その夜。私は離宮への移送を命じられた。
謁見の間で、レオネルは私を見なかった。北の紋章入りの偽造札が洞窟で見つかった以上、疑いを払うためだろう。守るため。そう、分かっている。なのに胸の内側が、ぱきり、と嫌な音でひび割れる。
「承知いたしました」
そう言った自分の声が、驚くほど薄かった。
離宮の窓辺で夜を待つ。来るなら今だ。道化師は必ず、切り離された王妃を奪いに来る。
そして来た。
「賢い方で助かります、王妃」
月下の回廊。仮面を外した男は、思ったより平凡な顔をしていた。人はこういう顔で国を壊すのだ、と妙に納得する。
「あなたが来れば、北は助かる」
「嘘をお上手に」
「王はあなたを捨てた」
その刹那、私はほんの一瞬、息を止めた。痛いところを突かれたからだ。けれど次の瞬間、闇から剣光が走る。
「誰が捨てたと?」
レオネルだった。
近衛が一斉に現れ、道化師を取り囲む。囮。離宮移送も公開の冷遇も、全部罠。私を傷つけたくなくて説明しなかったくせに、私が傷つく顔は利用したのだ。この王は本当に、優しいのか意地が悪いのか分からない。
「……ひどい方」
「知っている」
その一言のあと、道化師が逃げた。だが私はもう、じっとしていない。水盤の水を細く凍らせ、足首へ絡める。月光を食んだ氷糸がきらりと走り、男は無様に転んだ。
「笑えない女は、退屈に見えまして?」
近衛が取り押さえる。鈴がじゃらじゃら鳴って、ようやく終わった。
静寂。
レオネルが私へ歩いてくる。速くもなく、遅くもなく、逃げ道を残さない歩幅で。
「アルシェラ。私は君に嫌われていると思っていた」
「……そう見えましたか」
「そうとしか見えなかった。君は一度も笑わない」
月の下で見上げた顔は、王のものではなかった。少しだけ、弱い男の顔。
私は袖の中で指を握る。
言えば祖国を裏切る。黙れば、この人を傷つける。ずっとそう思っていた。けれど彼はもう、先に選んでしまっている。洞窟も、和平も、私も、全部まとめて守ると。
「笑えば、北が負けを認めたと見なされるからです」
「……それだけか」
「それだけ、ではありません」
「聞こう」
近い。息が触れそうで触れない距離。逃げれば許される隙間があるのに、足が動かない。
「ここで安らいだ顔をすれば、故郷に顔向けできないと……そう思っていました」
「なら、もう思うな」
きっぱり。命令の形で、救うように。
「明日、北への魔石支援を公にする。君の進言としてだ。誰も、君の表情を敗北の旗印になどできない」
「陛下……」
「私は君に笑えと命じたいわけじゃない」
そこで初めて、彼の指が私の頬の横へ来た。触れない。髪をすくうだけ。熱だけ寄越す。
「ただ、私の前で安心した顔をしてほしかった」
その一言で、終わった。
胸の奥の氷が、みし、みし、と小さく泣いてほどける。私は泣くまいとして、でも先に口元が揺れた。ほんのわずか。たぶん世界でこの男にしか分からない程度に。
レオネルが息を呑む。
次の瞬間、片手で顔を覆った。
「陛下?」
「今のは駄目だ」
「何がです」
「それで笑っていないつもりなら、私は今後も国家予算を君に溶かす」
思わず、ふ、と声が漏れた。鈴のように。自分でも知らない音で。
彼はその笑い声を聞いた顔のまま、静かに私の手を取る。指へ口づける寸前で止まり、爪の先を額へ押し当てた。自制。最後の最後まで、ずるい。
「今すぐ奪いたい」
「……それは困ります」
「だから我慢している」
「十分困っています」
「なら今後も困ってくれ」
なんて横暴。なんて甘い。
翌朝、王は海洞を守った功として私の名を公に読み上げ、北への支援も宣言した。誰の前でも、もう私を“飾り”とは呼ばせないために。
その夜、寝所の扉の前で彼は囁いた。
「政略で迎えた妃としてではなく、改めて口説く許可をくれ」
「お断りしたら?」
「泣く」
「王が?」
「君の前でだけは」
私は、今度は少しだけ、ちゃんと笑えた。
南の夜風があたたかい。
困る。ひどく困る。けれどもう、その困り方は、不幸ではない。