蔵 (一)
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あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)
本文
蔵 その一
その日、佐藤純は十三件目の配達に手を焼いていた。
荷物は縦横三十センチほどの段ボール箱で、重さは見た目の三倍はあった。住所を確認すると古いマンションの三階、角部屋。エレベーターはない。純は段ボール箱を抱えて階段を上がり、インターホンを押した。
「はーい、どうぞ入ってください」
間延びした声が返ってきた。
純はドアノブに手をかけ、押した。
次の瞬間、足元の感触が消えた。
マンションの床ではなく、何か柔らかいもの。
見上げると月が二つ、仲良く並んでいた。昼間なのに月が二つ。しかも両方とも満月だった。
「あの」
純は段ボール箱を抱えたまま、その場に立ち尽くした。
草原だった。どこまでも続く、膝丈ほどの銀色の草。風が吹くと草がさわさわと波打ち、鈴を転がしたような音がした。遠くに街らしき建物の輪郭が見えた。
純はまず段ボール箱を地面に置いた。
それから空を見た。
それから段ボール箱を見た。
「……配達、どうしよう」
我ながら呑気な第一声だと思った。
---
街に入ると、すぐに気がついた。
誰も荷物を持っていない。
市場らしき広場では色とりどりの布や果物が並んでいたが、買い物客は手ぶらで歩き回っていた。売り手が何かを渡す場面で、受け取った客がそれをどこかに「しまう」動作をした。ところが鞄も袋もない。ただ手をひとつ、軽く払うような仕草をするだけで、品物がすっと消えた。
純は目が丸くなった。
隣で果物を買い終えた女性が、純の視線に気づいてにこりとした。
「旅の方ですか?」
「は、はい。えっと、今のは」
「今の?」
「荷物が、消えましたよね」
女性は少し考えてから、ああ、と笑った。
「《蔵》ですよ。誰でも持っています。生まれた時から」
《蔵》。純は心の中でその言葉を転がした。この世界の人々はそれをごく自然に、蔵と呼んでいた。自分の内側に持つ、見えない蔵。どこにでも持ち歩けて、どこにでも出し入れできる。
「あなたは持っていないのですか」
「持っていない、と思います」
「まあ」
女性は驚いた顔をしたが、すぐに親切な顔になった。
「では師匠のところへ行きなさい。街外れの、屋根が青い家です」
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師匠と呼ばれたその人物は、青い屋根の小屋に一人で住む、四十がらみのひょろりとした男だった。初対面で純の事情を三分で把握し、お茶を一杯出してから言った。
「で、帰り方はわかるの」
「わかりません」
「じゃあしばらくここにいるしかないね」
あまりにあっさりしていた。
「困りませんか」
「なんで僕が困るの」
純は返す言葉がなかった。
師匠はそれから《蔵》の使い方を教え始めた。教え方は妙に体育会系で「とにかくやってみろ」の一点張りだった。何かを収納する感覚は、純には最初、くしゃみを途中で止めるような奇妙な感覚に思えた。力の入れどころが全くわからない。
三日かかった。
三日目の昼、純は目の前に置かれた大きな石をすっと消すことに成功した。
師匠が初めて拍手した。
「筋がいい。最初は十日かかる」
「褒めてます?」
「褒めてる。で、出せる?」
純は首を振った。
「じゃあまだ半分」
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結局、純はその世界で十五年を過ごした。
《蔵》の習得だけなら一年もかからなかった。しかし帰り方が、なかなかわからなかった。師匠は「扉は向こうから開く」と言い続け、純はその意味を考えながら、この不思議な世界で日々を重ねた。
気がつくと街の配達を手伝っていた。
最初の仕事は失敗だった。
頼まれた布を《蔵》に入れたまではよかったが、取り出したときに端がわずかに湿っていた。ほんの少しの違いだったが、依頼人は眉をひそめた。
「丁寧にやったつもりなんですけど」
「丁寧はつもりじゃない」師匠が言った。「結果だ」
その日から純は、触れる感覚、温度、重さ、時間の流れを意識するようになった。
やがて、壊れ物も、液体も、生き物でさえ、扱い方を覚えれば安全に収められるようになった。
《蔵》を持たない人間など存在しないこの世界で、純は《蔵》を使えるようになってもなお、足を使って荷物を届けることに妙なこだわりを持っていた。街の人々はそれを奇妙がりながらも、だんだん純に配達を頼むようになった。
「あの人、手で運ぶんだって」
「変わってるね」
「でも確実に届けてくれるから好き」
純の評判は、じわじわと広がっていった。
十五年のあいだに、純は《蔵》の扱いが街でも指折りの腕前になった。大きさも重さも関係ない。壊れ物も、液体も、生き物でさえ、扱い方を覚えれば安全に収められた。
さらに師匠から最後に教わったのが「隠蔽」だった。
「《蔵》を使っていることを、他人に感づかれないようにする技術だ」
「なんのために」
「世の中には、見えていても気づかないほうが楽なこともある」
それから少し笑って付け加えた。
「あと、驚かせると楽しい」
後半が本音だと純は思った。
隠蔽は、物を消す技術ではなかった。むしろ逆で、「違和感を流させる」技術だった。見ているはずなのに、気づかない。気づきかけても、そのまま通り過ぎてしまう。
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帰り方がわかったのは、十五年目の春だった。
師匠が「そろそろじゃないか」と言い出した。
「なんとなく、扉の気配がする。明日の昼ごろ」
「わかるんですか」
「長く生きてるからね」
翌日の昼、純が街外れの草原に立つと、空気がわずかに歪んだ。そこには確かに、見えないドアがあった。
純は師匠に振り返った。師匠は片手を上げた。
「また来てもいいよ」
「来られるかどうか」
「扉は、一度開いた場所にまた開く。そういうものだ」
純はドアノブのない扉に手を押し当て、押した。
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気がつくと、純はマンションの廊下に立っていた。
手には段ボール箱。足元はピータイル。空は青く、月は一つだった。
「はーい、どうぞ入ってください」
インターホン越しの声が、まだ続いていた。
十秒も経っていなかった。
純は一度深呼吸してから、ドアをノックした。
「お届け物です」
声は驚くほど平静だった。十五年分の皺も白髪も、体のどこにもなかった。
しかし返事がない。
純はもう一度ノックした。
やはり返事がない。
不思議に思いながらドアノブを回すと、鍵がかかっていなかった。純はおそるおそるドアを開けた。
部屋の中は、がらんとしていた。
家具は一切ない。埃が薄く積もっている。窓は曇り、光がほとんど入らない。明らかに、誰かが長い間住んでいない部屋だった。
空き家だった。
純は廊下に立ったまま、部屋を見渡した。インターホンのモニターを確認した。電源が入っていない。そもそも、電源ケーブルが抜けていた。
つまり、あの声は。
純は段ボール箱を抱えたまま、しばらく動けなかった。
宛先の名前を確認した。その名前の住人が、この部屋にかつて住んでいた形跡は確かにあった。郵便受けに古い郵便物が何通か残っていた。消印はずいぶん前のものだった。
では、あの「どうぞ入ってください」は。
純は首を振った。
考えても答えは出なかった。ただ一つだけ確かなことは、あの声がなければ自分はドアを開けなかった、ということだった。
純は段ボール箱を丁寧に玄関の中に置き、不在票を書いて郵便受けに入れた。
職業柄、それだけはきちんとやった。
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帰宅して、純は夕食の途中で箸を置いた。
妻が顔を上げた。
「どうしたの、急に」
「話がある」
「なに、怖い顔して」
「怖い話じゃない。たぶん。……信じてもらえるかどうかわからないけど」
純は最初から全部話した。
二つの月、銀色の草原。師匠のこと。十五年のこと。《蔵》のこと。隠蔽のこと。帰ってきたら十秒しか経っていなかったこと。
そして最後に、空き家のことを話した。
誰もいないはずの部屋から聞こえた声。電源の入っていないインターホン。あの「どうぞ入ってください」が何だったのか、今もわからないこと。
妻は途中から箸を置き、腕を組み、じっと純の話を聞いた。
話し終えると、しばらく沈黙があった。
「見せてくれる?」
「え」
「《蔵》見せてみて」
純はテーブルの上のみかんを一つ、すっと消した。
妻の眉が、ぴくりと動いた。
「出して」
純は出した。みかんは元通りテーブルの上に戻った。
「……もう一回」
純はもう一回やった。
妻はしばらく考えてから言った。
「これ、仕事に使えるんじゃない?」
純は少し拍子抜けした。
「信じてくれるの」
「だって目の前で見たもの。信じないほうがおかしい」
「空き家の声は」
妻は少し間を置いた。
「呼ばれたんじゃない?」
「誰に」
「さあ。でも結果的に、あなたに必要なことが起きたんでしょう」
純はそれ以上聞かなかった。
妻の言葉は、いつもこういう形で純の疑問をきれいに畳んでしまう。体感で正しい。そういう言葉だった。
それが純の妻だった。
---
翌週から、二人は軽自動車一台で宅配業を再開した。
運べないものがなくなった。
大きくても。重くても。壊れやすくても。
荷物は《蔵》に収められ、軽自動車は悠然と走った。
隠蔽の技術のおかげで、妻が荷物を受け取り、何気ない顔でシートに「置く」動作をするだけ、端から見れば普通の積み込みにしか見えない。
依頼人はいつも首を傾けた。
「あの、これ、本当に軽自動車で運べますか」
「はい」
「でもこのサイズが……」
「大丈夫です」
そして荷物は必ず、予定通り届いた。
口コミは口コミを呼んだ。
「あそこに頼んだら、どんな荷物でも届く」
「値段は普通なのに、なぜか安心感がある」
「軽自動車なのに、なぜか」
なぜか、の部分は誰にも解明されなかった。
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その依頼が来たのは、雨上がりの午前中だった。
電話口の声は、最初から尋常ではなかった。
「佐藤さんですか。折り入ってご相談があるのですが」
「はい、どうぞ」
「……笑わないでください」
「笑いません」
「運んでいただきたいものがあるのですが」
「はい」
「巨大な、水槽です」
純は手帳にメモした。水槽。
「縦が五メートル、横が十メートル、高さが三メートルです」
純の手が止まった。
「……もう一度いいですか」
「縦五メートル、横十メートル、高さ三メートルです。中に水が入っています。生き物もいます」
「生き物」
「イルカです。三頭」
純は受話器を持ったまま、妻を見た。妻はお茶を飲みながら、こちらを見ていた。純が「イルカ三頭」と口パクで伝えると、妻は少し考えてからこくりと頷いた。
「承ります」
電話口で息を呑む音がした。
「本当ですか」
「はい。日程を調整させてください」
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依頼主は水族館の改装工事を請け負った業者で、イルカ三頭を旧館から新館へ移動させる必要があった。距離は百五十メートル。しかし間に建物があり、道路を使えば大回りになり、専用の大型輸送車と大掛かりな設備が必要になる。費用は膨大で、工期も延びる。
「どこか運べそうな業者を探していたんです」
担当者は続けた。
「でも……正直、あなた方に連絡したのは半ば冗談のつもりだったんです。口コミに『どんな荷物でも』って書いてあったので」
「冗談でも、承ります」
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当日の朝、純と妻は軽自動車で水族館に乗りつけた。
担当者が駐車場で待ち構えていた。その隣に、現場監督らしき人物が腕組みをして立っていた。二人とも、軽自動車を見て同じ顔をした。
「……これで」
「はい」
「イルカが三頭」
「はい」
「水ごと」
「はい」
現場監督が担当者に耳打ちした。担当者が困った顔をした。
「あの……本当に、大丈夫なんですか」
「見ていただければわかります」
「ただし、あまりじっと見ないでください」
「え?」
「なんとなく、そのほうがうまくいくので」
妻がにこりとした。
「お二人は新館のほうでお待ちになってください。すぐ届けます」
---
担当者と現場監督が新館に移動するのを見届けてから、純は旧館の水槽の前に立った。
縦五メートル、横十メートル、高さ三メートル。水が満杯。イルカが三頭、のんびり泳いでいた。
「どう?」
「いける」
「イルカ、怒らない?」
「そこは丁寧に」
純は水槽全体を《蔵》に収めた。水ごと、イルカごと。
生き物を扱う時は、特に気を遣う。呼吸のこと、温度のこと、揺れのこと。十五年で覚えた繊細な感覚を、純は全部使った。
水槽が消えた。
水族館の旧館に、巨大な空白が生まれた。
---
新館まで、徒歩で二分だった。
純は新館の水槽設置エリアに入り、《蔵》から水槽を取り出した。静かに、丁寧に。水は一滴もこぼれず、イルカは三頭とも元気に泳いでいた。
担当者が声を失っていた。
現場監督も、口が開いたまま閉じなかった。
「お届けしました」
「……どうやって」
「軽自動車で?」
「でも僕たちは新館で待って」
「はい」
「水槽が消えて」
「そうですか」
純は涼しい顔をした。
隠蔽の技術は、運搬中だけでなく、会話の中でも有効だった。何も見ていないのと同じ顔で、当たり前のことのように話す。それだけでたいていの人間は、自分が何を目撃したのか曖昧になる。
「……請求書をください」
担当者は半ば放心しながら言った。
「はい。後ほど」
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その三週間後に来た依頼は、また毛色が違った。
「運んでいただきたいものがあります」電話口の声は低く、慎重だった。
「非常に……デリケートなものです」
「はい」
「美術品です」
「はい」
「鎌倉時代の、木彫りの仏像です」
「はい」
「……国宝です」
純は一拍置いた。
「承ります」
また受話器越しに息を呑む音がした。
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ある寺院が改修工事に入るにあたり、所蔵する国宝の仏像を一時的に別の施設へ移す必要があった。通常であれば専門の美術品輸送業者が、特殊な梱包と恒温車と警備員付きで運ぶ。しかし今回は事情が複雑だった。
「輸送中に外に出したくないんです」
寺の担当者は続けた。
「報道もされたくない。静かに、誰にも知られずに移したい」
「理由を聞いてもいいですか」
「……以前、輸送中に狙われたことがあります」
純は手帳に何も書かなかった。
「わかりました。条件は何ですか」
「振動を与えないこと。温度変化を最小限に。そして、誰にも見られないこと」
「全部できます」
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当日、純は一人で寺に行った。
妻は「私は外で待ってる」と軽自動車に戻った。
純は本堂に通された。
仏像は、思っていたより小さかった。
しかし佇まいは、部屋の空気ごと変えるような重さがあった。八百年の時間が、木の中に圧縮されているようだった。
純はしばらく、ただ向き合った。
それから静かに、《蔵》に収めた。
振動はゼロ。温度は変わらない。純の《蔵》の中は、純が望む通りの環境を保てた。十五年の訓練の、最も実用的な成果だった。
---
移送先の施設に着くと、担当者が待っていた。
純が《蔵》から仏像を取り出すと、担当者は声もなく一歩近づき、隅々まで確認してから、深々と頭を下げた。
「……傷一つない」
「はい」
「温度も、湿度も」
「問題ありません」
担当者はしばらく頭を上げなかった。
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帰り道、純は助手席の妻に言った。
「重かった」
「仏像が?」
「気持ちが」
妻は少し考えてから。
「それはわかる」
二人はしばらく黙って走った。
「でもちゃんと届けた」
「うん」
「それでいい」
純はハンドルを握ったまま、少しだけ笑った。
---
今日も二人は走っている。
軽自動車一台。夫婦二人。荷物の大きさは問わない。貴重品も問わない。移動が難しいものも問わない。
「どうやって運んでるんですか」とたまに聞かれる。
「丁寧に」と純は答える。嘘はついていない。
妻は助手席で次の配達先を確認する。純は今日も十三件の配達を予定している。普通の荷物もある。とんでもない荷物もある。
そしてたまに純は、ふと考える。
あの空き家のインターホンから聞こえた声のことを。
電源の入っていない機械から流れた、あの間延びした「どうぞ入ってください」を。
あれが何だったのか、純には今もわからない。
ただ、こうも思う。
もしあの声がなければ、ドアは開かなかった。異世界にも行かなかった。《蔵》も覚えなかった。今のこの仕事も、なかった。
呼ばれたんじゃない、と妻は言う。
誰に、と純は聞く。
さあ、と妻は答えた。
純にはその「さあ」が、今となっては一番正しい答えのような気がしている。
空は青い。月は一つ。
ただ、純だけは時々、昼間の空を見上げて月を探す。
二つないことを確認してから、またハンドルを握る。
それが純の、小さな習慣になっていた。
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第二話はこちらです
蔵(その二) | 小説投稿サイト「あいぺん」
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