蔵 (二)
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あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)
本文
蔵 (一) | 小説投稿サイト「あいぺん」
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蔵 (二)
その男が現れたのは、雨の降る火曜日の昼だった。
佐藤純が軽自動車の荷台を閉めようとしたとき、背後から声がした。
「やあ」
振り返ると、見覚えのある顔があった。
ひょろりとした体。飄々とした目。ずいぶん若くなっているが、面影は変わらない。
「……師匠」
「久しぶり。三年ぶり? こっちはもっとか」
師匠は傘も差さずに立っていた。雨が肩を濡らしているのに、まったく気にしていない様子だった。
「どうやって来たんですか」
「扉が開いたから入ったら、こっちだった。あの草原の近くに、また開いたんだよ」
純は思い出した。師匠が言っていた言葉が蘇る。扉は一度開いた場所にまた開く。
「ということは」
「そういうこと。で、近くに泊まれるところある?」
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妻が師匠を見たのは、その夜だった。
二人がリビングに座って向かい合っていると、妻が台所から顔を出した。
「あ、師匠さんが来たっていう」
「はじめまして」
妻はしばらく師匠を見てから、純を見た。
「師匠、前より若いね」
「向こうで十五年生きて帰ってきたら、こっちの時間が十秒しか経ってなかったことがある人が言う?」
「それはそうか」
師匠は声を上げて笑った。
「気に入った。この家の人たち」
妻はそれで完全に警戒を解いた。純にはそれがわかった。妻が誰かを「気に入った」と感じると、肩の位置が少し下がる。長年連れ添ってわかったことだ。
その夜、三人で遅くまで話した。
師匠がこちらの世界に来た理由は、特になかった。
「扉が開いたから来た。それだけ」
「向こうはいいんですか」
「誰も困らない。しばらくいてみようと思って」
「いつまで」
「さあ」
純はそれ以上聞かなかった。師匠という人間は、昔からそういう人だった。
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翌日、師匠は不動産屋に行き、タワーマンションの一室を借りた。
純が理由を聞くと「新しい街を見渡せる高いところが好きだから」とだけ答えた。
「……高層階ですか」
「三十二階」
「家賃は」
「聞く必要ある?」
純は黙った。師匠の《蔵》の腕前は、純をはるかに上回る。この世界でどうやって資金を用意したのかは、あまり深く考えないことにした。
次の週、師匠は「暇だから手伝う」と、純の運送屋に顔を出した。
「手伝わなくていいです」
「僕が手伝いたいんだ」
「まあいいじゃない」妻が言った。
それで決まった。
【東京タワーと、もう一本】
依頼の電話は、夜に来た。
「突然のご連絡で申し訳ありません」声は落ち着いていたが、どこか切迫した空気があった。
「明朝、どうしても運んでいただきたいものがあります」
「内容を聞かせてください」
「鉄塔です」
純は手帳を持ち直した。「鉄塔」
「正確には、鉄塔の複製模型です。縮尺十分の一。高さ三十三メートル、重量は八トン近くあります」
「三十三メートル」
「展示のために製作したものですが、事故で搬入ルートが封鎖されてしまいました。明日の朝、式典が始まる前に会場に入れなければなりません」
「場所は」
「都内の展示施設の、屋内アトリウムです。天井高は四十メートルあります」
純は師匠を見た。師匠は夜遅いにもかかわらず、純の家のソファでお茶を飲んでいた。純が「鉄塔、三十三メートル」と口の動きだけで伝えると、師匠は指を三本立てた。
三十分で済む、という意味だと純は解釈した。
「承ります。朝五時に現地でいかがでしょう」
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翌朝、師匠と純は現地に向かった。
依頼人は建設会社の担当者で、純たちを見て明らかに困惑した。
「……お二人だけですか」
「はい」
「機材は」
「不要です」
担当者は視線を逃がしたが、もう時間がなかった。
三十三メートルの鉄塔模型は、郊外の製作所に寝かせた状態で置かれていた。朝靄の中で見ると、それは想像より遥かに巨大だった。スチール製の格子が複雑に組み合わさり、地面の上で長々と横たわっていた。
「重心がずれているな」と師匠が言った。
「わかります?」
「なんとなく。こういうものはここから入れると楽だ」
師匠は鉄塔の中央部に近づき、一点に手を当てた。それからゆっくりと《蔵》に収め始めた。
純は補助についた。
師匠の《蔵》の使い方は、純とまったく異なった。
純の《蔵》は「包む」感覚に近い。対象全体を感じ取り、そのまま内側に引き込む。
師匠の《蔵》は「解く」感覚に近かった。物の在り方をほどいて、別の場所に結び直す、そういう感じがした。
鉄塔が消えた。
製作所の床に、細かい砂埃だけが残った。
担当者は三秒ほど固まっていた。隠蔽ですぐに曖昧になるが。
展示施設に着いたのは、式典の一時間前だった。
アトリウムの中央に、縦長の広大な空間があった。天井から光が降り、床には展示台座がすでに設置されていた。
師匠はアトリウムの中央に立ち、上を見上げた。
「いい空間だ」
「師匠」
「わかってる」
師匠は鉄塔を《蔵》から取り出した。
巨大な構造物が、静かに、まるで最初からそこにあったかのように空間の中に立ち上がった。軋む音も、揺れもなかった。ただ、すっと現れた。
担当者が声を失っていた。
「……水平は」
「見てごらん」
担当者が計測器を取り出して確認すると、水平誤差はゼロだった。
「垂直も」
担当者はしばらく計測器を見つめていた。それから振り返り、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
帰り道、純は師匠に聞いた。
「さっきのは、どうやったんですか。あの静けさは」
「物には、本来の重さがある。それをきちんと返してやれば、暴れない」
「返す」
「そう。無理に置かない。向こうが落ち着く場所に落ち着かせる」
十五年かけて覚えたことの、さらに奥に、まだ続きがあった。
【地下と、水と、根っこ】
その依頼は、役所から来た。
「市の天然記念物に指定されている樹木があります」と担当者は言った。「根がインフラ設備に絡んでしまっていて、このままでは除去しなければならない。しかし市民の反対が強い」
「はい」
「樹の状態を教えてください」
「樹齢二百年を超えるクスノキです。幹周り四メートル以上、高さ二十五メートル、根の広がりは半径十メートル以上と推定されます」
「地下にあるインフラは」
「水道管と、電気の幹線です。根が深く絡み、通常の重機では根を切らずに済みません」
「移植先は」
「三百メートル先の公園です。広さは確保してあります」
純は、妻を見た。妻は別の書類を見ながら「根っこは難しそうね」と呟いた。
「師匠に聞いてみます」
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師匠の返答は「面白い」だった。
現地に行くと、クスノキは想像を超えていた。
幹は人が両腕を広げても抱えきれないほど太く、枝は四方に伸び、その下に巨大な影を作っていた。葉の間から光が差し込むたびに、影が揺れた。二百年という時間が、空気の中に滲んでいた。
師匠はしばらく樹の前に立っていた。
純は黙って待った。
「根が面白い動き方をしている」
「どういう意味ですか」
「この樹、水道管に絡んでいるんじゃない。水道管の水を飲もうとして、寄り添っている。敵じゃなくて、友達だと思ってる」
純には、その感覚が少しだけわかった。
《蔵》を使っていると、物の「意図」のようなものが、ぼんやりと伝わってくることがある。
「切りたくないな」
「切らなくていいです。根ごと移せますか」
「やってみる」
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作業は夜明け前に始まった。
師匠が地面に手を当てた。純は正面から樹を支えた。
根と土と、水道管と電気ケーブルの複雑な絡まりを、師匠は少しずつ、ほどくように《蔵》で扱った。切るのではなく、解く。絡まりを維持したまま、全体をひとつの塊として認識し直す。
一時間かかった。
師匠の額に、珍しく汗が光った。
「重い?」
「重くはない。細かい」
「手伝えることは」
「今は待っていてくれ」
純は待った。
東の空が白み始めた頃、師匠が立ち上がった。
「いける」
クスノキが、地面から離れた。根の先まで、土ごと、水ごと。何も切らずに。
純は樹を正面から支え、師匠が後ろを支えた。二人は寄り添って、一本の巨木を、朝の静けさの中、誰にも気づかれないまま、三百メートル先の公園までゆっくりと運んだ。
公園の、あらかじめ掘られた穴の上に樹が下ろされたとき、葉が一枚、純の肩に落ちた。
「……根が切れてないのか」
担当者が地面を覗き込んで言った。
「はい」
「本当に、全部」
「全部です」
担当者はしゃがんで根の先をしばらく確認してから、顔を上げた。目が赤かった。
「この樹、植えたのが先々代なんです。市に寄付した」
純は何も言わなかった。
帰り道、師匠はずっと無口だった。
しばらくしてから、ぽつりと言った。
「あの樹、嬉しそうだった」
「わかるんですか」
「なんとなく」
純はそれ以上聞かなかった。
【美術品と夜の仕事】
三つ目の依頼は、普通ではなかった。
電話口の声は若かった。
「突然で失礼します。父が……以前そちらにお世話になった者です。仏像を移送していただいた」
純は記憶を辿った。あの寺の、担当者。
「はい、覚えています」
「実は今回は父ではなく、私が個人的にお願いしたいことがあって」
「内容を聞かせてください」
「祖母が集めた絵画があります。私財で集めた、小さなコレクションです。点数は六十点。祖母が亡くなって、コレクションを引き継いだのですが、保管場所が……火事になりました」
「それは」
「幸い、絵は無事です。今は仮設の倉庫に置いてあります。早急に正式な保管施設に移したいのですが、運搬中に状態が変わるのが怖くて。湿度、温度、振動……専門業者にも相談しましたが、なかなか条件が合わなくて」
「わかりました。絵の状態を事前に確認させてください」
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仮設倉庫に行くと、絵は想像より多様だった。
油彩、水彩、版画、日本画。大きさも様々で、中には人の背丈を超えるものもあった。どれも、素人目にも丁寧に扱われてきた形跡があった。
師匠は絵の前を、ゆっくりと歩いた。
「好きだったんだね、集めた人が」
「そう見えますか」
「好みがばらばらで、統一感がない。でも全部、誰かが一生懸命描いたものだ。そういうものを選んでいる」
純は改めて絵を見回した。師匠の言う通りだった。高価そうなものも、そうでないものも、同じように扱われていた。
「全部一度に運べますか」
「できます」
「温度と湿度は」
「変わりません」
「本当に」
「はい」
依頼人はしばらく純を見てから、師匠を見た。
「お二人は、どういう方なんですか」
師匠が口を開いた。
「運び屋です」
それだけ言って、師匠はまた絵の方を向いた。
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搬出は夜に行った。
六十点の絵を、純と師匠で手分けして《蔵》に収めた。
一点ごとに、状態を確認しながら。温度、湿度、向き。絵の具の乾き具合や、支持体の状態も感じ取りながら。
師匠の扱いは、絵に対して特に丁寧だった。
純は途中でそれに気づいた。師匠の動きが、いつもより遅い。
「慎重ですね」
「絵は、一度崩れたら戻らない。樹や石と違う」
「違いますか」
「石は割れても石だ。樹は枯れても土になる。でも絵は……絵じゃなくなる」
師匠はひとつの絵の前で、少し間を置いた。
「描いた人がもういないなら、なおさら」
純は黙って手を動かした。
移送先の保管施設に着いたのは、深夜を過ぎた頃だった。
六十点、全て無事だった。
依頼人が一点ずつ確認して、最後に顔を上げた。
「祖母が喜びます」
「喜んでくれればいいです」
「……本当にありがとうございました」
帰り道、師匠は助手席で空を見ていた。
「師匠」
「うん」
「向こうの世界でも、こういう仕事はしていたんですか」
「似たようなことは。でもここの方が、物の数が多い」
「多い?」
「この世界は物が多い。人が作ったものも、自然のものも。みんな、誰かにとって大事なものを持っている」
師匠は窓の外を見たまま続けた。
「《蔵》がない世界なのに、なんでこんなに大事なものを持てるんだろうと思って」
純はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
《蔵》がない世界。確かにそうだ。この世界の人々は、見えない収納を持っていない。なのにこれだけ多くのものを、丁寧に持ち続けている。
「……それが不思議で、来てみたかったのかもしれませんね」
師匠は少し笑った。答えは言わなかった。
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一年が経つのは、早かった。
師匠は週に三日ほど顔を出し、あとの日はタワーマンションから出ることもあれば、何日も引きこもっていることもあった。何をしているのかは聞かなかった。純も妻も、師匠のペースを自然に受け入れていた。
ある日の昼、師匠が事務所に入ってくるなり言った。
「そろそろ行こうかと思って」
純は書類から顔を上げた。
「向こうにですか」
「いや、こっちをもう少し」
「え」
「この国だけじゃなくて、他の国も見てみたい。海の向こうとか」
妻が台所から顔を出した。
「一人で?」
「一人で」
「言葉は」
「なんとかなる」
「まあ師匠さんならなんとかなるか」
「ご飯は食べてくださいよ」
「食べる」
「無理な依頼は断っていいんですよ」
「面白い依頼は断らない」
「それが心配なんです」
師匠は声を立てて笑った。
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翌朝、師匠はタワーマンションを出た。
荷物は、小さなリュックひとつ。
残りは全部の中に入れているのだろうと純は思った。
純と妻は、マンションの前で見送った。
「世話になった」
「こちらこそ」
「イルカ、元気かな」
「そればっかりは確認しに行けないですけど」
「まあ元気だろう」
師匠は妻に向かって軽く頭を下げた。妻は笑顔で会釈した。
「向こうの世界に帰るときは、また寄ってください」
「扉がどこに開くかわからないからね」
「じゃあもし近くに開いたら」
「そのときは」「またお茶を一杯」
それだけ言って、師匠は歩き出した。
振り返らなかった。
純と妻は、その背中が角を曲がって見えなくなるまで、並んで立っていた。
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「元気そうだったね」
「最初から元気でしたよ、あの人は」
「そうだけど」妻は笑った。
「なんか、こっちの世界を気に入ってくれたみたいで、よかった」
純も同じことを思っていた。
師匠がこの世界で何を見て、何を感じたのかは、おそらく誰も全部は知らない。でも師匠がタワーマンションの三十二階から、毎朝この街を見下ろしていたことは確かだ。《蔵》を持たない人間たちが、大事なものを抱えながら歩いている街を。
「次の配達、何時でしたっけ」
「二時。でも一時間以上あるよ」
「じゃあお昼にしましょう」
「何食べたい」
「なんでも」
「それが一番困る」
「じゃあ、あなたの好きなもの」
「私の?」
「今日はあなたの好きなものを食べる日です」
妻はしばらく純を見てから、くすりと笑った。
「……急に何?」
「師匠がいなくなって、少し感傷的になってるんだと思います」
「正直だ」
「正直な方がいい」
妻は純の腕に自分の腕を絡めた。午後の光が、二人の足元に落ちた。
「パスタ」
「どこの」
「駅前の、ちょっと高いやつ」
「行きましょう」
二人は並んで歩き出した。
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空は青い。月は一つ。
軽自動車は今日も走る。
荷物の大きさは問わない。重さも、形も、問わない。
「どうやって運んでるんですか」とたまに聞かれる。
「丁寧に」と純は答える。
それは今も変わらない。
ただ、この一年で少しだけ変わったことがある。
《蔵》に物を収めるとき、純は時々、師匠の言葉を思い出す。
物には、本来の重さがある。それをきちんと返してやれば、暴れない。
向こうが落ち着く場所に落ち着かせる。
それが、運ぶということだと、今の純は思っている。
届け先で、依頼人が荷物を受け取る瞬間。その顔を見るのが、純はやっぱり好きだ。
妻も同じだと知っている。いつも純より一歩前に出て、荷物を手渡す。その顔は、どの依頼でも同じように、穏やかに笑っている。
「ねえ」
「うん」
「師匠さん、向こうの世界に帰ったら、また若返るんだよね」
「そうなりますね」
「じゃあこっちでしばらく、向こうでちょっといて戻ってきたら、また同じくらいの見た目で来るってこと?」
「理屈ではそうです」
妻が明るい声で言った。
「なんか、すごいね」
純は笑った。
「師匠のことだから、そういうことは全部わかった上で、何も考えずに来てるんだと思います」
「それが一番すごい」
「それが師匠ですよ」
妻もつられて笑った。
車の中に、笑い声が続いた。
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その夜、純は夕食の後でふと空を見た。
月が出ていた。一つだけ。
純は確認してから、また部屋に戻った。
妻がソファで本を読んでいた。
純はその隣に座った。
妻が本から顔を上げずに、少しだけ体を傾けて、純の肩に頭をのせた。
それだけだった。
でも純には、それが今日一番の出来事のような気がした。
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