保育士
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 一話完結・オムニバス
本文
コンビニというのは、不思議な場所だ。
二十四時間、雨の日も風の日も、おでんの匂いをただよわせながら人々を迎え入れる。
純の祖父はそこに夢を見た。
定年後の第二の人生、住宅地のど真ん中に小さな王国を築いたのだ。
ところが本部というのは、加盟店の夢など一顧だにしない。十年ほど経ったある日、撤退の通知が届いた。
「採算が合わない」というたった一行で、祖父の王国はあっけなく幕を閉じた。
理不尽にもほどがある。
そうして空き家になったその物件を、純夫婦が相続することになった。
「どうしようかね」と純は妻に言い、妻は「そうねえ」と言った。
それだけでは話が進まないので、ひとまず現地を見に行くことにした。
住宅地の真ん中に、がらんとした元コンビニが佇んでいる。広い駐車場、白い外壁、引き戸の自動ドアはもう動かない。
純はポケットから鍵を取り出した。祖父から受け継いだ、古びた鍵だ。
錠前に差し込んで、回す。
ガチャリ。
扉が開いた瞬間、純の世界が変わった。
---
気がついたら、空が緑色だった。
「あ」と純は言った。それ以上の言葉が出なかった。
見渡す限りの草原に、遠くには見たこともない形の山。風はやたら甘い匂いがして、どこかで鳥とも虫ともつかない生き物が鳴いている。
手には、しっかりあの鍵を握ったままだった。
異世界というやつだ、と純はわりと素早く理解した。
最初の一年は混乱した。
次の二年はなんとか生き延びることに必死だった。
夜になると、空に月が二つ浮かんだ。
大きな白い月と、一回り小さな赤みがかった月が、並んでゆっくりと移動していく。
最初の頃は眺めるたびに胸が締め付けられた。
月が一つしかない世界に、妻がいる。
早く帰りたい、と毎晩思った。
でも不思議なもので、二年も経つと二つの月が当たり前になってくる。
――そしてその頃、純は子供たちと出会った。
戦や飢饉で親を失った子、魔法が暴走して村を追われた子、ただ迷子になっただけの子。
事情は様々だったが、腹が減って泣いているところは一緒だった。
純は気づいたら世話をしていた。
子供たちと並んで草の上に寝転がり
大きい方を「おじいさん月」、小さい方を「おばあさん月」と呼んで眺めるようになった頃には、この空もそれなりに好きになっていた。
ある日、七つくらいの女の子が純の手を引っ張って言った。
「ねえ、魔力持ってるのに使わないの? もったいない」
「え、俺が?」
「あるよ。ちょっとだけど」
純が戸惑っていると、子供たちがわらわら集まってきた。
この世界の子供たちにとって魔法は、こちらの世界でいえば自転車の乗り方くらい当たり前のものらしかった。
「こうやって、ここに力を集めるの」
と女の子は純の胸の真ん中あたりをとんとんと叩いた。
「それで、ふわっと出すだけ」
「ふわっと」
「そう、ふわっと。難しく考えるから出ないんだよ」
言われた通りにやってみると、純の手のひらにほんのり温かい淡い光が灯った。
子供たちがわあっと歓声を上げた。
「なんだこれ」と純は言った。
「安心の魔法だ」と別の子が言った。
「すごく地味だけど、優しい人しか使えないやつ」
地味、というところを強調されたのが少し引っかかったが
優しい人しか使えない、というところで帳消しにした。
それからは子供たちが先生だった。
泣き止まない子の傍に立って魔法をそっと使うと、しゃくり上げていた声が少しずつ落ち着いていく。
怯えて壁際から動けなかった子が、おそるおそる手を伸ばしてくる。
地味だと思っていた魔法が、こんなに使えるとは思わなかった。
さらに数年経つと、純はもうひとつのことを子供たちに教わった。
「記憶結び」という魔法だ。
「怖かった記憶って、棘みたいになってて触ると痛いでしょ」
と教えてくれたのは、やはりあの女の子だった。
「それをね、こうやってそっと丸くするの。消えないけど、痛くなくなる」
「おまえそんなことできるのか」と純は目を丸くした。
「できるよ。純も練習すればできる」
その子は事もなげに言った。
純は素直に練習した。子供に教わるのは、悪くなかった。
十五年目の最後の夜、純は外に出て空を見上げた。
おじいさん月とおばあさん月が、いつものように寄り添って浮かんでいる。
ありがとう、と純は小声で言った。
誰に言ったのかは、自分でもよくわからなかった。
仲間も増えた。
笑った日も、泣いた日も、あの二つの月がきれいだった夜も、数え切れないほどある。
悪くない十五年だったと、今なら言える。
ただ、帰りたかった。妻のことが、ずっと心にあった。
---
鍵を握りしめていた。
純は元コンビニの中に立っていた。
がらんとした棚、剥がれかけた床のシート、窓から差し込む午後の光。
何も変わっていない。
自分の息遣いだけが聞こえる。
十秒。たった十秒しか経っていない。
十五年分の記憶が体の中にある。
ふと窓の外を見ると、午後の空に月がひとつだけ薄く浮かんでいた。
一つしかない。ちゃんと帰ってきた。
そのとき、後ろで引き戸が動く音がした。
「純、先に入ってたの?」
肩をぽん、と叩かれた。
純は飛び上がるほど驚いて、振り返りざまに「うわっ」と声を出した。
十五年のサバイバルで鍛えた反射神経が、完全に裏目に出た。
「何びっくりしてるの、私よ私」と妻は笑った。
「わかってる、わかってるけど……」
純はなんとか呼吸を整えた。妻は相変わらずだ。変わらない顔、変わらない笑い方。それが無性にうれしくて、目の奥が少し熱くなった。それを悟られないように、純は咳払いをひとつした。
妻はきょろきょろと店内を見回しながら言った。
「ねえ、聞いて。私、いいこと思いついちゃった」
「なに」
「ここ、保育所にしようよ」
純は一瞬、言葉を失った。
「住宅地の真ん中でしょ」と妻は続ける。
「子供いっぱいいるのに、保育所が足りないのよ」
少し間を置いてから、さらに言った。
「それにね、友達のこと知ってるでしょ」
純は知っていた。妻の友人たちのことを。
保育の仕事が好きで、でも結婚したり、あるいはただ年齢を重ねただけで「そろそろ」と肩を叩かれた。
コンビニの撤退と同じくらい理不尽な話だと、純はずっと思っていた。
「駐車場も広いし」と妻は言う。
「子供たち、のびのび遊べるじゃない」
純は窓の外を見た。
緑の空の下で走り回っていた子供たちの記憶が重なる。
そして、ふっと笑った。
「俺も保育士の資格、取ろうかな」
「え、純が?」
「なんか、向いてる気がする」
「急にどうしたの」
「いや、ちょっとね」
鍵をポケットにしまった。
十五年分の話は、いつかゆっくりすることにしよう。
---
それから少しずつ、元コンビニは変わっていった。
白い壁には子供たちの絵が貼られ、駐車場には砂場とブランコが置かれた。
妻の友人たちが戻ってきて、笑い声が増えていった。
夜には並んでテキストを開き、問題を出し合ってはお互いに間違え、笑った。
やがて、子供が生まれた。
最初の子は女の子だった。
抱き上げたとき、純はふと息を止めた。
どこかで見た顔だった。
いや、知っている。
胸の真ん中をとんとんと叩いてきた、あの女の子に――よく似ていた。
「どうしたの」と妻が言う。
純は少し笑って、首を振った。
「なんでもない」
小さな手が、純の指をきゅっと掴む。そのぬくもりに、胸の奥が静かに満ちていく。
鍵ひとつ、十五年ぶん。
遠回りだったが、たどり着いた場所は悪くない。
純は今日も、子供たちと、そして自分の子と一緒に笑っている。
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