うたかた
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 一話完結・オムニバス
本文
その病室には、花が一輪だけ飾られていた。
佐藤 純 が毎週持ってくる、小さな白い花だった。誕生日に大きな花束を買って帰ったとき、妻は嬉しそうにしながらも、「次は一輪でいい」と言った。それから純はずっと、一輪だけ持ってくるようになった。半世紀近く連れ添って、そういう小さなことを、純は今もよく覚えていた。
廊下を歩くたびに、足音が妙に大きく聞こえた。静かすぎるせいだ、と純は思った。病院というところは、音を吸い取るようにできているのかもしれない。それとも自分の耳が、余計なものを拾いすぎているのか。どちらでもよかった。ただ、早く妻の顔が見たかった。
扉を開けると、妻は眠っていた。
小さくなった、とまた思った。会うたびに思う。布団の中の輪郭が、日ごとに薄くなっていくようで、純はそれが恐ろしかった。恐ろしい、という言葉では足りないかもしれない。自分の半分が、少しずつ遠くへ行こうとしている。そういう感覚だった。
白い花を花瓶に差して、椅子を引き寄せ、純はベッドの脇に座った。特に何もしなかった。ただそこにいた。妻がいる部屋にいること、それだけで純はどこか落ち着いた。長い年月をかけて、二人の間にはそういう静けさが育っていた。
しばらくして、妻が目を開けた。
純と目が合うと、笑った。
声にならない笑いだった。口元がほんの少し動いて、目の端に皺が寄って、それだけだった。それだけなのに、純の胸が震えた。どうしてこんなに美しいのだろう、と思った。五十年近く隣にいて、今日もそう思った。
「来てくれたの」
かすれた声だった。でも確かに聞こえた。
「来たよ」
それだけ言った。他に何も言えなかった。言葉をたくさん持っていても、こういうときには何一つ役に立たない。
涙が出た。
こらえようとしたが、こらえることに意味を感じなかった。妻の前で泣くことを、純はずっと避けてきた。心配をかけたくなかったから。でも今は、もうそういうことでもないような気がした。泣いていいと思った。泣くべきときに泣かないで、いつ泣くのだと、どこかで声がした。
純は妻の手を取った。
両手で、しっかりと包んだ。骨ばって、皮膚が薄くなって、血管の浮いたその手を。若い頃はもっと柔らかくて温かかった、などと思いながら、でも今のこの手も同じように愛しかった。この手と歩いた道を、純は走馬灯のように思い出した。初めて繋いだ夜のこと。子供が生まれた朝のこと。喧嘩して、それでも最後には手を繋いで眠った夜のこと。
離したくなかった。
ただそれだけを思いながら、純はその手を握り続けた。
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その瞬間、世界が変わった。
光でも音でも衝撃でもなかった。ただ、静かに、何かが入れ替わった。
気づけば二人は、広い野の上に立っていた。
草が足元で柔らかく揺れていた。風が頬を撫でた。冷たくもなく、暑くもない、どこか懐かしいような温度だった。空は深い紺色で、星が信じられないほど多く、そして月が二つ、並んで浮かんでいた。大きな月と、少し小さな月が、互いの光を邪魔せずに、静かに夜空に共存していた。
純は隣を見た。
妻が立っていた。
ベッドの上の妻ではなかった。布団に沈んでいた妻ではなかった。しっかりと地面を踏んで、背筋を伸ばして、純の隣に立っていた。その顔は、純がよく知っている顔で、その目は、純がずっと好きだった目で、何より、生きていた。
「純さん」
妻が言った。
純は何も言えなかった。ただうなずいた。
「ここ、どこ」
「わからない」
正直に答えた。妻はそれを聞いて、少し考えてから、「まあいいか」と言った。そういう人だった。余計なことを悩まない。受け入れて、次へ進む。純はその強さに、長い間何度も救われてきた。
二人は並んで、二つの月を見上げた。
説明できないことを、説明しようとしなかった。奇跡に名前をつけることより、ただそこで呼吸をしていることの方が、今は大切に思えた。
翌朝、霧の中から世界が姿を現した。
この異世界には、純が知っているどんな場所とも似ていない風景があった。色の名前を知らない花が咲き、見たことのない鳥が鳴き、市場では聞いたことのない言葉が飛び交っていた。食べ物はほとんどが甘く、夜になると空気が少し光った。
妻はすぐにその世界に馴染んだ。
市場の店主と身振り手振りで話し、三日も経てば簡単な言葉を覚え、一週間後には笑いながら会話していた。純が道に迷うと、妻は迷わず正しい方向へ歩いた。「あなたはいつもそう」と言いながら笑った。その笑い方が、五十年前と何も変わらなくて、純は胸が熱くなった。
山を越えたのは、来てから二年目の秋だった。
険しい道だったが、妻は弱音を吐かなかった。純の方が先に音を上げかけた。妻に「もうすぐよ」と言われながら歩き続けると、峠の向こうに、信じられないほど広い湖が広がっていた。水が透き通っていて、底まで見えた。
その夜、二つの月が重なった。
湖の水面が金色に染まった。ゆっくりと、しかし確かに、世界が輝いた。二人は毛布を肩に掛け合って、黙ってそれを見た。言葉は何もいらなかった。純は妻の肩に触れた。妻は純の手に、自分の手を重ねた。
こんな夜が、もう一度あるとは思っていなかった。
純は泣かなかった。泣くより、感じていたかった。
十五年の間に、悲しいことも、苦しいこともあった。何もかもが穏やかだったわけではない。それでも二人はいつも、同じ方向を向いていた。喧嘩した夜も、言葉が足りなかった朝も、最後には隣に戻ってきた。それはこの異世界でも、何も変わらなかった。
変わらないことが、どれほど尊いか。純は年を重ねるほど、それを深く知った。
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十五年が経った頃、空気が変わった。
世界が、また入れ替わろうとしている。純にはそれがわかった。言葉で説明できないが、確かに感じた。妻も感じているようだった。二人は何も言わなかった。
純は妻の手を取った。
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病室だった。
椅子に座っていた。両手の中に、妻の手があった。
何も変わっていなかった。窓の外の木も、差し込む光の角度も、花瓶の白い花も、すべてが十秒前と同じだった。病院の静けさも、廊下のかすかな物音も、何一つ動いていなかった。
世界は、純が握った瞬間から、一切動いていなかった。
妻が目を開けた。
純と目が合った。
二人は、しばらく、ただ見つめ合った。
言葉はなかった。しかし確かに、何かが通った。十五年分の朝が、夜が、風が、湖の金色が、二人の間を静かに流れた。それはどちらの記憶にもあった。どちらの体にも刻まれていた。
一筋だけ、涙がこぼれた。
純の目から。妻の目から。どちらが先だったかは、わからなかった。
妻が口を動かした。
声にならなかったが、純には読めた。
「よかった」
そう言っていた。
純はうなずいた。うなずきながら、また涙が出た。こらえなかった。こらえる理由が、何もなかった。
手を握り続けた。
その手は、骨ばって、皮膚が薄くて、でも温かかった。二つの月の下で握った手と、同じ温かさだった。どちらが夢でどちらが現実か、純にはもうわからなかったし、わからなくていいとも思った。
大切なことは全部、この手の中にあった。
窓の外で、風が吹いた。
枯れかけていた木が、静かに揺れた。その枝の先に、小さな芽が一つ、ついているのが見えた。純は今日初めて、それに気がついた。
白い花が、病室の光の中で、静かに揺れていた。
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