声 (二)
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あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)
本文
声 (一) | 小説投稿サイト「あいぺん」
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声(二)
【祖父】 若い日の 佐藤 信
骨董屋の息子に生まれた男は、二十二歳になっていた。
名前は 佐藤 信。骨董屋の二代目として育てられ、幼い頃から父の背中を見て育った。父は無口な人だったが、客と向き合い、骨董を手に取るときだけは別の顔になった。壺を光にかざし、ゆっくりと深く息を吸い込むようにして、その器が辿ってきた長い来歴を読み取っていた。
「ものには声がある」と父は言った。
「それが聞こえるようになるまで、十年はかかる」
だが父は、信が成人してその域に達するまで生きてはいなかった。
店を継いだのは、自ら選んだというより、そこにいるしかなかったからだ。
その頃、出会った女性が、後の妻だった。細い目をして、よく笑い、骨董には一ミリも興味がなかった。それでも、信は彼女のことが好きだった。
結婚し、 息子が生まれた。
信は毎日、父の残した品々を磨き続けた。だが、声は聞こえなかった。十年経っても、店の中は静まり返ったままだった。
ある晩、店の奥を整理していて、それを見つけた。
父の遺品の木箱の底に、布で丁寧に包まれていたもの。
手のひらに収まる程度の円盤状の物体で、表面には細かな模様が刻まれている。光を当てると、内側からじわりと輝き出すような、不思議な白さを持っていた。
初めて見るのに、どこかで見た気がした。
その不思議な感覚を、後になって孫の純も感じることになるとは、このときの信には知る由もない。
円盤を手に取った瞬間、白い光が、少しずつ強くなっていった。
気づいたら、そこには見たこともない空があった。月が二つ、並んで浮かんでいた。
【佐藤 純】 骨董店にて
純と彼女が骨董店を継いで、三年が経った。
ある日、 見たこともない老人が店を訪れ、「祖父が向こうにいる」と教えてくれた。それからひと月、純はその言葉をまだ完全には咀嚼しきれずにいた。
「向こうの世界にいる」ということの意味を、どう受け取ればいいのか。
祖父は、こちらの時間では三十年以上前に、家を出たまま「消えた」きりだった。
残された祖母は、最初の五年は、ただひたすらに帰りを待った。次の五年は、待ちながらも必死に店を守り続けた。
しかし、骨董の専門的な知識を持たない者にとって、それ以上の継続は無理だった。
息子――つまり純の父は、祖母とともに、同じように長い時間を待ち続けた。
祖父は生活のためにと、いくつかの価値ある骨董品を祖母に残していったため、当面の暮らしに困ることはなかったが、それでも家の中には停滞した時間だけが静かに積み重なっていった。
その間ずっと、祖母は何か、自分たちの知らないことを知っていたのかもしれない。
純はどうしてもそれが引っかかっていた。
「ばあちゃんに聞きに行こう」と彼女が言ったのは、ある朝のことだった。
「俺も考えてた」
「だと思った」
二人は同じことを考えていた。十五年分の時間を共にしてきた二人の呼吸は、吸い込まれるように揃っていた。
祖母は、隣町の老人ホームにいた。
八十を過ぎ、足腰こそ弱くなっていたが、その意識ははっきりとしていた。純と彼女が顔を出すと、いつも嬉しそうに目を細めた。何より、骨董店が今も続いていることを喜んでいた。
「純ちゃん、大きくなったねえ」
会うたびにそう言う。純はもう三十を過ぎていたが、祖母にとって孫はいつまでも、愛おしい子供のままらしかった。
「ばあちゃん、少し話を聞かせてほしいんだけど」
「なんでも聞きなさい。隠すことは何もない」
そう言って、祖母は窓の外に広がる景色を見た。
「じいちゃんのこと」
祖母は、じっと庭を見ていた。
やがて、静かに口を開いた。
「あの人はね」と祖母は言った。
「消えたんじゃないよ。行ったんだ」
【祖父】 向こうの世界へ
光が収まると、佐藤 信 は古びた石畳の上に立っていた。
そこは広場だった。見上げれば、月が二つ並んでいた。
周囲に人影はなかった。継ぎ目から伸びる草が月明かりに照らされ、どこか遠くで水が流れる音が静かに響いていた。
「初めて来た人ですね」
声がした。振り向くと、そこには一人の老人が立っていた。その瞳は深く、すべてを見透かしているようだった。
「ここは……」と信は聞いた。
「名前はない」と老人は答えた。
「名前をつけると、消えてしまう場所なので」
信は手の中の円盤を握りしめたまま、広場を見回した。木造の建物が並び、どこかで灯りが小さく揺れていた。
「帰れますか」
「帰れます」と老人は言った。
「ただ、帰ったとき、こちらの時間はそのままあちらに積まれる。あなたがここにいる時間の分だけね」
「どういう意味ですか」
「あちらの世界では、あなたがいなかった時間を誰かが生きている。その空白は、誰かの年齢として刻まれる。あなた以外の、大切な誰かの」
信は、その言葉の重さを理解するまでに、少し時間がかかった。
「妻が……年を取る」
「そうです」
「子供も」
「そうです。あなた以外の、すべての人が」
佐藤は円盤を見た。白い光はもう消え、表面の模様が月明かりに静かに光っていた。
「帰ります」と言いかけた。
「ただし」と老人は続けた。
「あなたがここで覚えたことは、帰ってから使えます。ものの声が聞こえるようになる。あちらでも、こちらの世界で見たものは、声を持つのです」
「ものの声……」
父が言っていた言葉だった。十年かかると言っていた、あの境地。
「ここにいれば、聞こえるようになりますか」
「人によります」と老人は言った。「でも、あなたはきっと聞こえるようになる」
信は、もう一度月を見上げた。二つの月が並び、広場に複雑な影を落としていた。
「少しだけ、いてもいいですか」
【佐藤 純】 祖母の話
「あの人はね」と祖母は言った。
「行く前の晩に、話してくれたんです」
純と彼女は、息を潜めて聞いていた。
「『お前を年寄りにしてしまうかもしれない。帰ってきたとき、お前が随分年をとっていたらごめん』と。そう言ったんです」
「どういう意味か、そのとき分かりましたか」と純は聞いた。
「わからなかったわ。でも、あの人の顔を見て、それが嘘じゃないことはわかった。本気で言っている顔だったから」
祖母はそこで、ふっと懐かしそうに笑った。
「どれだけ私が年をとっても、帰ってきてくれるなら待つ。待ちながら、店を守る。でも一つだけ条件がある、と伝えました」
「条件……?」と彼女が聞いた。
「帰ってきたとき、私の名前を呼んでくれと。どれだけ年を取っていても、私だとすぐわかるように」
窓の外で、庭師が木の枝をパチンと切る音がした。
「あの人は、笑って頷きました。翌朝、私が目を覚ましたら、もういなかった」
純は何も言えなかった。
「それが、三十二年前のことです」
三十二年。祖母は、ただその約束だけを信じて、三十二年間待ち続けた。
「じいちゃんは、帰ってきませんでした」と純は言った。それは重い事実だった。
「そうです」と祖母は静かに言った。
「でも、それがどういうことかは、なんとなくわかってる。あの人が帰ってこないということは、まだ向こうにいるということでしょう。向こうの時間は、こちらと違う。あの人が言っていたのは、そういうことでしょうから」
「怒ってないんですか」と彼女が聞いた。
祖母はまた笑った。今度は、少しだけ苦みのある笑い方だった。
「怒ってないといったら嘘になる。息子を育て、店を一人で守って……。だいぶ怒りましたよ」
「そうですよね……」
「でもね」と祖母は続けた。
「あの人がいた頃のことは、ぜんぶ覚えてる。手の温かさ、寝るときの呼吸、朝ご飯のときに新聞を広げる癖。そういう記憶を、私は三十二年間大切に持ってきた。それが、私の『あの人』だから」
純は窓の外を見た。庭の木が風に揺れている。
「純ちゃん」と祖母が言った。
「あなた、何か知ってるんでしょう」
純は正直に話した。自分と彼女が向こうへ行ったこと。そこで十五年を生きたこと。戻ればこちらでは十秒しか経っていなかったこと。老人が店に来て、祖父がまだ向こうにいると教えてくれたこと。
祖母は目を閉じて、静かに聞いていた。話し終わると、しばらくの間、部屋は沈黙に包まれた。
やがて、祖母が言った。
「向こうにいるんですね」
その声に、怒りはなかった。あったのは、安堵だった。三十二年間抱え続けてきた問いに、ようやく答えを受け取ったような、そんな顔だった。
「帰ってきたら」と祖母は言った。
「私の名前を呼ぶと約束してるから。あの人は、約束を破る人じゃなかった。だから、まだ帰れない理由が、きっとあるんでしょう」
【祖父】 歳 月
老人に連れられて、信は一つの工房へ行った。そこで、ものの声の聞き方を学んだ。
!父は、十年かかると言っていた。だが信には、三年でそれが聞こえ始めた。
正確に言えば、耳で聞くのではなく、指先で感じるのだ。手に触れると、温度とも振動とも違う何かが伝わってくる。その器がどこで生まれ、誰の手を渡り、どれだけの時間を越えてここに辿り着いたか。そんな記憶が、薄い霧のように浮かび上がってくる。
向こうの世界には、古いものへの敬意が空気に溶けていた。日常の中で、骨董たちが自然に息をしていた。偽物を作る者もいたが、本物との決定的な差は、「声」があるかどうかで決まった。
信は、確実に本物を見分けられるようになった。十年ほど経つと、向こうの街でもその名が知られ始めた。
そして、十七年の歳月がすぎようとする頃、若い女と若い男が、突然広場に現れた。
石畳の上に、埃だらけのエプロンをつけて、女はマスクを顎まで下げて立っていた。
信はその二人を見た瞬間、奇妙な感覚に襲われた。初めて会うはずなのに、どうしようもなく懐かしい気がした。
それが純だとは、すぐにはわからなかった。
自分の孫がどんな顔をしているか、信は知らなかった。自分が消えたのは、孫が生まれる前。息子がまだ若かった頃だ。孫の存在は、頭の中の時間の計算でしか知らなかった。
だが、その二人がこの世界でどう振る舞うかを見るうちに、信は確信を深めていった。
古いものに触れたとき、ふっと指先が止まる。その仕草が、どこか自分に似ていた。
若い女が、泥棒を追い払った夜。信は工房の影から見ていた。彼女の立ち方には、恐れがなかった。古いものの声を聞いた者だけが持つ、静かな自信が宿っていた。
男が棚を押して、本物を素早く守ったとき。その体は、考えるより先に動いていた。
信は、老人の元へ行った。
「あの二人は、何者ですか」
老人は深く笑った。
「会って確かめますか?」
「いや……まだいい。もう少し、見ていたい」
二人はその世界で十五年を生きて、帰っていった。こちらの時間では、わずか十秒。信はそれを、老人から教わって知っていた。
二人の後ろ姿を、信は広場の端から見送った。距離は遠く、顔までは見えなかった。
だが、男の背中が、骨董品を愛おしそうに眺めるその角度が、若い頃の自分と重なった。
その夜、信は初めて強く思った。
「帰りたい」と。
【もう一通の手紙】
老人が二度目に店を訪れたのは、純たちが祖母を訪ねた翌週のことだった。
今度は、一通の封書を携えていた。
「先日お話ししたこととは別件です。こちらはお祖母さんへ、とのことです」
封書には、向こうの世界の文字で何かが記されていた。純はそれを受け取ると、老人をまっすぐに見つめた。
「祖父は……帰りたいと思っていますか」
老人は、しばらく純の目を見ていた。
「帰りたいと、願っておられます」と老人は言った。
「帰れない理由があるというよりは、帰るべき頃合いを、計っておられるようです」
「頃合い?」
「あなたのお祖母さんが、今もまだ待ってくれているかどうか。それを確かめる術が、向こう側にはありません。それを確かめずに帰るほど、あの人は無神経な方ではない。私はそう思っています」
純は封書を見た。封は閉じられていなかった。向こうの文字で書かれた、薄い紙が一枚。三十二年間、この紙一枚を届ける術がなかったのだろう。
「届けます」と純は言った。
祖母は封書を受け取ると、しばらくの間、無言でそれを見つめていた。
「……読めませんね」と祖母は言った。
「でも、これを持っていてもいいかしら」
「もちろんです」
「読めなくてもいい。あの人が書いたものなら、それだけでいい」
彼女が横で、静かに涙を拭った。
純は窓の外を見た。
「ばあちゃん」と純は言った。
「俺、もう一度向こうへ行くつもりだよ」
「じいちゃんに、伝えることがあれば」
「……私は元気だと伝えてください。それだけでいい。元気だから、ゆっくりしておいでと」純は深く頷いた。
帰り道、彼女は純の隣を歩きながら言った。
「強い人だね」
「そうだな」
「あなたのばあちゃんだからかな」
純は何も答えず、夕焼けに染まっていく空を見上げた。
【祖父】向こうでの年月
向こうの世界で、信は骨董を扱い続けた。
こちらの時間とあちらの時間がどれほどずれているか、正確にはわからなかった。老人に聞いても、「誰にもわからない」と言うばかりだった。一年が十秒のこともあれば、一日が一時間のこともある。
だから、信は計算をやめた。計算をしたところで、募る想いは変わらなかったからだ。
妻が、息子が、刻一刻と年を取っていく。それを知りながら、自分だけが変わらずにここにいる。
その重さを、信は毎晩胸の中に抱いて眠った。
ものの声がさらに鮮明に聞こえるようになったのは、たぶんそのせいもあっただろう。重いものを持ち続けている人間には、同じように重いものを背負ったものの声が聞こえる。向こうの老人が言っていた。
時間の重さを知っているからこそ、長い時間を越えてきたものの声がわかる。
純と彼女が帰った夜、信は工房の棚を一人で整理していた。
翌朝、二人が消えた広場を訪れた。石畳には何の痕跡も残っていなかったが、世界が少し変わった気がした。棚の骨董たちが、いつもより明るく見え、声も少しだけ賑やかになった気がした。
老人が来て言った。
「お孫さんが帰りましたよ」
「知っています」
「会わなかったのですか」
「……遠かったから」
「会おうとしなかったのでしょう」
と老人は見抜いたように言った。
「帰りますか」と老人が聞いた。
「まだ」と信は言った。
「妻が本当に待っているか、確信が持てない」
「確かめるには、帰るしかないでしょう」
「でも……もし、待っていてくれたとして」
老人が静かに信を見た。
「妻は随分と年を取っているはずだ。なのに俺は、ほとんど変わっていない。それは、俺だけが時間を盗んで、ずるいことをしたのと同じじゃないか」
老人は長い間黙っていたが、やがて口を開いた。
「その問いを、三十年以上も持ち続けてきたのですね」
「ああ」
「それが、あなたのその白髪ですよ」
信は自分の髪に手をやった。ここに来たときは黒かった髪が、今は根元まで白くなっていた。
「時間は、積まれているのですよ」と老人は言った。
「あなたの身体には積まれなかったかもしれないが、あなたの心には確かに積もった。その白髪は、あなたが三十年以上の歳月の重さを背負って生きた、動かぬ証拠です」
【純】 二度目の扉
円盤を博物館から借り出した夜、純は店の棚の前で彼女と並んでいた。
「怖くないか」と純が聞く。
「怖いよ」と彼女は答えた。
「でも、行く」
「また十五年かかるかもしれない」
「わかってる」
「店は?」
「父さんに頼んである」
純は彼女を見た。
純の持つ円盤の白い光が、少しずつ、力強く脈打ち始めた。
店の棚を見渡す。江戸の染付、桃山の鉄釉、渡来の青磁。それぞれの声が、静かに部屋に満ちていた。祖父が向こうで覚えた目によって選ばれ、受け継がれてきたものたちが、じっとそこにある。
伝言がある。
ばあちゃんは元気だ。待っている。ゆっくりしておいでと言っている。でも、帰ってきてほしいと、心から願っている。
それだけは、俺が届けなきゃいけない。
「行こう」
白い光が、部屋のすべてを包み込んでいった。
【祖父】 再会
広場に、二人が現れた。
今度は昼間だった。二つの月は見えなかったが、空はこちらの世界よりも深く、青かった。
佐藤 信 は広場の隅に立っていた。
二人が広場に降り立ち、周囲を見回す。やがて男が、信の方を見た。目が合った。
男はしばらくの間立ち尽くしていたが、やがて、ゆっくりと歩み寄ってきた。女もそれに続く。
近づくにつれて、信には男の顔がはっきりはっきりと見えてきた。息子には似ていない。若い頃の自分に、生き写しだった。
「じいちゃん」と男が言った。
すぐには答えられなかった。三十年以上ぶりに聞く、生身の人間が発する「じいちゃん」という響き。
「純か」と信は言った。
「そうです」
「大きくなったな……お前が生まれる前に、俺はいなくなってしまったから」
「知ってます」
「父さんは?」
「元気です。ゴルフばっかりしてますよ」
信は思わず笑った。息子がゴルフに興じる姿など、まったく想像もしていなかった。
「母さんは……」と信は言った。
胸の奥に、三十年分の重みが一気に押し寄せてきた。
「会いたいですか」と純が言う。
「ばあちゃんは、元気だと伝えてくれって言ってました。ゆっくりしておいでって」
信は、しばらくの間空を見上げた。
「帰る」と信は言った。
「一緒に?」
「ああ、一緒に」
三人で、円盤の前に立った。再び光が満ちていく。
気づけば、店の中、慣れ親しんだ棚の前にいた。時計を見れば、やはり十秒も経っていなかった。
三人はしばらくの間、無言でそこに立ち尽くしていた。棚の骨董たちが、いつもよりどこか賑やかに感じられた。
「ここが……」と祖父が呟いた。
「じいちゃんの店です。今は俺たちが継いでます」
祖父は棚をゆっくりと見回し、一つひとつの品を指先で愛おしそうに触れた。染付、鉄釉、青磁。指が止まるたびに、何かを聞き届けるような表情を見せた。
「声が、聞こえますか」と純が聞いた。
「聞こえるよ」と祖父は答えた。
「お前もか」
「はい、聞こえます」
「この人も?」
「私も」と彼女が微笑んだ。
祖父はもう一度棚を見渡し、深く息を吸い込んだ。
「よかった。ちゃんと、続いてたんだな」
隣町の老人ホームへ向かう車の中。
祖父は後部座席から、食い入るように窓の外を見ていた。流れていく日本の景色。コンビニの看板、LEDに変わった信号、高くそびえるビル群。
「ずいぶん変わったな」と祖父が言う。
「変わっていないところもありますよ」と純は答えた。
「どこが」
「骨董の価値は変わっていません。本物は、今もちゃんと本物です」
祖父は、少しだけ満足そうに笑った。
老人ホームの廊下を、三人で歩く。
部屋の前まで来て、純がノックをした。
「どうぞ」と、聞き覚えのある祖母の声がした。
祖母は窓際の椅子に座り、午後の光を浴びていた。顔を上げ、純と彼女を見て、その後ろにもう一人の影があることに気づいた。
祖母の動きが止まった。長い、長い沈黙が流れた。
「……おかえり」と祖母。
「ただいま」と祖父。
約束の名前を呼んだかどうか、純には聞こえなかった。そっとドアを閉め、廊下で彼女と並んで壁にもたれた。
廊下の窓から差し込む光の中で、埃がゆっくりと踊っていた。
時間が、また新しく積み重なり始めた。
骨董というのは、時間が形になったものだと純は思う。
誰かが作り、誰かが使い、大切にされ、手放され、それでも存在し続けている。その長い旅路の記憶が、時間としてものの中に積まれていく。
だとすれば、佐藤家の骨董店は、時間の墓場ではない。時間の住処だった。
純と彼女は今日も、持ち込まれるものに触れ、声を聴く。本物を見分ける。向こうの世界で養った目と、祖父から受け継いだ耳を信じて。
たまに、祖父も店に顔を出す。棚を見て回り、声を聞き、何も言わずに帰っていくこともある。話していかないのかと純が聞くと、「ものに話しかけてた」と祖父は言う。
「返事は?」
「……した」
祖父は、いたずらっぽく微笑んだ。
店の奥には、あの円盤状の白い物体が戻っている。
博物館に戻すべきか迷ったが、担当の学芸員に事情を話すと、彼はしばらく考えた末にこう言った。
「佐藤さんのところで保管してもらうのが、一番いいかもしれません。あれは、あそこにあるべきものな気がしますから」
今は棚の隅に静かに置かれている。光もなく、声も聞こえない。ただ、そこにある。
純は毎朝、その前を通るとき、ふっと足を止める。
手は触れない。触れなくてもわかる。
長い時間を越えてきたものが、今、ここで静かに息をしている。