声 (一)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)
本文
声 (一)
埃というのは、時間が積み重なったものだと純は思う。
だとすれば、佐藤家の旧骨董店は、時間の墓場だった。
「ねえ、これ、本当に全部やるの?」
彼女がマスク越しに声を漏らした。エプロンの胸元は、すでに灰色に染まっている。
「父さんが言うんだから、仕方ない」
「お父さん、自分ですればいいのに」
「骨董に興味がない人間には、ここはただのゴミ屋敷だから」
父はそう言い捨てて、颯爽とゴルフへ出かけた。
純にとってゴルフも骨董も等しく縁遠い存在だが、少なくとも骨董は逃げない。たぶん。
祖父が残した店舗は、自宅の前半分を占めている。
棚という棚に、壺、掛け軸、木箱、歪んだ金属の塊、さらに正体不明の陶器が所狭しと並んでいた。
祖父の存命中はそれなりに名が通っていたらしいが、純が物心ついた頃には、そこはすでに埃の神殿と化していた。
ときどき純は、この店が静かに息をしているような気がした。棚の奥から、何かがこちらをじっと窺っているような。もちろん口には出さない。言えば彼女に笑われる。
「爺ちゃん、何でも集めすぎだよ」
純はひとつひとつ、布で拭きながら独り言のようにつぶやく。
「でも、面白いね」
彼女は意外にも楽しそうだ。
「これ、江戸時代のやつじゃない?」
「わからん。俺に聞くな」
布を動かすたびに、埃が舞った。差し込む光の筋の中で、埃の粒がゆっくりと踊っていた。
――二時間ほど経った頃、ようやく奥の棚まで辿り着いた。そこで彼女が足を止めた。
「ねえ、純。これ……見て。綺麗」
棚の隅、他の雑多な品々に押し込められるようにして、それはあった。
手のひらに収まるほどの円盤状の物体で、表面には細かな模様が刻まれている。光を当てると、内側からじわりと輝きが滲むような、不思議な白さだった。
純はそれを見た瞬間、奇妙な感覚に捉われた。初めて見るはずなのに、どこかで既に出会っている気がした。夢の中で、あるいはもっと遠い場所で。
思わず、顔を近づけた。
二人で、それをじっと見つめた。
物体の放つ白い光が、少しずつ、熱を帯びるように強くなっていく。
次の瞬間、足元から床が消えた。
落ちた、という感覚はなかった。
ただ、気づいたときには、頭上に空が広がっていた。
その空には、月が二つ浮かんでいた。大きい月と小さい月が、互いに引き合うように寄り添っている。二つの月明かりが交差する場所にだけ、地面に奇妙な影が落ちていた。十字ではなく、もっと複雑な、見たこともない紋章のような影が。
純と彼女は、石畳の広場に立ち尽くしていた。エプロンもマスクも、あの店の埃にまみれたまま。
周囲には重厚な木造の建物が並び、人々が行き交っている。誰もが何かしら古いものを手にしていた。壺を抱えた者、布で包んだ長いものを背負った者、小さな箱を両手で捧げるように歩く者。
そこは、若い顔ばかりが溢れる街だった。
「ここ、どこなの」
彼女が言った。マスクはすでに顎まで下げられている。
「わからん。だが……月が二個ある」
「それより、私たちの格好。浮いてない?」
「向こうも似たようなもんだ」
街の人々は、純たちを見ても驚く様子はなかった。むしろ、彼らが来るのを待っていたかのように、にこやかに会釈を返してくる。その顔には、懐かしいものに再会したときのような、柔らかな慈しみが湛えられていた。
純は再び、あの感覚を覚えた。初めて訪れた場所なのに、ようやく帰ってきたような――。
その世界では、古いものに価値があることは、疑いようのない自明の理だった。
街の人々は二人を工房へ招き入れ、ものの見方を授けてくれた。陶器の肌合い、金属の錆に宿る色、木目の走り方、漆の重なりの深み。本物と偽物の差を、手で触れ、匂いを嗅ぎ、光にかざして判別する術を。
不思議なことがあった。
純が本物に触れると、指先から確かな拍動のようなものが伝わってくる。温度でも振動でもない、もっと別の何かが。その器がどこで生まれ、誰の手を渡り、どれだけの歳月を越えてきたか。そうした記憶が、薄い霧のように脳裏に浮かび上がる。
彼女も同じだったらしく、ある夜、二つの月を見上げながら言った。
「ものが、喋っている気がする」
「……俺もだ」と純は答えた。
二人はそれ以上、説明を求めなかった。その必要がなかったから。
そしてある日、事件が起きた。
街外れの工房に、三人組の男が押し入った。棚に並んだ古い器を、乱暴に袋へ詰めようとしている。工房の持ち主は、ただ困り果てた顔で立ち尽くしていた。
「ちょっと待って」
彼女が毅然と進み出た。
「おい」
純が止めようとしたが、もう遅かった。
彼女は微塵も怯えていなかった。それどころか男たちの前に立ちはだかり、器を一つひとつ指差した。
「これは本物。これも本物。……でも、これは偽物よ。本物を盗んでも、あなたたちにはその声が聞こえない。ただ重いだけの石ころと同じだわ」
男たちが、不審そうに顔を見合わせた。
そこへ純が、横から棚を軽く突いた。雪崩のように偽物の器が床に滑り落ち、男たちの足元を包囲した。転びはしないが、身動きが取れない。その隙に純は、本物だけを素早く工房の奥へと移した。
男たちは呆気に取られ、何も持たずに逃げ去っていった。
「今の動き、どこで覚えたの?」
彼女が純に尋ねた。
「わからない。だが、自然と体が動いていた」
その夜、二つの月は寄り添い、いつもより少し明るく広場を照らし出していた。
十五年が過ぎた。
気づいたときには、二人は元の場所に立っていた。
棚の前。例の円盤状の物体の前だった。
マスクも、埃のついたエプロンも、何一つ変わっていない。外からは遠く車の走行音が聞こえる。世界は何事もなかったかのように続いていた。
「帰ってきた」
彼女がつぶやいた。
「ああ」
時計に目をやった。向こうへ飛んだ時刻から、わずか十秒しか経っていなかった。
二人は改めて、その円盤状の物体を見つめた。
もう光ってはいなかった。あの白い輝きは完全に消え失せ、今はただの古びた円盤としてそこにある。
何か大きな役目を果たし終え、静かな眠りについたようにも見えた。
手に取って、表面を凝視した。細かな幾何学模様だと思っていたものは、よく見れば緻密な文字だった。
「これ……」
純が指でなぞる。
「日本語じゃないわね」
彼女が言った。
「ああ。向こうの世界の言葉だ」
静まり返った店の中に、時間がゆっくりと戻ってきた。
その後、二人で店中の品々を見直した。
父がゴミと吐き捨てたもののほとんどは、真実、価値あるものだった。江戸期の染付、桃山時代の鉄釉、朝鮮半島から渡ってきたと思われる青磁。触れるたびに、微かな、だが確かな声が届いた。純にも、彼女にも。
「父さん、これゴミじゃないよ」
純は父に告げた。
「そうなのか?」
ゴルフから帰ったばかりの父は、汗を拭いながら無造作に言った。
「なら、お前の好きにしろ」
純と彼女は結婚し、骨董店を正式に継ぐことになった。
二人の目は、恐ろしいほどに確かだった。全国から持ち込まれる品々を前に、本物だけを見抜き、その真の価値を世に知らしめた。やがて店は有名なオークションハウスの常連となり、祖父の代に放っていた輝きを取り戻した。
純と彼女だけが知っている秘密がある。ときどき、本当にごく稀に、ものが向こうから話しかけてくる。それは誰にも明かしていない。
あの円盤状の物体は、二人で相談した末、近くの博物館に預けることにした。
「個人で所有するには、少し手に余るので」
純はそう言って、学芸員に手渡した。
「何か、特別なことが起きるのですか?」
学芸員が不思議そうに尋ねる。
「……いろいろ」彼女が微笑んで答えた。
それは今、博物館の収蔵庫で安全に眠っている。
担当の学芸員が、収蔵庫に入るたびに妙な感覚を覚えるという噂も、純の耳には届いていた。だが、純は何も語らなかった。
ただ、一つだけ。
二人には、どうしても解けない疑問が残っている。
向こうの世界の言葉が刻まれたあの物体を、祖父はいったいどこで手に入れたのか。
そもそも、祖父は何者だったのか。
店の奥に、祖父の写真が一枚飾ってある。まだ若い頃に撮られたものだ。
純はときどき、その写真の前に立つ。
穏やかに微笑む祖父の背景には、見覚えのある石畳が、ほんの少しだけ写り込んでいる。
そして純は最近、もう一つの事実に気がついた。
祖父の手には、何か光を帯びたものが握られている。
小さく、円く、そして白い――
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