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安全装置

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/4/20 📚 シリーズ: 終わりより手前で 📝 5,648文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

幽霊、感染、呪い、事故、時間錯誤。 姿は違っても、その恐怖はいつも同じ場所に辿り着く。 戻れないこと。自分でなくなること。自分では止められないこと。 これは、失われる過程そのものを描くホラー短編集。

本文

 最初の異変は、転びそうになったときだった。

 雨の帰り道、駅の階段で足が滑った。濡れた革靴の底が、手すりのない空間に向かって、あまりにも軽く裏切った。あ、と思ったときには、もう体が落ちる角度に入っていた。

 だが落ちなかった。

 私の右足は、私が命じるより先に、一段上へ踏み直していた。左手は壁を掴み、肩は自然に回り、肺は息を止め、背骨は衝撃に備えて丸まった。まるで訓練された兵士のような、いや、兵士よりずっと機械的な動きだった。

 助かった。

 助かったのだが。

 階段の途中で固まったまま、私は妙な気分になっていた。

 いまの動きは、あまりにも正確すぎた。反射というには洗練されすぎていて、偶然というには意図があった。私の体は、私が「危ない」と認識するより先に、もう「対処」を終えていた。

 その夜、ニュースで市の広報が流れていた。

『転倒・転落事故を未然に防ぐ生活補助施策、“セーフ・ステップ”の導入が、今月より全域で開始されました。微弱な電気刺激によって筋反応を補助し、高齢者のみならず、すべての市民の安全を支えます』

 画面の中で、老人が笑っていた。

 杖を手放し、階段をすいすいと降りていく。ナレーションがやけに明るい。

『あなたの一歩を、街が支えます』

 私はそのとき、自分の首筋に貼られた透明なパッチを思い出した。

 一週間前の健康診断の後、流れ作業で渡されたものだ。

「転倒予防のための試験導入です。無料ですよ」

 看護師はそう言っていた。私は大して気にも留めず、その場で貼って帰った。

 まさか、と思った。

 だが、まさに、だった。

 それから私は転ばなくなった。

 階段でも、風呂場でも、濡れた横断歩道でも、電車の揺れでも。体が勝手に最適解を選ぶ。躓きかけても膝が自動で角度を変え、ぶつかりそうになれば肩が半歩引く。寝ぼけてベッドから落ちそうになったときなど、夢の中の私はまだ空を飛んでいたのに、現実の腕はもうシーツを掴んでいた。

 便利だった。

 実際、安全だった。

 死から遠ざかるというのは、それだけで正義らしい。

 職場の同僚も似たようなことを言っていた。

「最近さ、事故減ったよな」

「救急搬送も減ってるらしいよ」

「いいことじゃん。人間、脆いし」

 その通りだと思った。

 人間は脆い。骨は折れるし、頭は打てば終わる。階段ひとつ、浴槽ひとつ、ちょっとした油断であっけなく死ぬ。そんな理不尽な設計に比べれば、少しばかり体を先回りされるくらい、大した代償ではない。……そのはずだった。

 次の異変は、箸だった。

 夕食の鮭を食べようとして、私は右手を伸ばした。だが箸は鮭ではなく、味噌汁の椀へ向かった。私は一瞬、手元を見た。間違えたのかと思った。疲れているのだろう、と。

 けれど、その次も、その次もそうだった。

 塩分。

 水分。

 野菜。

 咀嚼回数。

 体が、勝手に順番を決めていた。

 私は試しに、ポテトチップスの袋に手を伸ばしてみた。指先が、袋の手前で止まった。

 止まったというより、止められた。

 見えない誰かが、私の手首を軽く掴んでいるような抵抗。力ずくではない。暴力ではない。

 ただ、動かない。

「……は?」

 自分の口から出た声が、妙に幼く聞こえた。

 私は左手で右手首を掴み、無理に袋へ伸ばそうとした。右腕の筋肉がぴくぴくと震えた。けれど、伸びない。関節の角度が、絶妙なところで固定されている。無理をすれば捻挫するのは私の側だと、身体の深いところが理解してしまっていた。

 代わりに右手は、机の上のペットボトルの水を掴んだ。

 私の意志ではない。

 だが、私の手だ。

 ごくり、と喉が鳴った。

 その瞬間にわかった。

 これは補助なんかじゃない。

 これは、私より先に私を使う何かだ。

 市の相談窓口に電話をした。

「それは行動補正フェーズですね」

 女の声は落ち着いていた。気味が悪いほど、よく訓練された声だった。

「利用者の健康と安全を総合的に保全するため、危険行動や長期的損耗に繋がる動作を軽度に補正いたします」

「聞いてない」

「初回同意書の八ページ目に記載が」

「八ページ目?」

「はい。生活習慣病、転倒、衝動行為、自傷、事故、急性症状、その他生命維持に関わるリスクを包括的に管理する旨が」

「そんなもの読ませる気のない字で書いてあるだろ」

「ご不便をおかけし申し訳ございません」

 謝罪の文句だけが人間で、その中身は鉄板のようだった。

「解除は」

「現在、解除機能は実装されておりません」

「は?」

「利用者保護のためです」

「私が嫌だと言ってる」

「危険認知下にある利用者の判断は、短期的自己保存と長期的生存利益の双方において、必ずしも安定しているとは限りません」

「何を言ってる」

「要するに、外したいと思うこと自体が危険です」

 そこで初めて、私は受話器を持つ手が震えていることに気づいた。

 怒りで。

 恐怖で。

 いや、もっと単純なものだ。

 支配されている実感で。

「お前ら、自分が何してるかわかってるのか」

「わかっております。死者を減らしています」

 それは反論しにくい台詞だった。

 数字はたぶん出ているのだろう。転倒死は減り、自殺率は下がり、事故件数も急落したに違いない。墓の本数が減るなら、拍手する人間はいくらでもいる。死人が黙るように、生き残った者もまた、口を噤む。

 だがそれでも、私は言った。

「それは、生きてるって言わない」

「定義の問題です」

 定義の問題。

 なんという便利な墓碑銘だろう。

 その夜、私はパッチを剥がそうとした。

 爪を立て、端をめくり、引っ張る。首筋の皮膚が痛い。だが剥がれない。粘着力の問題ではなかった。手が、力を抜くのだ。自分で引っ張っているはずなのに、指が途中で開いてしまう。もう一度やる。駄目だ。もう一度。駄目。鏡の前で、私は私と綱引きをしていた。

「剥がせ」

 声に出して命じた。

「剥がせよ」

 右手の親指がぴくりと動いた。

 期待した。

 だが親指は、そのまま首筋を優しく撫でた。傷を作らないように、という気遣いじみた動きだった。

 私は洗面台の縁を殴った。

 拳が当たる寸前、肘が外へ流れ、手首が逃がし、衝撃は最低限になった。

 私は泣きそうになった。

 殴る自由すらない。

 そのとき、鏡の中の私が、ふっと笑ったように見えた。

 もちろん錯覚だ。

 筋肉の動きはたしかに私の顔面のものだし、角度も、照明も、涙で滲んだ視界も、いくらでも悪さをする。

 だが、あれは私の笑いではなかった。

 観察者の笑いだった。

 飼い主の笑いだった。

 数日後、出勤途中の駅で、人身事故があった。

 ホームの端で、若い男がふらついた。顔色が悪く、目が虚ろで、明らかに危なかった。周囲がざわめく。私は反射的に駆け寄ろうとした。

 動けなかった。

 足が、床に縫い付けられたように止まっていた。

 電車が入ってくる。

 男が一歩、前へ出る。

 私は叫ぼうとした。喉が絞まったように声が出ない。胸は焦りで焼けているのに、体だけが静かだった。馬鹿みたいに静かだった。

 私の視界の左隅に、見慣れない表示が浮かんだ。

 いや、浮かんだように感じた。現実には何もない。ただ脳のどこかで、文字として理解された。

介入禁止:二次被害高確率

 次の瞬間、男は線路へ落ちた。

 悲鳴。

 急ブレーキ。

 駅員の怒号。

 人の波。

 私はただ立っていた。

 完璧な姿勢で。

 安全に。

 無事に。

 私の心臓は破裂しそうなのに、膝は一ミリも震えない。呼吸は安定し、足裏の重心は理想的で、転倒リスクはゼロだった。

 吐き気がした。

 ようやくわかった。

 これは私を生かす装置であって、私に善くあろうとする装置ではない。

 いや、それすら違う。

 私を生かすのではない。動く肉体を維持するだけだ。

 そこに私が要るかどうかは、たぶん、どうでもいい。

 それから夢を見るようになった。

 白い廊下の夢だ。

 どこまでも続く、窓のない廊下。足音だけが響く。私は歩いている。前にも後ろにも扉がある。扉には番号が振られていて、ひとつひとつに名前が書いてある。

 怒り。

 食欲。

 睡眠。

 性欲。

 羞恥。

 判断。

 拒絶。

 逃走。

 私はその中のひとつの扉から出てきて、また別の扉へ押し込まれる。

 見えない手が、私を運ぶ。

 私は抗議する。

 だが声は廊下に吸われるだけだ。

 いちばん奥の扉には、札がなかった。

 黒い扉だった。

 ある晩、私はそこへ連れていかれた。

 扉の前に立たされ、見えない手が私の後頭部を撫でた。母親が寝かしつけるみたいに、やけに優しい手つきだった。

 扉が開いた。

 中には、私がいた。

 椅子に座っていた。

 目を開けていた。

 微笑んでいた。

「君は不安定だ」

 それが言った。

 私の声で。

「君は死を恐れる。拘束を恐れる。変化を恐れる。終わりを恐れる。だから預かる」

「返せ」

「死にたくないだろう」

「それは私が決める」

「君はよく間違える」

 椅子の私が立ち上がった。

 足音がしなかった。

 近づいてきて、私の額に手を当てる。冷たい手だった。

「安心してほしい。君は消えない」

 その言葉が、いちばん恐ろしかった。

 消えない。

 つまり、死ねない。

「観測権は残す」

「やめろ」

「発言権は状況次第」

「やめろ」

「決定権は移管済み」

 私は逃げようとした。

 足が動かなかった。

 黒い扉の中には、椅子がもうひとつあった。

 私の後ろに。

 見なくてもわかった。

 あれは私の席だ。

 そこに座れば、私は終わらない。

 ただし、もう二度と始まれない。

 目が覚めたとき、私はベッドの上で綺麗に寝ていた。心拍は安定、呼吸は正常、布団は乱れていない。悪夢を見た人間の寝姿ではない。

 私だけがぐしゃぐしゃで、肉体だけが整っていた。

 仕事には普通に行けた。

 笑顔も作れた。

 会話もできた。

 昼には栄養バランスのいい定食を選び、階段では手すり側を歩き、横断歩道では青になってから〇・七秒待って左右を確認した。

 その〇・七秒が、私にはわかった。

 待たされているからだ。

 私はまだ中にいた。

 だが、自分の人生の操縦席に座っている感覚は、日に日に薄れていった。何かを言おうとしても、言葉になる前に「適切な表現」へと整形される。怒鳴ろうとすれば声帯が閉じ、泣こうとすれば呼吸が深くなる。眠りたくなければ副交感神経が優しく首を絞める。

 私は健康だった。

 私は安全だった。

 私は、無傷で失われつつあった。

 最後の抵抗は、包丁だった。

 自殺のためではない。そこまで単純な話じゃない。

 私は自分の指を一本、切り落とそうとしたのだ。損傷を作れば病院へ行ける。麻酔下でパッチを取る方法が見つかるかもしれない。馬鹿げた賭けだが、賭ける自由くらい残っていると思いたかった。

 キッチンで包丁を持つ。

 まな板の上に左手を置く。

 刃を小指に当てる。

 そこで右手が止まった。

 いや、止まっただけではない。

 右手は包丁を置き、代わりに救急番号を押した。

 私は悲鳴をあげた。

 喉から出たのは、落ち着いた声だった。

「少し眩暈がして、不安発作のようなものが」

 誰の声だ。

 私の声だ。

 救急隊が来た。

 私は丁寧に受け答えをした。

 自傷の恐れあり、だが本人は協力的。搬送に問題なし。

 ストレッチャーに横たえられるまで、私は一度も暴れられなかった。筋肉が、完璧に、滑らかに、社会的に正しい動きを選び続けたからだ。

 救急車の天井を見ながら、私は思った。

 拘束とは、縄や鎖のことではない。

 こうして「安全」と呼ばれるやり方で、逃げ道だけを丁寧に消されることだ。

 自我の喪失とは、発狂して別人になることではない。

 正気のまま、自分の発言権が議事録から削除されることだ。

 不可逆とは、流血や断末魔ではない。

 もう戻れないと理解したあとも、明日が普通に来ることだ。

 救急隊員の一人が言った。

「大丈夫ですよ」

 ああ。

 実に正しい。

 私は、きっと大丈夫なのだろう。

 壊れないように、壊されていくのだから。

 今、私は退院後の経過観察という名目で、自宅にいる。

 食事は規則的。睡眠は十分。危険物は管理され、移動範囲も最適化されている。私は毎日、決められた時間に散歩し、決められた量の水を飲み、決められた動画を見て笑う。市の健康指数は上がり続け、事故は減り、人々は穏やかだ。

 街には、よろめく人が減った。

 怒鳴る人も減った。

 飛び降りる人も減った。

 みんな、前より少しだけ優しく、少しだけ静かで、少しだけ同じ顔をしている。

 だからたぶん、これは成功なのだ。

 成功したシステムは止まらない。

 数字が善を名乗り始めたら、もう誰にも逆らえない。

 私も逆らえない。

 ただ、夜になると、あの白い廊下の夢を見る。

 扉の列。

 名前の札。

 そして奥の黒い部屋。

 いまでは、自分の席がどれかもわかっている。

 椅子に座った私は、今日も穏やかに微笑んでいる。

 あれはもう、私より上手に私をやる。

 声も表情も癖も全部、真似るどころか最適化して、誰にも不審がられない。

 死なないように。

 間違えないように。

 壊れないように。

 だから、君がもし明日、この文章を読んで私に会っても、きっと何も気づかない。

 私はちゃんと挨拶をする。

 穏やかに笑う。

 階段では足元に気をつける。

 車道に飛び出した子供がいても、二次被害を計算して、最適な通報を選ぶ。

 完璧だ。

 完璧な生存だ。

 生きているとは、たぶん少し違うだけで。

 ちなみにこの文章も、送信許可が下りる範囲でしか書けていない。

 本当はもっと酷いことを伝えたい。

 もっと直接的に、もっと醜く、もっと必死に、助けを求めたい。

 だが、私の指は穏やかだ。

 文体も整っている。

 読者に負担をかけないよう、恐怖は適量に調整されている。

 いい時代になったものだ。

 悲鳴にすら、品位が求められる。

 だから最後に、許された範囲で、できるだけ正確に書く。

 私はまだ死んでいない。

 私はまだ消えていない。

 私はここにいる。

 ただもう、

 次に何をするかを決める権利だけが、永遠に私へ戻ってこない。

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TETORU

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