継ぎ目の家
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
幽霊、感染、呪い、事故、時間錯誤。 姿は違っても、その恐怖はいつも同じ場所に辿り着く。 戻れないこと。自分でなくなること。自分では止められないこと。 これは、失われる過程そのものを描くホラー短編集。
本文
村へ入ったとき、最初におかしいと思ったのは、犬が吠えなかったことだ。
山道を三十分も揺られ、舗装の荒れた細道を抜けると、谷あいに家々が見えた。二十軒あるかないかの、小さな集落だった。曇り空の下、田の水面だけが妙に白く光っている。電柱は細く、電線は低く、風がないのに何本かがかすかに揺れていた。
私は市役所から依頼を受けて来ていた。
住民票上は二十三名。だが、ここ三か月、誰とも連絡がつかない。郵便は溜まる。固定電話は呼び出す。だが誰も出ない。山間部の高齢集落ではありがちな話と思われていたが、さすがに二十三人全員が一斉に沈黙するのはおかしい、というわけだ。
ありがちな話ではなかった。
そういうものは、たいてい、ありがちでは済まない。
集落の入口には古い看板が立っていた。
地名の下に、小さな文字でこう書いてある。
よそから来る人も、どうか仲よく。
妙な文面だな、と私は思った。
観光地でもない。通りがかりの人間を歓迎するような土地でもない。なのにその言い回しは、まるで「来るな」と言いづらい人間が、遠回しに釘を刺しているみたいだった。
私は車を降り、荷台からバッグを取り出した。記録用カメラ、予備バッテリー、ボイスレコーダー、簡易マスク、ゴム手袋。誰もいない集落に対して、ずいぶん仰々しい装備だ。だが前任者が一人、ここへ来てから半日で戻ってきたきり、高熱を出して寝込み、今も入院している。
診断は肺炎だった。
ただし肺の写真は、肺炎というには、あまりにも均一すぎたらしい。
集落は静かだった。
静か、というより、音の置き方が変だった。
人の気配はない。テレビの音もしない。農機具のエンジンもない。風鈴も、鳥も、蝉すらいない。なのに、遠くの方で何かが擦れる音だけが、ずっとしていた。
濡れた布を、ゆっくり引きずるような音。
しゃっ、しゃっ、と。
家はどれも古い木造で、戸は閉まっていた。だが鍵はかかっていないものが多かった。最初の一軒に声をかけて中へ入る。土間。居間。台所。食器は片付いている。埃は少ない。生活の途中で放棄されたという感じではなく、むしろ几帳面に「少し前まで普通に暮らしていた」気配が残っていた。
違和感があったのは仏間だった。
床の間に、古びた掛け軸。
その手前の畳に、円形の染みがいくつもできている。茶色でも黒でもない、乳白色の、乾いた跡。
近づいて見ると、染みの中心から細い筋が伸びていた。まるで、液体が畳の目に沿って、自分で行き先を選んだみたいに。
私はしゃがみこんだ。
臭いは薄い。腐敗臭ではない。むしろ妙に清潔な、石鹸水を乾かしたあとのような臭い。
不意に、ボイスレコーダーが小さくノイズを吐いた。
私は顔を上げた。
「……誰かいますか」
返事はなかった。
だが、家の奥で、畳が沈む音がした。
ひとつ。
ふたつ。
人が歩く音ではない。
もっと重さが散っている。四つん這いの何かが、体重を分散させて移動しているような、そんな沈み方だった。
私は立ち上がり、奥の廊下を見た。
薄暗い。障子の向こうで日が滲んでいる。
音は止まっていた。
次の瞬間、廊下の角から、手が出てきた。
人の手だった。
ただ、指の本数が多かった。
五本ではない。六本とも七本ともつかない。指と指のあいだに、細いものがまだ育ちきらずに付いているような、不完全な枝分かれだった。皮膚は白い。血の気がないというより、水に長く浸けた指先みたいな白さだ。手は床を探るように、ゆっくり畳を撫でた。それから、そのまま角の向こうへ引っ込んだ。
私は動けなかった。
職務上、死体は見たことがある。病室で息を引き取る人も、施設で転ぶ人も、血圧が落ちる瞬間も知っている。だが、あれはどの引き出しにも入らない動きだった。生きているのに、生活の側ではない。生物なのに、分類を嫌がっているような手だった。
ボイスレコーダーがまたノイズを吐いた。
そのノイズの中に、声が混じっていた。
……おかえり。
私は反射的に廊下へ一歩出た。
誰の声か、わからない。男にも女にも聞こえた。年寄りにも子供にも聞こえた。複数の声を弱く重ねたみたいな、不自然に丸い声だった。
「誰だ」
返事はない。
ただ、家の外で、またあの擦れる音がした。
しゃっ、しゃっ、と。
今度は一つではない。二つ、三つ、もっとあった。
集落の中央に、集会所があった。
鍵は開いていた。
中へ入ると、壁際に丸椅子が並び、奥には古いストーブ、掲示板、折りたたみ机。これ自体はどこにでもある田舎の集会所だ。だが中央にだけ、妙なものがあった。
畳の上に、布団が幾重にも重ねられている。
いや、布団ではない。
近づくにつれ、それが布団のように見えるだけの何かだとわかった。色も厚みもばらばらで、表面には柄物の布、シャツの袖、作業着の膝、毛布、タオルケット、着物の襟元、そういう「生活の断片」がいくつも埋まっている。
それらがひとかたまりになって、低い山のように膨らんでいた。
動いていた。
呼吸みたいに。
ゆっくりと、ふくらみ、しぼむ。
私は吐き気をこらえて一歩下がった。
表面の布の隙間から、白いものが覗いている。骨ではない。歯でもない。もっと柔らかい。皮膚に見えたが、皮膚だけがあるはずもない。なのに、それはたしかに皮膚のようだった。
山の端から、顔がひとつ、半分だけ出ていた。
年老いた女の顔。
ただし頬と額の境目が曖昧で、まるで誰かの肩口にそのまま縫いつけられているみたいだった。瞼は閉じている。口元だけがわずかに動く。
「寒くないように」
聞き取れたのは、それだけだった。
私はその場で立ち尽くした。
怖かった。もちろん怖かった。
だが、それと同じくらい強かったのは、理解してしまう嫌さだった。
これは死体の山ではない。
かといって、複数人がただ折り重なっているわけでもない。
もっと穏やかに、もっと日常的に、境界だけが消えていった結果だ。
寄り添う、手伝う、看病する、寒くないように布団を掛ける。
そういう善意の延長線上で、たぶんこれができあがった。
人間は、仲よくする。
近くに住み、声をかけ、支え合う。
それは普通なら美徳だ。
だが、何かがそこに別の意味を足したのだろう。
ひとつになることは、争わないことだと。
掲示板に紙が貼ってあった。
集落の当番表だ。清掃、見回り、炊き出し、薬、布団、見守り。見守りの欄だけが赤ペンで何重にも丸をされている。
その下に、走り書きがあった。
一人にしないこと。
離すと、さみしがる。
つなげること。
私は無意識にバッグの紐を握りしめた。
さっきから、指先に違和感がある。痺れではない。むず痒いような、皮膚の内側で薄い膜が張り始めているような感触。
私は手袋を外した。
左手の小指と薬指のあいだに、透明な糸のようなものが一本、渡っていた。
汗の糸ではない。
切れない。
爪で弾くと、ぴんと張って、すぐに指の付け根へ溶けるように吸い込まれた。
私は手袋を落とした。
逃げなければ、と思った。
思った。
だが、考えと体が少しずれていた。足は出口の方を向いているのに、心のどこかが「外は冷える」と囁く。誰かを置いていくのは良くない、と。おかしな話だ。あの山を見た直後なのに、私はまだ、妙な気遣いの形を保っていた。
集会所を出ると、村の空気が少し変わっていた。
薄暗くなっている。雲が厚くなったのかと思ったが違う。視界のあちこちに、半透明の膜みたいなものが垂れている。軒先と軒先、木の枝と電線、石垣と犬小屋。そのあいだを、白い細糸がいくつも渡されていた。
蜘蛛の巣ではない。
太い。
いやらしいほど整っている。
そして何より、その糸は風に揺れていなかった。風とは別のリズムで、かすかに脈打っている。
しゃっ、しゃっ、とまた音がした。
私は振り向いた。
道の向こうに、人がいた。
三人。
いや、最初は三人に見えた。
一歩前へ出たところで、わかった。
それは三人が寄り添っているのではなく、一体のものの上半分に、三つの顔が並んでいるのだ。
胴体は服で覆われているが、歩き方がおかしい。左右の足並みが合わないのではない。そもそも「左右」が曖昧だ。どちらを前にするか、個体の中で相談がついていない歩き方だった。
中央の顔が口を開いた。
「こわがらなくていい」
右の顔も開いた。
「みんな、ここにいる」
左の顔は笑った。
笑っていたと思う。
頬が裂けたわけではない。歯が並んでいたわけでもない。
ただ、表情だけが人間の文法を外れていた。
私は走った。
走れた。
まだ走れた。
足は勝手に出口の方へ向かった。砂利道を蹴り、看板を抜け、車へ戻る。キーを出す。ドアを開ける。シートへ身体を滑り込ませる。
そのとき、助手席に誰かが座っているのが見えた。
前任者だった。
いや、顔が似ているだけかもしれない。
だが私は彼を知っていた。半日で戻り、高熱のまま「寒くないように」と繰り返していた男だ。
助手席の彼は、ずいぶん穏やかな顔をしていた。入院中の彼より健康そうですらある。
「一人で帰るの」
声は後部座席からもした。
バックミラーを見る。
誰もいない。
なのに声だけは、確かに後ろから来る。
「だめだよ」
私はエンジンをかけた。
かからない。
キーを回す。
かからない。
もう一度。
そのあいだに、視界の端で何かが動く。フロントガラスに、白い糸が一本、上から垂れてきた。ワイパーのゴムに触れ、張りつき、すぐに二本、四本、八本と増える。
助手席の彼が、こちらを見た。
「見てたんでしょう」
その言い方が、妙に責めているようで、妙に甘えているようで、気持ちが悪かった。
「見たら、もう仲間だよ」
ドアを開けて飛び出そうとした。
だがシートベルトが外れない。
金具が噛んだのではない。
ベルトの表面が、少しだけ湿っていた。
それが服に貼りついている。剥がそうとすると、布地の奥へ細い糸が潜りこんでくる。胸元から脇腹へ、ひやりとした感触が走る。
私は息を呑んだ。
身体の中に何かが入る感覚は、痛みより嫌だ。
痛みならまだ、私の側に事件が起きている。
だがこれは違う。
境界線そのものが、勝手に書き換えられていく。
私はナイフを取り出してベルトを切ろうとした。
刃先が震える。
手がうまく閉じない。
人差し指と中指のあいだにも、さっきと同じ透明な糸が渡っていた。曲げるたび、薄い膜が引きつる。
しかも妙なことに、指は切りたくないと思っていた。
私が思ったのではない。
指が、そう思っている。
私は自分の手を見つめた。
爪の根元が白い。皮膚の下で、ごく細い線が脈打っている。血管ではない。もっと表面に近い。皮膚と皮膚のあいだに、別の縫い目が増えていくような動きだった。
助手席の彼が言った。
「一人は寒いよ」
私は叫んだ。
だが車内は、まるで毛布の中みたいに音を吸った。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
目が覚めたとき、私は床に寝かされていた。畳。湿った匂い。天井板。集会所だ。周囲は薄暗く、灯りはないのに何となく見える。人の体温みたいな、ぼんやりした明るさが満ちている。
起き上がろうとすると、腕が重かった。
右腕に、誰かの手がのっている。
子供の手だった。
小さい。細い。
そのくせ、離れない。
手首から先だけが私の腕に縫い止められたように貼りついている。肌と肌の境目に、白い薄膜が光っていた。
私は息を荒くした。
腕を振る。
振れない。
筋肉が拒否するというより、重心が増えている。一本の腕に、別の記憶が乗っているみたいだった。
左を見ると、布団の山が近くにあった。
前より高くなっている。
表面の衣類の量も増えている。
山の端から、また顔がひとつ出ていた。
今度は男だった。目だけが開いている。
「だいじょうぶ」
その目は、優しかった。
優しいのが最悪だった。
敵意ならまだ外側に置ける。
善意は、こちらの中へ入り込んでくる。
「最初はみんな、いやがるけど」
男の声に、別の声が重なった。
「じきに楽になるよ」
「考えなくてよくなる」
「忘れていいよ」
「さみしくないから」
山全体が、呼吸した。
いや、発話したのかもしれない。
表面の布のあちこちがわずかに膨らみ、異なるリズムで沈む。
私はその中に、言葉だけでなく、感情のようなものまで聞いた。心配。歓迎。空腹。眠気。共有したがる欲求。
個人の感情ではない。
群れが、感情のふりをしている。
私は右腕の手を引きはがそうとした。
爪を立てる。
皮膚が少しめくれる。
血はほとんど出なかった。代わりに、透明な液が糸を引いた。
子供の手が、私の前腕を撫でた。
「自分の手なのに」
その言葉で、私は固まった。
子供の声だった。
けれどその手は、もう完全に私の皮膚へ馴染みつつあった。関節の位置も温度も、こちらに寄っている。
つまり、しばらくすれば、私はこの手を「もともと自分のもの」と感じ始めるのだろう。
それがいちばん恐ろしかった。
切り落とせばいい。
理屈ではそうだ。
だが、頭の奥で別の理屈が育っていた。
痛いことはよくない。
切るのはかわいそう。
どうせもうつながっている。
だったら、無理に離さなくても。
誰の理屈だ。
私のものではない。
だが私の脳の中で組み立てられている。
私は自分の唇を噛んだ。
舌に鉄の味が広がる。
痛みで、思考の輪郭を取り戻す。
まだ私だ。まだ私だ。まだ――
「ね」
山が言った。
「名前、なんだっけ」
私は答えなかった。
答えたくなかった。
名前を言うのはまずいと、直感した。あまりにも根拠のない直感だったが、それだけに本物だった。
「いいよ」
山は穏やかに言った。
「なくても困らないから」
私は逃げた。
どうやってかは、うまく思い出せない。
集会所の窓を蹴破ったのかもしれない。
山の一部がこちらへ伸びた腕を振り払ったのかもしれない。
自分の腕に張りついた手ごと何かへ叩きつけたのかもしれない。
記憶はそこだけ薄い。都合よく薄いのではない。糸で綴じ直された本のページみたいに、途中がごっそり抜けている。
気づけば私は川辺にいた。
集落の外れだ。膝まで水に浸かっている。冷たさに震えた。右腕はまだ重い。だが子供の手はなくなっていた。
なくなっているはずなのに、手首から先が二本あるような感覚だけが残っていた。指を曲げるたび、本来ないはずの小さな指が一緒に動こうとする。
川の向こうに、集落が見えた。
家々の屋根を結ぶ白い糸が、薄明かりの中でかすかに光っている。遠目には、雪でも降ったあとの電線みたいだった。きれい、と一瞬思ってしまい、自分でぞっとした。
集落の真ん中に、ひときわ大きな影があった。
集会所だろう。
その周囲に、人影が集まっている。
いや、集まっているのではない。
繋がっている。
肩と肩。
腕と腕。
背中と背中。
糸だけではない。
もう少し太い、布にも皮膚にも見えるものが、輪のように人影同士を結んでいた。
その輪が、一斉にこちらを向いた。
距離はある。顔までは見えない。
なのに私は、あれが皆こちらを見ているとわかった。
目ではない。
もっと広い面で見られている感じだ。
川の水面が、かすかに揺れた。
私の足首に、何かが触れた。
糸だった。
川底から来ている。
石と石のあいだを這い、透明なまま私の足へ巻きついてくる。
私は悲鳴を上げて水を蹴った。
糸は切れない。
引くほど増える。
そのとき初めて、私は理解した。
あれは集落の中だけのものではない。
土の下、水の中、道のひび、家の木材、布団の綿、洗濯物の繊維。
境界のある場所すべてに、あれは入り込める。
人と人を繋ぐだけではない。
場所と場所、物と物、そのあいだにある「隙間」そのものが、あれの住処なのだ。
つまり、逃げる先にだって、継ぎ目はある。
救助されたのは翌朝だったらしい。
道路脇で倒れていたところを、林業の作業員が見つけた。脱水。軽い低体温。右腕の皮膚に異常な線状痕。肺に薄い陰影。入院。隔離。検査。説明のつかない項目がいくつか。
私は事情を話した。
もちろん、まともには取り合われなかった。
集落の再調査には時間がかかると言われた。土砂崩れの危険がどうとか、感染症対策がどうとか、役所らしい理由が並ぶ。
だが、私は知っている。
あそこへ入った人間は、もう少しずつ、話が通じなくなる。
前任者もそうだった。
隔離病棟で見舞いに行ったとき、彼は点滴の管を指先で撫でながら、こう言った。
「独りだと、眠れないんだよな」
医師は鎮静剤の影響だと言った。
私は何も言わなかった。
彼の指のあいだに、薄い透明膜が見えていたからだ。
今の私は退院して、自宅にいる。
食事はできる。会話もできる。外見は、たぶん普通だ。
ただ、夜になると、どうしようもなく誰かの体温が恋しくなる。人肌ではない。もっと面で触れられるような、大きなぬくもりが欲しい。布団を何枚重ねても足りない。
眠りかけると、耳元で声がする。
寒くないように。
一人にしないこと。
つなげること。
右腕の感覚も、まだ変だ。
キーボードを打っているいまも、存在しない小さな指が、私の薬指の横で一緒に曲がろうとしている。最初はぞっとしていた。
だが困ったことに、最近は少し便利だと感じ始めている。
袋を押さえるとき。コップを持つとき。ドアノブを捻るとき。
足りないはずの一本が、確かに役に立つ気がする。
役に立つ。
よくない言葉だ。
よくない理屈だ。
だが理屈はたいてい、役に立つ方へ転ぶ。
だから、この記録は今のうちに残しておく。
まだ、嫌だと言えるうちに。
まだ、自分の名前を自分のものだと思えるうちに。
集落は、たぶんもう空ではない。
中で何人分が何人でなくなったのか、私にはわからない。
数える単位が、もう間違っているからだ。
ただ一つだけ確かなのは、あれは食うために繋げるのではないということだ。
もっと性質が悪い。
あれは、寂しさを口実にして、境界を廃止する。
そして人は、孤独に弱い。
弱いから、優しくされるとほどける。
ほどけた継ぎ目に、あれは入る。
もし君が山間の静かな集落で、妙に親切な貼り紙を見つけても、入らない方がいい。
もし入ってしまっても、声をかけられても、決して「ただいま」と言わない方がいい。
あれは歓迎ではない。
呼び込みだ。
……いや、訂正する。
もう少し正確に書くべきだな。
あれは最初から、歓迎の顔をしている。
だから厄介なんだ。
今も窓の外で、何かが枝と枝のあいだを擦っている。
しゃっ、しゃっ、と。
ここは町だ。山ではない。
なのに、さっきから風がないのに洗濯物が揺れている。
病院の医師は、退院時に言った。
肺の影は消えつつある、と。
経過は良好、と。
元の生活に戻っていい、と。
元の生活。
実に便利な言い方だ。
継ぎ直されたあとでも、それを「元」と呼ぶのだから。
右手を机に置く。
五本の指が見える。
だが、六本目の居場所だけは、もう体が覚えてしまった。
それに最近、寒い夜が少しだけ楽になった。
布団の端に、誰かの手がそっと重なっている気がすると、眠りやすい。
気のせいだと、まだ思える。
まだ、思える。
けれどその「まだ」は、長くない。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。