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継ぎ目の家

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/4/20 📚 シリーズ: 終わりより手前で 📝 7,845文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

幽霊、感染、呪い、事故、時間錯誤。 姿は違っても、その恐怖はいつも同じ場所に辿り着く。 戻れないこと。自分でなくなること。自分では止められないこと。 これは、失われる過程そのものを描くホラー短編集。

本文

 村へ入ったとき、最初におかしいと思ったのは、犬が吠えなかったことだ。

 山道を三十分も揺られ、舗装の荒れた細道を抜けると、谷あいに家々が見えた。二十軒あるかないかの、小さな集落だった。曇り空の下、田の水面だけが妙に白く光っている。電柱は細く、電線は低く、風がないのに何本かがかすかに揺れていた。

 私は市役所から依頼を受けて来ていた。

 住民票上は二十三名。だが、ここ三か月、誰とも連絡がつかない。郵便は溜まる。固定電話は呼び出す。だが誰も出ない。山間部の高齢集落ではありがちな話と思われていたが、さすがに二十三人全員が一斉に沈黙するのはおかしい、というわけだ。

 ありがちな話ではなかった。

 そういうものは、たいてい、ありがちでは済まない。

 集落の入口には古い看板が立っていた。

 地名の下に、小さな文字でこう書いてある。

よそから来る人も、どうか仲よく。

 妙な文面だな、と私は思った。

 観光地でもない。通りがかりの人間を歓迎するような土地でもない。なのにその言い回しは、まるで「来るな」と言いづらい人間が、遠回しに釘を刺しているみたいだった。

 私は車を降り、荷台からバッグを取り出した。記録用カメラ、予備バッテリー、ボイスレコーダー、簡易マスク、ゴム手袋。誰もいない集落に対して、ずいぶん仰々しい装備だ。だが前任者が一人、ここへ来てから半日で戻ってきたきり、高熱を出して寝込み、今も入院している。

 診断は肺炎だった。

 ただし肺の写真は、肺炎というには、あまりにも均一すぎたらしい。

 集落は静かだった。

 静か、というより、音の置き方が変だった。

 人の気配はない。テレビの音もしない。農機具のエンジンもない。風鈴も、鳥も、蝉すらいない。なのに、遠くの方で何かが擦れる音だけが、ずっとしていた。

 濡れた布を、ゆっくり引きずるような音。

 しゃっ、しゃっ、と。

 家はどれも古い木造で、戸は閉まっていた。だが鍵はかかっていないものが多かった。最初の一軒に声をかけて中へ入る。土間。居間。台所。食器は片付いている。埃は少ない。生活の途中で放棄されたという感じではなく、むしろ几帳面に「少し前まで普通に暮らしていた」気配が残っていた。

 違和感があったのは仏間だった。

 床の間に、古びた掛け軸。

 その手前の畳に、円形の染みがいくつもできている。茶色でも黒でもない、乳白色の、乾いた跡。

 近づいて見ると、染みの中心から細い筋が伸びていた。まるで、液体が畳の目に沿って、自分で行き先を選んだみたいに。

 私はしゃがみこんだ。

 臭いは薄い。腐敗臭ではない。むしろ妙に清潔な、石鹸水を乾かしたあとのような臭い。

 不意に、ボイスレコーダーが小さくノイズを吐いた。

 私は顔を上げた。

「……誰かいますか」

 返事はなかった。

 だが、家の奥で、畳が沈む音がした。

 ひとつ。

 ふたつ。

 人が歩く音ではない。

 もっと重さが散っている。四つん這いの何かが、体重を分散させて移動しているような、そんな沈み方だった。

 私は立ち上がり、奥の廊下を見た。

 薄暗い。障子の向こうで日が滲んでいる。

 音は止まっていた。

 次の瞬間、廊下の角から、手が出てきた。

 人の手だった。

 ただ、指の本数が多かった。

 五本ではない。六本とも七本ともつかない。指と指のあいだに、細いものがまだ育ちきらずに付いているような、不完全な枝分かれだった。皮膚は白い。血の気がないというより、水に長く浸けた指先みたいな白さだ。手は床を探るように、ゆっくり畳を撫でた。それから、そのまま角の向こうへ引っ込んだ。

 私は動けなかった。

 職務上、死体は見たことがある。病室で息を引き取る人も、施設で転ぶ人も、血圧が落ちる瞬間も知っている。だが、あれはどの引き出しにも入らない動きだった。生きているのに、生活の側ではない。生物なのに、分類を嫌がっているような手だった。

 ボイスレコーダーがまたノイズを吐いた。

 そのノイズの中に、声が混じっていた。

……おかえり。

 私は反射的に廊下へ一歩出た。

 誰の声か、わからない。男にも女にも聞こえた。年寄りにも子供にも聞こえた。複数の声を弱く重ねたみたいな、不自然に丸い声だった。

「誰だ」

 返事はない。

 ただ、家の外で、またあの擦れる音がした。

 しゃっ、しゃっ、と。

 今度は一つではない。二つ、三つ、もっとあった。

 集落の中央に、集会所があった。

 鍵は開いていた。

 中へ入ると、壁際に丸椅子が並び、奥には古いストーブ、掲示板、折りたたみ机。これ自体はどこにでもある田舎の集会所だ。だが中央にだけ、妙なものがあった。

 畳の上に、布団が幾重にも重ねられている。

 いや、布団ではない。

 近づくにつれ、それが布団のように見えるだけの何かだとわかった。色も厚みもばらばらで、表面には柄物の布、シャツの袖、作業着の膝、毛布、タオルケット、着物の襟元、そういう「生活の断片」がいくつも埋まっている。

 それらがひとかたまりになって、低い山のように膨らんでいた。

 動いていた。

 呼吸みたいに。

 ゆっくりと、ふくらみ、しぼむ。

 私は吐き気をこらえて一歩下がった。

 表面の布の隙間から、白いものが覗いている。骨ではない。歯でもない。もっと柔らかい。皮膚に見えたが、皮膚だけがあるはずもない。なのに、それはたしかに皮膚のようだった。

 山の端から、顔がひとつ、半分だけ出ていた。

 年老いた女の顔。

 ただし頬と額の境目が曖昧で、まるで誰かの肩口にそのまま縫いつけられているみたいだった。瞼は閉じている。口元だけがわずかに動く。

「寒くないように」

 聞き取れたのは、それだけだった。

 私はその場で立ち尽くした。

 怖かった。もちろん怖かった。

 だが、それと同じくらい強かったのは、理解してしまう嫌さだった。

 これは死体の山ではない。

 かといって、複数人がただ折り重なっているわけでもない。

 もっと穏やかに、もっと日常的に、境界だけが消えていった結果だ。

 寄り添う、手伝う、看病する、寒くないように布団を掛ける。

 そういう善意の延長線上で、たぶんこれができあがった。

 人間は、仲よくする。

 近くに住み、声をかけ、支え合う。

 それは普通なら美徳だ。

 だが、何かがそこに別の意味を足したのだろう。

 ひとつになることは、争わないことだと。

 掲示板に紙が貼ってあった。

 集落の当番表だ。清掃、見回り、炊き出し、薬、布団、見守り。見守りの欄だけが赤ペンで何重にも丸をされている。

 その下に、走り書きがあった。

一人にしないこと。

離すと、さみしがる。

つなげること。

 私は無意識にバッグの紐を握りしめた。

 さっきから、指先に違和感がある。痺れではない。むず痒いような、皮膚の内側で薄い膜が張り始めているような感触。

 私は手袋を外した。

 左手の小指と薬指のあいだに、透明な糸のようなものが一本、渡っていた。

 汗の糸ではない。

 切れない。

 爪で弾くと、ぴんと張って、すぐに指の付け根へ溶けるように吸い込まれた。

 私は手袋を落とした。

 逃げなければ、と思った。

 思った。

 だが、考えと体が少しずれていた。足は出口の方を向いているのに、心のどこかが「外は冷える」と囁く。誰かを置いていくのは良くない、と。おかしな話だ。あの山を見た直後なのに、私はまだ、妙な気遣いの形を保っていた。

 集会所を出ると、村の空気が少し変わっていた。

 薄暗くなっている。雲が厚くなったのかと思ったが違う。視界のあちこちに、半透明の膜みたいなものが垂れている。軒先と軒先、木の枝と電線、石垣と犬小屋。そのあいだを、白い細糸がいくつも渡されていた。

 蜘蛛の巣ではない。

 太い。

 いやらしいほど整っている。

 そして何より、その糸は風に揺れていなかった。風とは別のリズムで、かすかに脈打っている。

 しゃっ、しゃっ、とまた音がした。

 私は振り向いた。

 道の向こうに、人がいた。

 三人。

 いや、最初は三人に見えた。

 一歩前へ出たところで、わかった。

 それは三人が寄り添っているのではなく、一体のものの上半分に、三つの顔が並んでいるのだ。

 胴体は服で覆われているが、歩き方がおかしい。左右の足並みが合わないのではない。そもそも「左右」が曖昧だ。どちらを前にするか、個体の中で相談がついていない歩き方だった。

 中央の顔が口を開いた。

「こわがらなくていい」

 右の顔も開いた。

「みんな、ここにいる」

 左の顔は笑った。

 笑っていたと思う。

 頬が裂けたわけではない。歯が並んでいたわけでもない。

 ただ、表情だけが人間の文法を外れていた。

 私は走った。

 走れた。

 まだ走れた。

 足は勝手に出口の方へ向かった。砂利道を蹴り、看板を抜け、車へ戻る。キーを出す。ドアを開ける。シートへ身体を滑り込ませる。

 そのとき、助手席に誰かが座っているのが見えた。

 前任者だった。

 いや、顔が似ているだけかもしれない。

 だが私は彼を知っていた。半日で戻り、高熱のまま「寒くないように」と繰り返していた男だ。

 助手席の彼は、ずいぶん穏やかな顔をしていた。入院中の彼より健康そうですらある。

「一人で帰るの」

 声は後部座席からもした。

 バックミラーを見る。

 誰もいない。

 なのに声だけは、確かに後ろから来る。

「だめだよ」

 私はエンジンをかけた。

 かからない。

 キーを回す。

 かからない。

 もう一度。

 そのあいだに、視界の端で何かが動く。フロントガラスに、白い糸が一本、上から垂れてきた。ワイパーのゴムに触れ、張りつき、すぐに二本、四本、八本と増える。

 助手席の彼が、こちらを見た。

「見てたんでしょう」

 その言い方が、妙に責めているようで、妙に甘えているようで、気持ちが悪かった。

「見たら、もう仲間だよ」

 ドアを開けて飛び出そうとした。

 だがシートベルトが外れない。

 金具が噛んだのではない。

 ベルトの表面が、少しだけ湿っていた。

 それが服に貼りついている。剥がそうとすると、布地の奥へ細い糸が潜りこんでくる。胸元から脇腹へ、ひやりとした感触が走る。

 私は息を呑んだ。

 身体の中に何かが入る感覚は、痛みより嫌だ。

 痛みならまだ、私の側に事件が起きている。

 だがこれは違う。

 境界線そのものが、勝手に書き換えられていく。

 私はナイフを取り出してベルトを切ろうとした。

 刃先が震える。

 手がうまく閉じない。

 人差し指と中指のあいだにも、さっきと同じ透明な糸が渡っていた。曲げるたび、薄い膜が引きつる。

 しかも妙なことに、指は切りたくないと思っていた。

 私が思ったのではない。

 指が、そう思っている。

 私は自分の手を見つめた。

 爪の根元が白い。皮膚の下で、ごく細い線が脈打っている。血管ではない。もっと表面に近い。皮膚と皮膚のあいだに、別の縫い目が増えていくような動きだった。

 助手席の彼が言った。

「一人は寒いよ」

 私は叫んだ。

 だが車内は、まるで毛布の中みたいに音を吸った。

 どれくらい時間が経ったのかわからない。

 目が覚めたとき、私は床に寝かされていた。畳。湿った匂い。天井板。集会所だ。周囲は薄暗く、灯りはないのに何となく見える。人の体温みたいな、ぼんやりした明るさが満ちている。

 起き上がろうとすると、腕が重かった。

 右腕に、誰かの手がのっている。

 子供の手だった。

 小さい。細い。

 そのくせ、離れない。

 手首から先だけが私の腕に縫い止められたように貼りついている。肌と肌の境目に、白い薄膜が光っていた。

 私は息を荒くした。

 腕を振る。

 振れない。

 筋肉が拒否するというより、重心が増えている。一本の腕に、別の記憶が乗っているみたいだった。

 左を見ると、布団の山が近くにあった。

 前より高くなっている。

 表面の衣類の量も増えている。

 山の端から、また顔がひとつ出ていた。

 今度は男だった。目だけが開いている。

「だいじょうぶ」

 その目は、優しかった。

 優しいのが最悪だった。

 敵意ならまだ外側に置ける。

 善意は、こちらの中へ入り込んでくる。

「最初はみんな、いやがるけど」

 男の声に、別の声が重なった。

「じきに楽になるよ」

「考えなくてよくなる」

「忘れていいよ」

「さみしくないから」

 山全体が、呼吸した。

 いや、発話したのかもしれない。

 表面の布のあちこちがわずかに膨らみ、異なるリズムで沈む。

 私はその中に、言葉だけでなく、感情のようなものまで聞いた。心配。歓迎。空腹。眠気。共有したがる欲求。

 個人の感情ではない。

 群れが、感情のふりをしている。

 私は右腕の手を引きはがそうとした。

 爪を立てる。

 皮膚が少しめくれる。

 血はほとんど出なかった。代わりに、透明な液が糸を引いた。

 子供の手が、私の前腕を撫でた。

「自分の手なのに」

 その言葉で、私は固まった。

 子供の声だった。

 けれどその手は、もう完全に私の皮膚へ馴染みつつあった。関節の位置も温度も、こちらに寄っている。

 つまり、しばらくすれば、私はこの手を「もともと自分のもの」と感じ始めるのだろう。

 それがいちばん恐ろしかった。

 切り落とせばいい。

 理屈ではそうだ。

 だが、頭の奥で別の理屈が育っていた。

 痛いことはよくない。

 切るのはかわいそう。

 どうせもうつながっている。

 だったら、無理に離さなくても。

 誰の理屈だ。

 私のものではない。

 だが私の脳の中で組み立てられている。

 私は自分の唇を噛んだ。

 舌に鉄の味が広がる。

 痛みで、思考の輪郭を取り戻す。

 まだ私だ。まだ私だ。まだ――

「ね」

 山が言った。

「名前、なんだっけ」

 私は答えなかった。

 答えたくなかった。

 名前を言うのはまずいと、直感した。あまりにも根拠のない直感だったが、それだけに本物だった。

「いいよ」

 山は穏やかに言った。

「なくても困らないから」

 私は逃げた。

 どうやってかは、うまく思い出せない。

 集会所の窓を蹴破ったのかもしれない。

 山の一部がこちらへ伸びた腕を振り払ったのかもしれない。

 自分の腕に張りついた手ごと何かへ叩きつけたのかもしれない。

 記憶はそこだけ薄い。都合よく薄いのではない。糸で綴じ直された本のページみたいに、途中がごっそり抜けている。

 気づけば私は川辺にいた。

 集落の外れだ。膝まで水に浸かっている。冷たさに震えた。右腕はまだ重い。だが子供の手はなくなっていた。

 なくなっているはずなのに、手首から先が二本あるような感覚だけが残っていた。指を曲げるたび、本来ないはずの小さな指が一緒に動こうとする。

 川の向こうに、集落が見えた。

 家々の屋根を結ぶ白い糸が、薄明かりの中でかすかに光っている。遠目には、雪でも降ったあとの電線みたいだった。きれい、と一瞬思ってしまい、自分でぞっとした。

 集落の真ん中に、ひときわ大きな影があった。

 集会所だろう。

 その周囲に、人影が集まっている。

 いや、集まっているのではない。

 繋がっている。

 肩と肩。

 腕と腕。

 背中と背中。

 糸だけではない。

 もう少し太い、布にも皮膚にも見えるものが、輪のように人影同士を結んでいた。

 その輪が、一斉にこちらを向いた。

 距離はある。顔までは見えない。

 なのに私は、あれが皆こちらを見ているとわかった。

 目ではない。

 もっと広い面で見られている感じだ。

 川の水面が、かすかに揺れた。

 私の足首に、何かが触れた。

 糸だった。

 川底から来ている。

 石と石のあいだを這い、透明なまま私の足へ巻きついてくる。

 私は悲鳴を上げて水を蹴った。

 糸は切れない。

 引くほど増える。

 そのとき初めて、私は理解した。

 あれは集落の中だけのものではない。

 土の下、水の中、道のひび、家の木材、布団の綿、洗濯物の繊維。

 境界のある場所すべてに、あれは入り込める。

 人と人を繋ぐだけではない。

 場所と場所、物と物、そのあいだにある「隙間」そのものが、あれの住処なのだ。

 つまり、逃げる先にだって、継ぎ目はある。

 救助されたのは翌朝だったらしい。

 道路脇で倒れていたところを、林業の作業員が見つけた。脱水。軽い低体温。右腕の皮膚に異常な線状痕。肺に薄い陰影。入院。隔離。検査。説明のつかない項目がいくつか。

 私は事情を話した。

 もちろん、まともには取り合われなかった。

 集落の再調査には時間がかかると言われた。土砂崩れの危険がどうとか、感染症対策がどうとか、役所らしい理由が並ぶ。

 だが、私は知っている。

 あそこへ入った人間は、もう少しずつ、話が通じなくなる。

 前任者もそうだった。

 隔離病棟で見舞いに行ったとき、彼は点滴の管を指先で撫でながら、こう言った。

「独りだと、眠れないんだよな」

 医師は鎮静剤の影響だと言った。

 私は何も言わなかった。

 彼の指のあいだに、薄い透明膜が見えていたからだ。

 今の私は退院して、自宅にいる。

 食事はできる。会話もできる。外見は、たぶん普通だ。

 ただ、夜になると、どうしようもなく誰かの体温が恋しくなる。人肌ではない。もっと面で触れられるような、大きなぬくもりが欲しい。布団を何枚重ねても足りない。

 眠りかけると、耳元で声がする。

寒くないように。

一人にしないこと。

つなげること。

 右腕の感覚も、まだ変だ。

 キーボードを打っているいまも、存在しない小さな指が、私の薬指の横で一緒に曲がろうとしている。最初はぞっとしていた。

 だが困ったことに、最近は少し便利だと感じ始めている。

 袋を押さえるとき。コップを持つとき。ドアノブを捻るとき。

 足りないはずの一本が、確かに役に立つ気がする。

 役に立つ。

 よくない言葉だ。

 よくない理屈だ。

 だが理屈はたいてい、役に立つ方へ転ぶ。

 だから、この記録は今のうちに残しておく。

 まだ、嫌だと言えるうちに。

 まだ、自分の名前を自分のものだと思えるうちに。

 集落は、たぶんもう空ではない。

 中で何人分が何人でなくなったのか、私にはわからない。

 数える単位が、もう間違っているからだ。

 ただ一つだけ確かなのは、あれは食うために繋げるのではないということだ。

 もっと性質が悪い。

 あれは、寂しさを口実にして、境界を廃止する。

 そして人は、孤独に弱い。

 弱いから、優しくされるとほどける。

 ほどけた継ぎ目に、あれは入る。

 もし君が山間の静かな集落で、妙に親切な貼り紙を見つけても、入らない方がいい。

 もし入ってしまっても、声をかけられても、決して「ただいま」と言わない方がいい。

 あれは歓迎ではない。

 呼び込みだ。

 ……いや、訂正する。

 もう少し正確に書くべきだな。

 あれは最初から、歓迎の顔をしている。

 だから厄介なんだ。

 今も窓の外で、何かが枝と枝のあいだを擦っている。

 しゃっ、しゃっ、と。

 ここは町だ。山ではない。

 なのに、さっきから風がないのに洗濯物が揺れている。

 病院の医師は、退院時に言った。

 肺の影は消えつつある、と。

 経過は良好、と。

 元の生活に戻っていい、と。

 元の生活。

 実に便利な言い方だ。

 継ぎ直されたあとでも、それを「元」と呼ぶのだから。

 右手を机に置く。

 五本の指が見える。

 だが、六本目の居場所だけは、もう体が覚えてしまった。

 それに最近、寒い夜が少しだけ楽になった。

 布団の端に、誰かの手がそっと重なっている気がすると、眠りやすい。

 気のせいだと、まだ思える。

 まだ、思える。

 けれどその「まだ」は、長くない。

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作者について

TETORU

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