平凡すぎる銀河防衛生活(五)〜国家対策室と、新しい煙〜
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あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)自由に色々書いています
本文
平凡すぎる銀河防衛生活(五) 〜国家対策室と、新しい煙〜
午前七時。佐藤 純 の意識は、コーヒーの薫りと、キッチンから漂う何か「焼けている」のに妙な匂いによって覚醒した。
純はゆっくりと起き上がり、サイフォンの前に立った。今日はタンザニア・キリマンジャロ。フラスコの水が沸き始めると、コーヒーの粉がゆっくりと上のガラス管へ吸い上げられていく。炎を少し絞って、静かに待つ。この数分が、純にとっての朝の儀式だった。
「純〜、今日のパンケーキ見て」
妻がエプロン姿で、お披露目するように皿を高く掲げて立っていた。テーブルの上に、パンケーキが並んでいる。
形が、三角だった。
「三角だね」
「そう。丸く焼くより三角の方が、なんか強そうじゃない?」彼女はまるで新発明でも成し遂げたかのように胸を張った。
「強そうなパンケーキを目指したの?」
「目指した」妻は自信たっぷりに即答した。
強そうなパンケーキが三枚、皿の上に整列していた。純は一口かじった。生地の中から、何か青いものが出てきた。
「……これ、何が入ってる?」
「ブルーベリーとチーズと、あと納豆」
「納豆」純は噛む手を止め、パンケーキから伸びる見事な糸をしばらく眺めた。
「甘いものとしょっぱいものを混ぜると面白いと思って」
純はもう一口かじった。甘くて、しょっぱくて、少し糸を引いた。しかしなぜか悪くなかった。理由は分からないが、悪くなかった。
「……美味しいよ」
「でしょ。三角にすると納豆が落ち着く気がする」
「それは絶対気のせいだ」純はツッコミを入れつつも、不思議と食が進む自分に苦笑した。
「気のせいでも美味しければいい」彼女は楽しそうに笑って、自分の分の三角を口に放り込んだ。
それはそうかもしれなかった。純はサイフォンのコーヒーを二つのカップに注いだ。タンザニア・キリマンジャロの深みのある香りが台所に広がった。妻が受け取って、両手でカップを包む。二人でしばらく、何も言わずに飲んだ。
物置からオークの鼻歌が聞こえてくる。右隣では傭兵団の朝の準備体操が始まって今日も地面がリズミカルに揺れていた。三秒周期の低周波が、棚の上のマグカップを今日も五ミリ移動させている。斜め向かいの方角の空気が、今朝はなんとなく穏やかな感じがした。
平和な朝だった。
【境界線に建つ家】
佐藤 純。職業は、静寂の中で言葉を紡ぐフリーランスの翻訳家だ。分厚い技術マニュアルの海に潜り、時に宇宙人が執筆した夢想的な小説を日本語のドレスに着せ替える。そんな、どこにでもいる「言葉の職人」である。
ただ一点、彼の住む座標を除いては。
彼の家は、全宇宙と全異世界の因果が絡み合う「特異点」となっていた。なぜそうなったのか。その理由は、銀河の叡智を集めても、深淵の魔導書を紐解いても判明していない。
商店街を歩けば、鮮魚店の前に人魚兄弟が立っていて、今日の仕入れについて水中語と日本語を混ぜながら話している。駅前の交番では、耳六枚の銀河警邏隊が丁寧にパトロール記録をつけている。城のフードコートからは、オークが中華鍋を振る音と鼻歌が聞こえてくる。夜になれば、発光人族の家族が家ごと光り始めて、三軒先の路地が明るくなる。斜め向かいには概念が住んでいる。姿は見えないが、いる感じがする。
純はただコーヒーを飲んで、翻訳の仕事をして、妻と並んで座っている。それで大体のことは、何とかなってきた。
【銀河警邏隊のこと】
彼らがこの街の交番に着任してから、一年ほどが経つ。
銀河警邏隊は宇宙の治安を担う組織で、管轄は銀河全域——地球も当然その範囲に含まれる。特異点の存在が観測網に引っかかり、この街への着任が決まった。「因果の交差点には、必ず何かが起きる」というのが彼らの論理だった。
彼らの種族は、感情や関心が高まると耳が前に傾く習性を持つ。六枚の耳が全部前に傾いている時は、最大限の注意を払っているサインだ。逆に耳が後ろに倒れている時は、完全にリラックスしている。
着任当初は純の家の周辺を重点的にパトロールしていた。しかし数ヶ月経つうちに、この街では何かが起きそうになると、いつの間にか穏やかに収まってしまうことに気づき始めた。
今では商店街の顔なじみになっている。オークのチャーハンの行列に並ぶ時は、六枚の耳が全部後ろに倒れる。完全にリラックスしているサインだ。ただし手帳への記録だけは、今日も欠かさない。
【東京・総理官邸、ある朝の閣議】
問題が官邸まで届いたのは、ある省庁の若手官僚が気づいてから三週間後のことだった。
浮遊城の着陸記録。複数種族の住民登録。銀河警邏隊の交番着任届。概念の住民票申請。魔法少女のコンビニ労働契約。それぞれ別々の省庁のデスクに眠っていた案件が、一枚の資料としてまとめられ、上へ上へと上がっていった。
閣議で取り上げられた時、大臣たちは全員黙った。
長い沈黙の後、一人が意を決して言葉をひねり出した。「視察するしかないな」
「当該地区異常現象対策特別視察団」が編成されたのは、その翌週のことだった。担当大臣を筆頭に、各省庁の官僚、内閣調査室の担当者、そして念のためという名目で自衛隊の調査部隊まで加わった。総勢二十名を超える大規模な視察団。
記者団も来ようとした。しかし街の入口付近で、全員が揃って道に迷った。地図通りに進んでいるのに、なぜかたどり着けない。一時間ほどうろうろした末に、全員が「今日は縁がなかった」という気持ちになって帰っていった。なぜそうなったのかは、誰にも分からなかった。
概念が斜め向かいから、何かをしていた気がしないでもなかった。
【視察団、街へ——一日目】
黒塗りの車が連なって大通りに入ってきた瞬間、銀河警邏隊の耳が六枚、全部前に傾いた。手帳が開かれた。
担当大臣が車から降りて空を見上げた。丘の上に七つの浮遊城が白銀に輝いている。フードコートの方角から中華鍋の音と鼻歌が聞こえる。商店街を、耳六枚の銀河警邏隊がパトロールしている。鮮魚店の前に人魚兄弟が立っている。
「……報告書の通りだな」と大臣が信じがたいものを見る目で漏らした。随行の官僚たちが一斉にメモを取り始めた。自衛隊の調査部隊が隊形を組んだ。
まず会長を訪ねた。
会長は玄関で視察団全員を迎え、「まあどうぞ」と言った。二十名を超える視察団が、会長の家の縁側と庭先に収まった。緑茶が人数分、きっちり用意されていた。お菓子も出た。
「当該地区の異常現象について、視察にまいりました」と大臣が精一杯の威厳を保って告げた。
「そうですか」と会長はにこにこした。
「何かご不明な点があれば何でも。お菓子もどうぞ」会長が手帳を開いた。
「せっかくですから、この街のことを少しお話しましょうか。どこからお聞きになりたいですか」
大臣が「では、浮遊城から」とお茶をすすりながら促した。
会長がにこにこしながら話し始めた。丁寧に、順序よく、分かりやすく。
気づけば一時間、会長の話を全員が黙って聞いていた。お茶が三杯目になっていた。お菓子が追加で出てきた。自衛隊の調査部隊が、隊形を崩してお菓子を食べていた。
帰り際に会長が「また何かあればいつでも」とにこやかに出迎えた時と同じ顔で見送った。
大臣が「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。視察団全員が頭を下げた。会長の手帳に、また何かが書き込まれた。
【二日目——銀河警邏隊との遭遇】
翌朝、視察団が銀河警邏隊の交番へ向かった。
交番に近づいた瞬間、隊員の一人が前に出た。六枚の耳が全部前に傾いた。
「確認させてください。所属と、この街における任務の目的を」
大臣が「内閣府の——」と言いかけたが、隊員の六枚の耳がサーチライトのように自分へ向けられたのに気圧されて言葉を切った。
「内閣府」と隊員が手帳に書いた。
「地球の行政機関ですね。銀河条例上、地球の行政機関の活動も記録対象です。任務の目的は」
「異常現象の調査です」
「異常現象」と隊員が書いた。
「具体的にどの現象を異常と判断されましたか」
大臣が口を開きかけて、止まった。随行の官僚たちがメモを取る手を止めた。自衛隊の調査部隊が隊形を乱した。
「……いくつか、ありまして」大臣は、まるでテスト中の学生のように官僚たちを見回した。
「記録します。一つずつお願いします」
視察団が調査に来たはずが、全員が調査されていた。隊員の耳が六枚とも前に傾いたまま、手帳のページがどんどん埋まっていった。
一時間後、視察団が交番を出た。
大臣のメモ帳には「銀河条例・管轄宇宙全域・耳六枚・記録徹底」とだけ書いてあった。
「我々より真面目に仕事をしているな」と大臣が感心したように、あるいは呆れたように呟いた。誰も否定しなかった。
【三日目——概念との遭遇】
三日目の朝、純が同行した。概念の「いる方向」へ案内するためだ。
視察団が純の案内で、斜め向かいの方角に立った。
「どうすれば接触できますか」と大臣が手持ち無沙汰に空間を見つめて尋ねた。
「そのまま話しかければいいと思います」と純は答えた。
大臣が少し間を置いてから「担当大臣でございます。お話を伺えますか」と言った。
しばらく間があった。
「いる感じ」が、少し考えているような方向に変わった。視察団の何人かが、その変化を感じ取ったらしく、周囲を見回した。空気が、少し違う。温度ではない。重さでもない。ただ、何かが確かにそこにある。
「何か伝わってきますか」と官僚が純に聞いた。
「……ここにいる人たちのことを、ちゃんと見ている、という感じがしますね」と純は言った。
視察団全員が黙った。
記録担当が「報告書の種別欄、何と書けばいいですか」と聞いた。
「概念(自称)、と市役所には登録されています」と純が答えた。記録担当が「概念(自称)」と書いた。それ以上は書けなかった。
帰り際、大臣がふと足を止めた。
「……何か、温かい感じがしますね」と肩の力を抜いて漏らした。
純は少し笑った。「そうですね」と同意した。
「いつもこんな感じですか」
「まあ、そうですね」
【四日目——フードコートの夜】
四日目の夜、視察団は城のフードコートへ向かった。
今日もオークは浮いていた。地上三メートル半。中華鍋がサラマンダーの炎を受けて高温になりすぎ、XO醤が反応して小規模な浮力フィールドを発生させていた。梯子担当のスタッフが完全に日常業務をこなしていた。
大臣が「あれは」と空を見上げた。「浮いていますね」と官僚が答えた。「記録します」と記録担当がメモを取った。
視察団がチャーハンを注文した。梯子で皿が届いた。全員が一口食べた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……美味い」と大臣がおかわりの食券を握りしめて唸った。
「美味いですね」と官僚たちが口々にスプーンを動かしながら同意した。
「記録します」と記録担当が書いた。「『美味』」
自衛隊の調査部隊も食べた。全員が黙った。隊長格の一人が「……これは」と言いかけて止まった。おかわりを注文していた。
中間管理職の神が神速で皿を片付けようとした。「まだ食べてます」と大臣が皿を押さえた。「失礼しました」と神が言った。「本気を出すと時間軸がずれますので抑えています」「それはやめてください」「承知しています」
宇宙人一家の子どもが視察団の官僚に近づいてきた。銀色の瞳で見上げながら言った。
「おじさんたち、何しに来たの?」
官僚が少しかがんで答えた。「調査に来たんだよ」
「何を調査するの?」
「この街の……不思議なことを」
子どもが首を傾げた。「不思議なこと? 普通だよ?」
官僚がしばらく黙った。チャーハンをもう一口食べた。
「……そうかもしれないね」と官僚は少しだけ愉快そうに微笑んで答えた。
フードコートを後にしようとした時、魔法少女が通りかかった。いつものように、少し煤けた顔で、杖を持って歩いていた。
随行の官僚の一人が「あの方は」と純に小声で、だが興味津々に尋ねた。
「魔法少女さんです」
「……魔法少女」
「はい」
「どういった存在なんですか」
「魔法が使えます。夏祭りで、相模川の上に流星群を出しました」
官僚が黙った。記録担当がメモを取ろうとして止まった。
「流星群を、出した」「はい」「人が」「魔法少女さんなので」
それ以上の会話は成立しなかった。
魔法少女は視察団に気づいて、軽く会釈した。それから杖の先で空中にさっと何かを描いた。視察団の頭上に、小さな光の花が三つ、ふわりと咲いて消えた。
「……あの」と大臣が頭上の花を追いかけて声を上げた。
「サービスです」と魔法少女がさらりと言い残して歩いていった。煤けた顔で、さらりと言った。
視察団全員が黙った。自衛隊の調査部隊の隊長格が、初めてメモを取るのを忘れた。
【五日目——傭兵団の隊長と、人魚兄弟と、発光人族】
五日目の朝、人魚兄弟が視察団に声をかけた。
兄が何かを差し出した。深海の串焼きだった。視察団が一口食べた。全員が「美味しい」と言った。何の食材かを聞くと兄弟が「説明が難しい」と答えた。大臣が「一番近い地球の食材は」と粘ると、兄弟が真剣に相談してから「……帆立?」と不思議そうに首を傾げながら返答した。大臣が「そうか」と言った。それで納得していた。
この街ではそういうことが、だいたい何とかなる。
その夕方、傭兵団の隊長が生け垣越しに視察団の前に現れた。
「貴様らが視察に来た者か」
大臣が背筋を伸ばした。「は、はい。担当大臣の——」
「この街の何を調査している」
「異常現象を——」
「異常とは何だ」隊長が静かに、だが地響きのような声で問いかけた。
「浮遊城か。宇宙人か。概念か。それのどこが問題だ」
大臣と視察団全員が黙った。
「この街は平和だ」と隊長は言った。
「私は三千の星系を制圧してきた。平和な場所と、そうでない場所の違いは分かる。ここは平和だ。それ以上でも、それ以下でもない」
隊長が生け垣の向こうに消えた。視察団がしばらく黙った。
「三千の星系を、制圧」と大臣がつぶやいた。
「はい」と純は言った。
「……右隣に住んでいるんですよね」
「はい」
大臣がもう一度、黙った。
その夜、発光人族の家族が夕食の帰り道を歩いていた。夜になって光り始めていた。家族全員が柔らかい青白い光を放ちながら、大通りをゆっくり歩いている。
視察団の自衛隊調査部隊が、全員黙ってそれを見ていた。
誰も、何も言わなかった。
しばらくして、隊長格の一人が静かに言った。「……綺麗だな」彼は記録用のカメラを構えるのも忘れて見惚れていた。記録担当がメモを取ろうとして、止めた。これはメモを取る類いのことではない、と思ったらしかった。
【七日目——対策室の結論】
七日目の朝、大臣が純に報告書の草稿を見せた。
「当該地区は平和であり、特段の問題は認められない。住民間のトラブルは適切に解決されており、治安は良好。銀河規模の管轄を持つ銀河警邏隊が着任しており、治安維持は万全と判断する。当視察団としては、継続的な監視は不要と結論づける」
「そうですか」と純は深く頷いた。
「正直に言うと」大臣が少し間を置いた。
「何がどうなっているのか、全部は分からないままです」彼は吹っ切れたような笑みを浮かべて白状した。
「そうですね」大臣がコーヒーを一口飲んだ。
「悪くない、と思いました。この街」彼は縁側から見える平和なカオスを眺めて、しみじみと伝えた。
「ありがとうございます」
一行が荷物をまとめて車に乗り込む前、自衛隊の調査部隊の隊長格が純に真剣な顔で念を押した。「チャーハン、また食べに来てもいいですか」
「どうぞ」と純は快く請け合った。「オークさんに伝えておきます」
黒塗りの車が連なって大通りを出ていく時、概念の「いる感じ」が、少しだけ視察団の方向に向いた気がした。送り出しているような感じがした。
視察団の報告書は閣議で「継続監視不要」として受理され、省庁の棚に静かに収まった。それを最初から最後まで読んだ人間は、誰もいなかった。
【オーク、縁側に来る】
視察団が去ってから数日後の夕方、オークが縁側に来た。
珍しく、鼻歌を歌っていなかった。
純がサイフォンでコーヒーを入れ直した。今日はグアテマラ・アンティグア。深く、少し甘い香りが縁側に広がった。オークが受け取って、しばらく黙っていた。
「純の旦那、ちょっといいか」オークは重々しく、それでいてどこか浮き足立った声で切り出した。
「どうぞ」
「実は報告がある。先週、旦那の裏の空き家を買った」
純は少し間を置いた。「……そうでしたか」
「三日前、引っ越した」
「それはまた。物置にいると思ってました」
「お宅の物置では、二人では住めないからな」純がオークを見た。
「二人、というのは」純の問いかけに、夕焼けがオークの緑色の肌をより一層赤く染めた。
オークがコーヒーを一口飲んだ。それから話し始めた。
オークがこの街に来る前は、魔王軍の副料理長だった。サラマンダー幼体の直火で作る中華料理があまりにも美味すぎて、最前線の兵士たちが武器を捨てて会食を始めてしまう、という理由で魔王に追い出された。クビになって、気づいたらこの街にいた。純の家の物置を借りて、その後、浮遊城のフードコートで店を始めた。サラマンダーの炎との相性が良すぎて、何故か浮き始めた。
その魔王軍の料理部門に、同僚がいた。女性だ。
彼女がオークの料理を初めて食べたのは、魔王軍に入って最初の週のことだった。食堂でオークの作った麻婆豆腐を一口食べて、しばらく動けなくなった。箸を置くことが惜しくなった。それが全ての始まりだと、後から彼女は言った。
彼女が作るラーメンは、宇宙の常識を超えた。一口食べると、誰もが箸を置けなくなる。戦いに行くどころか、立ち上がることすら惜しくなる。魔王軍の最前線部隊が、彼女のラーメンを食べたまま三日間、前進も後退もしなかった。補給部隊が食べたら補給を忘れた。斥候が食べたら帰還を忘れた。
「お前のラーメンは軍の機能を停止させる」と魔王に渋い顔で宣告された。
オークと全く同じ理由だった。
クビになった日、彼女は魔王軍の食堂でオークが使っていた古い中華鍋を見つけた。オークがいなくなってから誰も使っていなかった鍋だ。それを見た瞬間に、行き先が決まった。
この街のフードコートに現れて、オークの屋台の前でじっと中華鍋を見上げていた.オークが三メートル半上から気づいた。目が合った。
オークが鍋を誰かに預けて、梯子で地上に降りてきた。
「あなたの麻婆豆腐を、ずっと食べたかった」と彼女が瞳を輝かせて伝えた。
オークが少し間を置いてから「ラーメンを作れ」とぶっきらぼうに命じた。
彼女が作った。オークが一口食べた。しばらく黙った。
「……悪くない」とオークは短く、だがこの上ない賛辞を口にした。
「あなたの中華、やっぱりとんでもない」と彼女が満面の笑みで笑った。
「お前のラーメンも、とんでもない」とオークが鼻を鳴らして誇らしく応じた。
「知ってた」と彼女が茶目っ気たっぷりに言い放った。
「知っていたのか」とオークが問い返した。
「あなたがいなくなってから、ずっと練習した」と彼女が少し照れくさそうに打ち明けた。「あなたに食べてもらうために」
オークがしばらく黙った。それから「……そうか」と深く、満足げに応えた。
それだけだった。しかしそれで全部だった。
「……それだけか」と純は少し拍子抜けして聞いた。
「それだけだ」とオークは晴れやかな顔で言い切った。
純は少し笑った。
「おめでとうございます」
オークが鼻を鳴らした。照れているのか得意げなのか、表情では判断できなかった。
妻がキッチンから顔を出した。
「何の話?」
「オークさんが結婚したって。三日前に裏の空き家に引っ越したそうだよ」
妻の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当に! おめでとうございます! なんで早く言ってくれなかったんですか!」彼女は縁側まで飛び出してきて祝福した。
「報告が遅れた」とオークはばつが悪そうに視線を逸らして漏らした。
「三日も! お隣さんになったのに!」
妻がしばらく呆れた顔をしてから、笑った。
「まあ、おめでとうございます。今度ご挨拶させてください」
「ああ」とオークが言った。
「あいつも、是非、挨拶したいと言っている」
妻の顔がもう一度、ぱっと明るくなった。
「楽しみ!」
オークの鼻歌が、裏の家からした。音量が少し上がっていた。
【傭兵団のこと】
その翌日、生け垣越しに隊長の声がした。
「佐藤 純」
「はい」
「一つ、話がある」隊長は生け垣を揺らしながら、重大発表でもするかのような低い声で呼びかけた。
「どうぞ」
「私の家族が先月、この街に来た。今は城の近くに仮住まいをしている。家を探している」
「会長に相談するといいですよ。詳しいので」
「……そうする」少し間があった。
「それから、他の団員たちの家族も、順番にここへ来る予定だ」
純は生け垣の向こうの隊長を見た。
「全員ですか」
「全員だ」
三千の星系を制圧してきた傭兵民族の一団が、この街に根を張り始めていた。九家族分の引越しが、これから順番に起きることになる。会長の手帳に、また新しい議題が増えるだろう。
「賑やかになりますね」と純は言った。
「……そうなるかもしれない」と隊長はかすかに口角を上げて応じた。
少し間があった。
「悪くない」と隊長は独り言のように溢した。どこか、本当にそう思っているような声だった。
純も、そう思った。
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しばらくして、オーク直火中華・サラマンダー屋のメニューに、一行が増えた。
手書きで、小さく。
「ラーメン」と書いてあった。
それだけだった。しかし城のフードコートに来た観光客が、その一行を見つけて注文した。一口食べて、しばらく動けなくなった。立ち上がることが惜しくなった。おかわりを三杯頼んだ。
翌日、行列がチャーハンより長くなっていた。
オークがそれを見て「ふん」と自慢げに鼻を鳴らした。しかし鼻歌の音量は、今夜も少し上がっていた。
帰り道、純は妻と並んで歩いた。
「この街、またちょっと変わったね」と妻が弾んだ声で話しかけた。
「そうだね」と純は穏やかに返した。
「傭兵団の家族が全員来るって」
「そうみたい」
「賑やかになるね」
「なるね」
「楽しみだね」
「楽しみだね」と純は隣で笑う妻を見て、心から同意した。
この特異点の夜は今夜も、宇宙の果てから集まった命たちの気配が、街に満ちていた。にぎやかで、少し変で、どこか温かくて
——そして何より、世界で一番、愛おしいにおいがした。
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