宇宙規模のシェアハウスで、僕だけが普通の人間
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あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)自由に色々書いています
本文
宇宙規模のシェアハウスで、僕だけが普通の人間
【おかえりなさいませ】
そのマンションには、何の変哲もなかった。
外壁は白く、窓は規則正しく並んでいた。一階のガラス扉の向こうにコンシェルジュカウンターがあり、白い制服を着た女性が立っていた。通りを歩く誰もが目を向けないような、ごく普通のビルだった。
佐藤 純 がその前に立ったのは、会社を辞めた日の夕方のことだった。
鞄を持ったまま歩き続けて、気がついたらここにいた。手には一枚の紙切れ。
『入居者募集。条件:普通の人間であること。家賃:あなたにとって無理のない金額。場所:わかる人にはわかります』
どこで見つけたのかも、もう思い出せない。ただ「普通の人間」という条件だけが、頭に引っかかっていた。
その日の朝、上司に言われた言葉があった。
「あなたには特別なものが何もない」
怒鳴られたわけではなかった。静かに、事実として告げられた。それが余計に深く刺さって、純は鞄を持ったまま席を立ち、オフィスを出た。そのまま歩いた。どこへ向かうともなく。
ガラス扉を押し開けると、カウンターの奥に女性がいた。
白い制服。きりりとした目元。口元には、静かで完璧な微笑み。動きに一切の無駄がなく、立ち姿が美術館の彫刻に似ていた。
「佐藤 純 様でいらっしゃいますか」
名前を呼ばれると思っていなかったので、純は「はい」と答えてから、なぜ知っているのかを考えた。答えは出なかった。
女性はカウンターから出て、純を案内した。エントランスの奥、普通なら管理人室があるはずの場所へ。
扉があった。
純は思わず、足を止めた。
古い木製の扉。しかし「古い」という言葉では足りなかった。
表面には宇宙の星座が彫り込まれていて、それが単なる装飾ではなかった——星と星を結ぶ線が、生きているように光を帯びていた。見ているうちに線が動く気がした。星座が、ゆっくりと位置を変えている。オリオン座の三ツ星が、肉眼で見えるよりもずっと鮮明に輝いていた。
扉全体から熱が出ていた。
暖房の熱ではなかった。生き物の体温に近い何かが、扉の表面から滲み出ていた。純が手を伸ばして触れると、指先から心臓の方へ向かって、何かが流れ込んできた。安心感に似た何か。あるいは「ここが正しい場所だ」という感覚。言葉にならない確信が、掌から全身へ広がった。
「おかえりなさいませ」
女性の美しい声が、静かに空間を満たす。
一拍おいて——
「特別な部屋でございます」
扉が、まるで純を待っていたかのように、自分から開いた。
廊下があった。
一歩踏出した瞬間、純の体が軽くなった。重力が変わったのではなかった。ただ、今まで肩に乗っていた何かが、すうっと消えた。
床は暗い石のような素材で、歩くたびに足元が微かに発光した。踏んだ場所に光の波紋が広がり、それが廊下の奥まで届いて、また戻ってきた。まるで純の体重を、廊下がそっと確認しているようだった。
壁はなかった。
正確には、壁の代わりに宇宙があった。
両側が完全に宇宙に開いていた。手を伸ばせば星に触れられそうな距離に、赤い星と青い星が並んで輝いていた。右手の遠くでは、星雲が金と紫に広がって、光の煙のようにたなびいていた。左手には、銀河が一つ、水平に浮かんでいた——平たい渦巻きの形が真横から見える角度で。その中心が白く輝いて、腕が螺旋を描きながら外へ伸びていた。
天井も宇宙だった。
見上げると、星の密度が増した。天の川が真上を横切って、光の帯が純の真上で輝いていた。どこかで新しい星が生まれているのか、一点だけ、他より明るく脈打っている場所があった。
純は歩くのを忘れて、立ち尽くした。
それから、一つのことに気づいた。
静かだった。
これほどの光量なのに、これほどの壮大さなのに、音が一つもなかった。廊下の中に満ちているのは、自分の呼吸と、足元の光の波紋が広がる感触だけだった。
振り返ると、扉はもう閉まっていた。
コンシェルジュの女性の姿は、なかった。
純はしばらくそこに立って、それから前へ歩いた。
他に選択肢がなかった——というのは半分本当で、もう半分は、この場所から離れたくなかったからだった。「特別なものが何もない」という言葉が届かない場所まで、どうやら来られた気がした。
廊下の突き当たりの扉を開けた。
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【住人たち】
壁が三面しかなかった。
残りの一面は、完全に宇宙へ開いていた。柵も、ガラスも、膜も——何もない。ただそこから先は宇宙だった。にもかかわらず、空気は漏れていなかった。温度も保たれていた。リビングと宇宙の間に、目に見えない何かがあって、二つの世界をつなぎながら、分けていた。
その開口部から、星雲の光が斜めに差し込んでいた。金色と深紅が混じった光で、部屋全体を琥珀色に染めていた。
五人?いた。
ソファに座って本を読む人物。
宇宙との境界付近に、半透明の輪郭で佇む誰か。
キッチンで炎を操る大柄な人物。
テーブルの上で丸まっている猫。
床に寝転がって、目を閉じたまま動かない人物。
「来た来た」
キッチンから、弾んだ声が飛んできた。
大柄な人物が顔を上げた。褐色の肌。豊かな黒い巻き毛。エプロンをつけて、片手に銀色のフライパン。フライパンの中では何かが渦巻いていて、渦の色が次々と変わっていた——深紅から金へ、金から透明へ、透明から、純には名前のわからない色へ。
「腹は減っているか」
「まあ……」
「ならちょうどいい」
フライパンが一閃した。炎が上がった。普通の炎ではなかった——青と金と、星の光に似た白が混じった炎が天井近くまで伸び、甘くて深い香りがリビング全体を満たした。それだけでなく、空間そのものが歪んだ。テーブルの端が少し曲がって見えた。皿が一枚、どこからともなく現れた。
純は思わず一歩引いた。
ソファの人物が、本から顔を上げた。整った、静かな顔立ち。純と目が合った——と思った瞬間、その人物は口を閉じた。いや、違う。閉じてから、開いた。全ての動作が、わずかに逆順になっている。瞬きの順番さえおかしかった。閉じる前に開く。
「よろしく」
彼はそう口にしてから、不思議そうに瞬きをする。
「……たしかそう言うんだったな、初めて会うとき」
「……よろしく」
純は戸惑いながらも答えた。
「ぼくは逆行している。時間が。だから会話が少しずれる。慣れてくれると助かる」
「慣れる……努力はします」
純はそう口にしたものの、今のところ、全く慣れる自信がなかった。
宇宙との境界付近に佇む半透明の輪郭が、こちらへ向いた気がした。しかし確かめようとして目を凝らすと、それが光の屈折なのか存在なのか、判断がつかなくなった。向こう側の星雲が、体の中を薄く透過していた。
テーブルの上の猫が目を開けた。
瞳の色が変わった。緑から金へ、金から深い紫へ。宇宙の奥の色だった。
「新入りね」
猫はしっぽを小さく揺らしながら、囁くように声をかけてくる。
「未来、知りたい?」
「大丈夫です」
猫が片眉を上げた——猫に眉があるかどうかは別として、そういうお茶目な空気が流れた。
「珍しい。みんな知りたがるのに」
「知ったところで、どうしたらいいかわからないので」
猫はしばらく純を観察した。毛並みが星の光を受けて、銀色に輝いていた。やがて目を細めて「面白いかも」とつぶやき、また丸まった。
純は床に横たわる人物に目を移した。胸が上下している。生きている。表情は穏やかで、眉根が少し寄っていた。夢の中で何かを真剣に読んでいる人の顔だ。その本は、この世界にはない。
「あの方は」
純はキッチンで忙しそうに動くシェフに向かって聞いた。
「夢の中にいる作家だ。起きてくることもある。でも大体あのままだ」
「夢の中で書いているんですか」
「そうらしい。夢の中でしか本当のことは書けないと言っている」
純はその人物を見た。床の上で眠っているだけの人が、今この瞬間も宇宙のどこかにある夢の中で、何かを書き続けている。そう思うと、少し羨ましかった。自分には夢の中でできることも、現実でできることも、特に浮かばなかった。
皿が運ばれてきた。
見たことのない色だった。深紫と金が絡み合う麺に、透き通ったソースがかかっている。口に運んだ瞬間、味が複数同時に来た——塩気と甘みが衝突して、それから和解して、奥に懐かしいような、初めてのような余韻が広がった。
「うまい」
純の口から、素直な感嘆が漏れた。
シェフが笑った。惑星が揺れるような、大きな笑い方だった。
「お前の今日一日を料理にした」
純は手を止めた。
皿を見た。苦い朝。虚しい午後。何かを捨てて歩いた時間。それが全部この一皿に溶けていた。
「……悪くない味だ」純は静かにつぶやいた。
シェフは何も言わなかった。ただ嬉しそうに笑っていた。
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【時間を逆行する青年の悩み】
翌朝のリビングには、天の川が近くを流れていた。
青白い光の帯が宇宙の開口部から差し込んで、部屋の床に光の縞を作っていた。その縞の中で、逆行する青年がソファの隅に膝を抱えていた。体の輪郭が今朝は特にずれて見えた——右側の時間と左側の時間が、少しだけ違う方向へ流れているような。
「どうしたんですか」
純が声をかけると、青年はしばらくしてぽつりと溢した。
「悲しい」
それから、すぐに首を振った。
「いや、まだ悲しくない。でもすぐ悲しくなる。いや——もう悲しんだ。順番がわからない」
顔が歪んだ。悲しみと混乱がぐちゃぐちゃに混じった顔だった。
「好きな人と別れた?」
純が尋ねると、一拍おいて、静かな静かな声がかえってきた。
「そうかもしれない。でもぼくには、出会いが先か別れが先か、もうわからない。最初から最後を知っている。最後から始まって、最初に終わる」
天の川が流れていた。無数の星が音もなく動いていた。
純はソファに腰を下ろした。しばらく黙っていた。それから語りかける。
「最初から、ちゃんと会えるじゃないですか」
青年が顔を上げた。
「別れを先に知っているなら、出会いのときから、その人のことを全部見ていられる。ぼくたちは別れるまで気づかないことが多いから」
「でも終わりを知って、それでも笑えるか」
「笑えなくていい」
純は優しく言葉を続けた。
「泣きながらでも、一緒にいた時間は本物だった」
青年は黙った。
天の川が流れ続けていた。星の光が、青年の横顔を静かに濡らしていた。
長い長い沈黙のあと、青年が深く息を吐き出す。
「……そうか」
それだけだった。でもその二文字が落ちた瞬間、青年の肩から何かが音もなく剥がれていくのが見えた気がした。長い間そこに貼りついていた何かが、宇宙の方へ静かに漂っていくような。
「ありがとう」
青年は静かにそう囁くと、また本を開いた。最後のページから読み始めた。それが彼の普通だった。
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【存在の薄い住人】
三日目の夕方、廊下で気づいた。
壁際に、揺らぎがある。
空気の揺れのような、光の屈折のような——近づくと、人の形をした輪郭が、そこにあった。半透明で、背後の宇宙が体の中を透けて見えた。金色の星雲が、胸のあたりを薄く通り抜けていた。輪郭の内側に星が一つ、まるで心臓の位置に浮かんでいた。
「いつもここにいるんですか」
純が問いかけると、輪郭が微かに揺れた。返事なのかどうか、わからなかった。
「ご飯、食べてますか」
首を横に振ったように見えた。かすかに、しかし確かに。
「一緒に食べましょう」
キッチンへ行った。シェフはいなかった。純が自分で作った。卵を三つ割って、醤油と砂糖で味付けした卵焼き。母親に教わっただけの、ごく普通のものだ。作りながら、これで大丈夫だろうかと思った。半透明の存在が卵焼きを食べられるのかどうか、純には見当もつかなかった。でも他に思い浮かばなかった。
皿を二枚持って廊下に戻った。
輪郭はまだそこにあった。
純は床に座った。皿を横に置いた。
「ここで食べましょう」
長い間があった。
輪郭が、ゆっくりと座る形に変わった。
皿の卵焼きが、少しずつ消えていった。見えているようで、見えなかった。音もしなかった。ただ確かに減っていって、最後には皿が空になった。
廊下の宇宙に、赤い星が一つ、ゆっくりと瞬いていた。何光年も先にある星が、ここまで光を届けていた。
「おいしかった?」
純が優しく尋ねると、輪郭が、うなずいた。はっきりと。
「よかった」それだけ。
でも何かが変わったのは、純にもわかった。
その日から、廊下を歩くたびに、輪郭の透過率が少しずつ下がっていった。最初は胸を通り抜けていた星雲の光が、三日後には輪郭の表面で止まるようになった。一週間後には、背後の宇宙がもう体の中を流れなくなった。
そしてある朝、廊下で純は立ち止まった。
そこにいた。
半透明ではなく、輪郭ではなく——ちゃんとそこにいる、一人の人間が。
その人は、純を見て、小さく手を挙げた。
純も手を挙げた。
それだけのことが、なぜかとても嬉しかった。
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【未来から来た猫の苦しみと、猫耳の話】
猫が純の部屋に来たのは、深夜だった。
部屋の窓は宇宙に直接面していて、カーテンの代わりに星雲の光が揺れていた。金色と紫が混じった光の中で、猫の毛並みが銀色に輝いていた。扉を引っ掻く音がして開けると、紫の瞳がこちらを見上げていた。
「入っていい?」
「どうぞ」
猫はベッドの端に乗って、しばらく純を観察した。尾がゆっくりと揺れた。
「あなた、未来を知りたくないって言ったでしょ」
「ええ」
「なんで? みんな知りたがるのに」
「知っても変えられないなら、今を全力で生きるしかないじゃないですか。それに——知りすぎると、今ここにある良いことを見逃す気がして」
猫は尾の動きを止めた。
しばらく黙っていて、それからぽつりと語り出す。
「あたしはね、未来が全部見える。それが普通なの。生まれた時から、何もかも。この会話も、この後あなたが言う言葉も、全部」
「それは、しんどいですね」
「うん」
飾り気のない、ただの「うん」という響きだった。
「見えるから、驚けない。感動できない。全部知ってるから。あなたが今から言う言葉も、もう知ってる」
「じゃあ少し黙ってみますね」
猫が目を丸くした。紫の瞳が、わずかに揺れる。
「……それは、知らなかった」
純は少し笑った。それから語りかける。
「見ない日を作ればいいんじゃないですか。目をつぶる。今日だけは知らない、って決める」
「でもそれって、怖くない?」
「怖いですよ」
純は穏やかに微笑んだ。
「普通の人間はみんな、明日何が起きるか知らないまま生きている。ずっと怖い。でも知らないから、今日のご飯がおいしい。知らないから、会えた人が嬉しい。怖さと引き換えに、驚きがある」
猫は長い間、目を閉じていた。
部屋が静かになった。宇宙もその瞬間だけ、息を呑むように静かになった。金色の星雲が、窓の外でゆっくりと揺れていた。
目を開けて、猫は笑った。猫の笑い方で、目が細く弧を描いた。
「じゃあ今夜、試してみる。未来を閉じる」
「どうだったか、教えてください」
「それはあたしが——」
と言いかけて、猫は言葉を止めた。
それから悪戯っぽく笑った。今度は声が出た。小さく、でも確かに、可愛らしい笑い声だった。
「それは、明日のあたしが教えてあげる」
翌朝、猫はリビングにいた。
テーブルの上に座って、窓の外の宇宙を見ていた。
純が「どうでしたか」と聞くと、猫はゆっくりと振り返った。
その瞬間、純は気づいた。
猫の頭に、耳があった。
いや、昨日もあった。猫なのだから耳はある。でも今朝の耳は違った。ぴんと、真上を向いていた。体全体が少し前のめりになっていた。尾が、左右にぱたぱたと揺れていた——制御できていない動き方で。
「星が」
猫は驚きを隠せないように呟いた。
「こんなにきれいだったなんて、知らなかった」
声が、昨日より少し高かった。
「ずっと未来ばかり見ていた。だから今の星を、一度も見ていなかった」
耳がさらにぴんと立った。
純は何も言わなかった。ただ、猫の耳がそこまで立てるものなのかと、少し感心していた。
「あと」
猫は楽しそうに言葉を重ねる。
「シェフが今朝、朝ごはんを作ってくれて——知らなかったから、びっくりした」
「びっくりするのは良いことですね」
「うん」
猫はそう答えて、また宇宙を向いた。
尾がまだ、ぱたぱたと揺れていた。
しばらくして、猫が少し照れくさそうに呟いた。
「見ないで」
「何をですか」
「尻尾」
「あ、すみません」
純は視線を外した。でも口元が笑っていた。猫も、おそらく笑っていた。宇宙の方を向いたまま、耳をぴんと立てたまま。
その日の夕方、猫はリビングのソファで丸まっていた。珍しいことに、ごろごろという音がしていた。
逆行する青年が本から顔を上げて、不思議そうに猫を見た。
「珍しい」
「うるさい」
猫はそっぽを向いたが、その耳は少し赤かった。猫の耳が赤くなるのかどうかは、純にはわからなかった。でも確かに、赤かった。
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【夢の中の作家】
入居して十日目の朝、床に横たわっていた人物が、ゆっくりと目を開けた。
体を起こしたす動作が、とても慎重だった。夢と現実の境界を壊さないように。草が風に揺れるような細い声で「おはよう」と挨拶をした。
顔が不思議だった。見る角度によって、ひどく若く見えたり、深く疲れた表情に見えたりした。夢と現実の境界にいる人間の顔というのは、こういうものかと純は思った。
「珍しい」
キッチンからシェフが声をあげる。
「起きてきた」
「夢が行き詰まった」
作家は両手で顔を覆って、深くため息をついた。
「登場人物が動かない。全員が嘘くさくなってしまった。紙の人形みたいに、棒立ちで、誰も笑わない、誰も泣かない」
「どんな話を書いているんですか」
純が尋ねると、作家は顔から手を離して、純を見た。
「普通の人間の話だよ」
純は少し驚いた。
「普通の人間が、どうやって特別じゃない自分と折り合いをつけて生きるか、という話。でも書いているうちに、普通がわからなくなってしまった。普通の感情って何だ。普通の痛みって。普通の嬉しさって」
「普通って」
純は不思議そうに呟いた。
「別に何か特別なものじゃないと思いますけど」
「どういうことだ」
「嬉しい時に嬉しくて、悲しい時に悲しくて、腹が減ったら食べて、眠くなったら寝る。それだけじゃないですか」
作家は純をじっと見つめた。
「……それだけか」
「それだけです。ぼくはずっとそれしかできなくて、それで特別なものが何もないって言われました」
作家の目が変わった。輝き方が変わった。
「今日一日のことを話してくれるか。何でもいい。つまらなくていい。むしろつまらない方がいい」
純は少し照れながら話した。
今朝起きたこと。シェフの朝ごはんが少し辛かったこと。廊下で輪郭の住人と手を挙げてあいさつしたこと。猫がリビングで宇宙をじっと見ていて、耳がぴんと立っていたこと。ごく普通のことばかりだった。
作家は目を輝かせて聞いていた。
聞いているうちに、だんだん遠くを見る目になっていった。それからゆっくりと、床に横たわった。夢に戻っていく。体が沈むように、瞼が落ちていく。
「ありがとう」
夢の奥から、深く静かな声がした。
「どういたしまして」
純が答えると、作家は深い眠りに落ちていく。
「主人公が、笑い始めた」
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【シェフの秘密】
ある夜、台所のシェフの背中を見て、何かが違うとわかった。
炎の色が不安定だった。青と金が混じりきらず、空間を歪める前に揺れて消えた。鍋の中が静かだった。シェフの大きな体が、今夜はなぜか小さく見えた。肩が、落ちていた。
「大丈夫ですか」
シェフがゆっくりと振り返った。
「料理が、うまくいかない」
「珍しいですね」
「ああ。久しぶりに——何を作ればいいかわからなくなった」
「誰かのために作っているんですか」
純の問いに、シェフは鍋を見つめたまま、長い間の後でぽつりと零した。
「……自分のために、作ろうとしている」
シェフは鍋を見た。長い間、鍋を見ていた。
「ずっと誰かのために料理を作ってきた。住人たちの感情を、記憶を、今日一日を、全部料理にしてきた。でも——自分の味が、わからなくなった。自分が何を食べたいのか。自分はどんな味が好きなのか。何も、わからない」
「一緒に作りましょうか。ぼくは、普通の料理しかできないですけど」
「普通?」
「卵焼きとか、味噌汁とか」
シェフは純を見た。それから、静かに笑った。惑星が揺れるような大きな笑い方ではなく、今夜は小さく、静かに。
「そういうのを、久しく作っていなかった」
二人で台所に立った。
純が卵を割った。シェフがだしをとった。シェフのだしは淡く光を帯びていたが、鍋に味噌を溶くと、ごく普通の香りがした。豆腐と葱を入れた。宇宙のど真ん中で、何の変哲もない味噌汁ができあがった。
シェフが椀を持って、一口すすった。
動きが止まった。
宇宙が静かに広がっていた。遠くの銀河が、音もなく回転していた。
「懐かしい」
シェフの声には、微かな震えが混じっていた。その目は、遠くを見ていた。宇宙よりも遠い場所を。
「これは——懐かしいお母さんの味かもしれない」
純は何も言わなかった。
隣に立って、自分の椀を持って、一緒にすすった。
宇宙が広がっていて、星が瞬いていて、でも二人の間には味噌汁の湯気だけが立っていた。
それがとても、正しい気がした。
しばらくして、シェフが静かに告げた。
「明日は、みんなの分も作る。普通のやつを」
「楽しみにしています」
純は温かい気持ちでそう応えた。
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一ヶ月が経ったある朝、純はエントランスへ戻る用事があって、木製の扉を開けた。
廊下を抜けてマンションの一階へ出ると、カウンターに白い制服の女性がいた。
いつもと同じ立ち姿。いつもと同じ微笑み。
一ヶ月前と、全く変わっていなかった。
純はカウンターの前に立って、女性をまじまじと見た。よく整った顔。完璧な微笑み。目の動き方がずっと一定だ。瞬きのタイミングが揺らがない。疲れた様子が、一切ない。
「あの」
純は少し思い切って尋ねてみた。
「失礼を承知でお聞きするんですが——あなたは、機械ですか」
女性は一瞬だけ動きを止めた。
それから、いつもの完璧な微笑みのまま応じた。
「少々、お答えしかねます」
「そうですか」
純はそれ以上は聞かなかった。
人間かどうかより、毎日ここに立っていてくれることの方が、純には大事だった。
何が「おかえりなさいませ」と言ってくれるかより、言ってくれることそのものが。
「ありがとうございます」
純は心を込めて言葉を伝える。
「毎日、おかえりなさいませって言ってもらえて、助かっています」
女性の微笑みが、ほんの少し変わった。目尻が、わずかに動いた。プログラムにはなかったかもしれない、人間らしい柔らかな動き方だった。
「……お役に立てて、光栄でございます」
その夜、リビングで青年が言った。
「お前、コンシェルジュがアンドロイドだって気づいたんだって?」
「ええ、なんとなく。……あ、もしかして最初から知っていたんですか?」
「ぼくは最初から知っていたよ。お前がいつ気づくかもね」
「それ、ちょっとずるくないですか」
「そうかもしれない」
逆行する青年はそう認めると、それからいつもの、少しずれたタイミングで楽しそうに笑った。
【普通であることの意味】
ある夜、住人たちが全員リビングに集まっていた。
珍しいことだった。
宇宙が今夜は特別に近かった。大きな惑星が三つ、横一列に並んで浮かんでいた——深い青、赤と金、そして白く自ら光を発する惑星。三つの光がリビングに差し込んで、部屋全体を三色に染めていた。床に三つの影が重なって、不思議な模様を作っていた。
逆行する青年がソファに座っていた。今夜は時間のずれが穏やかで、普通に近い速さで瞬きをしていた。
かつて透明だった住人が、椅子に座っていた。もう輪郭ではなく、ちゃんとそこにいる人間として。背後の宇宙は、もう透けていなかった。
猫がテーブルの上で目を開けていた。瞳の色が今夜は深い金で、落ち着いていた。耳は、今夜は普通の位置にあった。
作家が床に座っていた。起きていた。目を開いていた。
シェフが壁に寄りかかって、腕を組んでいた。
「どうしたんですか」
純が声をかけると、誰も最初は答えなかった。
ただ全員が、純を見ていた。
三色の光の中で。
「お前のことを、話していた」
逆行する青年が静かに切り出す。
「ぼくの?」
純が戸惑うと、猫が口を開いた。
「あなたが来てから、この家が変わった」
作家が続けた。
「夢の中で書いていた物語が、動き出した。主人公が笑うようになった。泣くようになった。本物の人間みたいに」
かつて透明だった住人が、ぽつりと言葉を紡ぎ出す。まだ小さかったが、揺るぎなくそこにある声だった。
「……ご飯を、一緒に食べてもらえた。それだけで、少し、ここにいてもいいかと思えた」
シェフが壁から体を起こした。
「自分の味を思い出した。お前のおかげで」
逆行する青年が純をじっと見つめる。
「終わりを知っていても、今この瞬間を泣きながら大切にしていい——それをお前から教わった」
猫の声が、リビングに静かに響いた。
「未来を閉じた夜があった。何も見えなかった。怖かった。でも星が、あんなにきれいだとは知らなかった」
そこで猫は、少し間を置いた。
「あと——朝ごはんがびっくりするほどおいしかった」
耳が、ぴんと立った。
「それは知ってた」
逆行する青年がからかうように言うと、猫がすかさず言葉を返す。
「黙って」
リビングに、小さな笑いが起きた。
それから静かになった。三つの惑星が、並んで光っていた。
「お前は」
逆行する青年が、慈しむように呟いた。
「特別なことを、何もしていない」
「そうです」
純はまっすぐに答えた。
「何も特別なことはしていないです」
「だからこそだ」純は顔を上げた。
「ぼくたちはみんな、特殊すぎて、普通が見えなくなっていた。時間が逆行して、存在が薄くて、未来が見えすぎて、夢の中に住んでいて、料理が次元を歪めて。どれも普通じゃない。だから普通が——本当にわからなくなっていた」
「普通に腹が減ること。普通に眠ること。普通に隣に座ること」
猫がしみじみと語る。
「普通の味が、一番深い」
シェフが深く頷いた。
「……普通に、そこにいてくれること」
かつて透明だった住人が、小さく笑みを浮かべる。
「普通の一日が、一番豊かな物語だ」
作家が愛おしそうに呟いた。
全員の視線が、純に集まった。
三色の光が、部屋を満たしていた。
「普通のあなたが、この家の中心だ」
逆行する青年の声が、リビングに静かに置かれた。
純は泣きそうになった。
こらえた。
こらえきれなくなった。
袖でぬぐって、また涙が出て、もう一度ぬぐった。
「ぼくは」
純は涙を堪えながら打ち明けた。
「特別なものが何もないって言われて、それで会社を辞めて、ここに来たんです。特別じゃないことが、ずっと恥ずかしかった」
「恥ずかしいことがあるか」
逆行する青年が力強く、優しく首を振った。
「ない」
猫が寄り添うように言うと、その耳がまた、ぴんと立った。
「普通であることは、まれだ」
作家が純を安心させるように見つめる。
「宇宙の中では、ことさら」
純はしばらく黙っていた。
もう一度袖でぬぐって、「ありがとうございます」と小さく応えた。
温かな笑い声が起きた。
かつて透明だった住人が、声を立てて笑った。
その笑い声は——星が産声を上げるときに出すような音に、純には思えた。根拠はなかったが、確かにそう感じた。生まれたての星の声に似た、明るくて、少し震えていて、世界に初めて届く声に。
「腹が減った」
シェフがぽつりと言うと、今度こそ全員が笑った。
猫の尾が、ぱたぱたと揺れていた。止めようとして、どうしても止まらなかった。
---
【おかえりなさいませ】
翌朝、純は早起きしてエントランスへ向かった。
木製の扉に触れると、星座の彫り込みが温かかった。一ヶ月前と同じ温度で。同じ光を帯びて。扉は今日も、生きていた。
廊下を歩いた。
宇宙が両側に広がっていた。今朝は穏やかな光景だった。左手に、青白い若い星が一つ。右手の遠くに、赤く老いた巨星が一つ。全く違う時間を生きている二つの星が、同じ廊下の両側に並んでいた。
どちらも、ただ輝いていた。
それぞれのやり方で。
マンション一階へ出ると、白い制服の女性がカウンターにいた。いつもと同じ立ち姿。いつもと同じ微笑み。
「おはようございます、佐藤様」
「おはようございます」
純はカウンターに歩み寄った。
「あなたも、大変でしょう。毎日ここで、みんなを迎えて」
女性が、一瞬だけ動きを止めた。
「……いいえ」
彼女はそっと目を細めて応じた。
「おかえりなさいませとお伝えする瞬間が——好きでございます」
「好き、ですか」
「はい。みなさんが扉を開けるとき、少しだけ安心したお顔になります。それが、好きでございます」
プログラムにあった言葉なのか、なかった言葉なのか、純にはもうわからなかった。でもどちらでも、構わなかった。
「ぼくも好きです。あなたの言葉が」
木製の扉へ向かいながら、振り返った。
女性が微笑んでいた。今日の微笑みは、少しだけ違って見えた。完璧なままで、でも完璧とは別の何かが、その中にあった。
扉に触れた。
温かかった。
開いた。
廊下の宇宙が広がっていた。無数の星が瞬いていた。星雲が青と金に輝いていた。遠くの銀河がゆっくりと回転していた。どこかで新しい星が生まれ、どこかで古い星が静かに死んでいた。宇宙はいつでも動いていた。何億光年にもわたって、音もなく、止まることなく、誰かが見ていてもいなくても。
純はその中へ踏み出した。
特別なものは何もない。ただの人間で、普通の感情を持って、普通に腹が減って、普通に誰かの隣に座れる。それだけだ。
でも宇宙の中心に、自分の場所がある。
扉が、そっと閉まった。
廊下の奥から、リビングの笑い声が、かすかに届いた。
今頃きっと、猫の耳がぴんと立っている。
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