巨神炉の錬金術師。ネジを巻く手
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あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)自由に色々書いています
本文
巨神炉の錬金術師 ネジを巻く手
夕暮れの光が窓から斜めに差し込んで、部屋の中に金色の縞を作っていた。
佐藤 純 は作業台の前に腰を下ろし、眼鏡を額に押し上げながら、ため息をついた。机の上には分解された置き時計の部品が、まるで小さな手術室のように整然と並んでいる。真鍮の歯車、細い針、ルビーの軸受け石。それぞれを丁寧に磨き、油を差し、組み直す作業に、彼は三時間をかけていた。
「今度こそ」
小声でつぶやいて、純は最後の仕上げに取りかかった。竜頭を二本の指で挟み、ゆっくりと、息をするのも忘れるくらいの慎重さで、ネジを巻き始める。
カチ。カチ。カチ。
歯車が噛み合う音が、指先に伝わってくる。完璧だ、と純は思った。今日こそは失敗しない。修理を始める前に注油の量を確かめ、歯車の噛み合わせを指先で何度も確かめ、あらゆる手順を踏んだ。今日こそ、この百年前のアンティーク時計に、再び命を吹き込んでやれる。
そう信じたとたん。
歯車が、逆回転を始めた。
それも普通の逆回転ではなかった。竜頭が純の指の中でひとりでに回り出し、時計の内部から奇妙な音が連続して鳴り響く。カチカチカチカチ、と高速に、まるでゼンマイがすべてのエネルギーを一瞬で吐き出そうとするように。
「またか——」
言い終わる前に、時計の文字盤が割れた。
いや、割れたのではない。砕けたのでも、壊れたのでもない。文字盤の向こう側が、光っていたのだ。
金色と銀色が混ざり合った、見たことのない光。時計の小さな縁の中から溢れ出して、みるみるうちに部屋全体を満たしていく。純は椅子を蹴って立ち上がろうとした。が、足が床から離れていた。
浮いている。
体が引き寄せられている。時計の、あの光の中へ。
「待——」
声が途中で消えた。部屋が、消えた。
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体が何かにぶつかった。
いや、何かに「落ちた」。純は石畳の上に両手をついて、荒い息を整えながら、頭を上げた。
最初に感じたのは音だった。
重低音の振動が、地面の底から伝わってくる。規則正しく、しかし途方もなく大きな、何かが回転しているような響き。次に感じたのは匂いだった。石炭の煙、熱した金属、そしてどこか甘ったるい、知らない薬品の混じった空気。
それから、目が、光に慣れた。
「……なんだ、ここは」
純は立ち上がり、声を失った。
空が、見えなかった。
いや、正確には、空の代わりに巨大な構造物が広がっていた。複数の建物が連絡橋で繋がり、その上をまた建物が乗り、さらにその上に塔が生えている。街全体が、積み重なりながら上へ上へと伸びているのだ。建物の隙間からは、太い蒸気管が何本も走っていて、白い煙を絶え間なく吐き出している。窓という窓には魔法陣を模した紋様が刻まれ、夕暮れの光を受けてぼんやりと青白く光っていた。
歯車だ、と純は気づいた。街の至る所に歯車がある。建物の外壁に取り付けられた巨大な歯車が回り、それが連絡橋を動かし、橋が隣の建物の歯車を回し、その歯車がさらに上層の何かを動かしている。街全体が、一つの巨大な機械として動いていた。
純はしばらく、その光景から目を離せなかった。美しいとか、恐ろしいとか、そういう言葉が出てくる前に、ただ圧倒されて立っていた。元の世界で、機械を分解しながら感じていたあの興奮——複雑な構造が一つの目的のために動いているという、あの感覚——が、桁違いの規模で目の前にあった。
「お前、どこから落ちてきた」
突然声をかけられて、純は振り向いた。
革製の厚いエプロンをつけた男が、煙草の煙をくゆらせながら純を見ていた。腕には火傷の跡が幾筋もある。錬金術師か職人か、いずれにせよこの街の住人だろう。
「落ちてきた、というのは……」
「空から落ちてきただろう。見てたぞ。光の柱が出て、お前が石畳に降ってきた」男は特に驚いた様子もなく、顎でどこかを示した。「異世界人か。たまに来る。運が悪かったな」
「運が悪い、とは」
男は煙草を石畳に踏み消した。
「巨神炉が、死にかけてるんだ。今この都市は、そういう時期だ」
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【魔導錬金都市】
男に連れられて純が案内されたのは、安宿の一室だった。天井が低く、窓の外では太い蒸気管が唸り声を上げている。しかし清潔で、木のベッドに古いが洗いたての寝具が敷いてあった。
「金はあるか」と男は言った。
「……財布は持ってきてない」
「だろうな。まあ、最初の三日は面倒を見てやる。その後は自分でなんとかしろ」
それだけ言って、男は出て行った。
純は窓際に立ち、街を見下ろした。石畳の広場では露店が並んでいる。食料、工具、それから純には名前もわからない青や赤の液体が入った瓶。人々はエプロンや革手袋をつけた職人風の格好をしていて、手に試験管や工具を持って歩いている者が多い。子供でさえ、小さな歯車を弄りながら走り回っていた。
壁に貼られた紙に、純は目を向けた。文字が読めない。が、絵でなんとなくわかった。都市の中心部と思しき場所に、巨大な構造物が描かれている。そこから放射状に亀裂が走り、都市全体が割れていく様子が、赤と黒で描かれていた。
巨神炉。
男が言っていた言葉が、頭に引っかかる。純は窓枠に手をかけて、街の奥を見つめた。建物の重なりの向こう、都市の中心と思われる方角に、他よりひとまわり太い蒸気管が集中している場所がある。あそこだろう、と純は思った。理屈ではなく、機械を長年いじってきた感覚で、そこが街の心臓だとわかった。
翌日、純は宿を出て、街を歩いた。言葉は不思議とすぐに通じるようになっていた。あの光に包まれた時に何かが起きたのか、それともこの異世界の仕組みがそういうものなのか、純にはわからなかったが、とにかく街の人間と話すことはできた。
話を聞いていくうちに、輪郭が見えてきた。
この都市は「魔導錬金都市」と呼ばれ、魔法と錬金術と蒸気機関が融合した技術によって動いている。その動力源となっているのが、都市の中心にある巨神炉だ。巨神炉は都市設立から三百年以上、一度も止まることなく熱と蒸気と魔力を供給し続けてきた。が、ここ数年で内部の魔導回路に異常が生じ、暴走の兆候が出始めている。
最初は微細な振動だった。それが次第に大きくなり、今では市街地にも地響きが伝わってくる。国家の錬金術師たちが手を尽くしたが、誰も根本的な解決策を見つけられなかった。そして今——都市の錬金術師の多くが、すでに逃げ出していた。
「もう手遅れです」
純が訪ねた錬金術師の工房で、白衣の若い女性がそう言った。机の上には設計図や計算式が山積みになっているが、彼女はそれを片付けているところだった。荷造りをしているのだ。
「手遅れとは」
「巨神炉の内部で起きていることは、もう外から制御できる段階を超えています。次の臨界まで、おそらく二年か三年。その前に都市を捨てるしかない」彼女は純を上から下まで見て、眉を上げた。「あなたは異世界人? なら早く逃げた方がいい。この都市に巻き込まれる義理はないでしょう」
純は工房の壁を見た。床から天井まで、棚に瓶が並んでいる。赤、青、緑、金。それぞれにラベルが貼ってあって、読めない文字で成分が書いてある。純はその瓶の一本を手に取り、光に透かした。液体の中で何かが動いている。粒子か、気泡か、それとも別の何かか。
「この都市に残っている錬金術師は、まだいますか」
「ほとんどいません。残っている者も、荷物をまとめています」
「では、資料室のようなものは」
彼女は純の顔を見た。しばらく黙って、それから「あります」と言った。
「でも今更、何を調べるつもりですか」
「巨神炉のことを」と純は言った。
「基礎から全部」
彼女は何か言いかけて、やめた。純の目を見て、何かを判断したのか、ただ呆れたのか、純にはわからなかった。が、彼女は資料室の場所を教えてくれた。
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純が資料室に通い始めて最初の一週間は、文字を覚えることに費やした。
この都市の文字体系は、日本語とも英語とも全く異なる。が、数式の記号は共通していた。純はそこに足がかりを見つけ、数式から文字を、文字から単語を、単語から文章を逆算するように覚えていった。
二週間で辞書なしに基礎的な技術書が読めるようになった。
資料室に残っているのは、都市の錬金術師たちが置いていった大量の文書だ。魔導回路の設計図、巨神炉の建設記録、過去三百年の稼働データ、失敗した修復案のレポート。誰かが諦めた痕跡が、棚の至る所に残っていた。
純はそれを全部読んだ。
錬金術の基本は「物質の変換」だ。この世界では、すべての物質は一定の「エネルギー構造」を持っていて、それを別の形に組み替えることで性質を変えられる。金属を熱すると融けるのと同じ原理で、適切な術式と触媒を用いれば、鉄を金に変えることも、液体を気体に変えることも、気体を光に変えることも理論上は可能だ。
巨神炉はその原理を極限まで押し進めた装置だった。炉の内部に張り巡らされた魔導回路が、燃料の魔法鉱石から引き出したエネルギーを変換して、都市全体に蒸気と魔力を供給する。その回路が、三百年の稼働で劣化し、内部で暴走し始めていた。
問題は、内部の回路に直接アクセスできないことだった。巨神炉の稼働中は内部温度が金属の融点を超えている。止めれば入れるが、止めた瞬間に都市全体の機能が失われ、その衝撃で回路そのものが崩壊する可能性が高い。止めても入れない、入れなければ直せない、直せなければ暴走する——歴代の錬金術師たちが頭を抱えてきたのは、この三重のジレンマだった。
純は計算式を書き続けた。間違える。消す。また書く。
机に向かいながら、純はよく元の世界のことを考えた。機械を分解しては壊し、壊しては直そうとしてまた壊す、あの繰り返しの日々を。周囲からは不器用と思われていたが、純自身は、壊れる瞬間の感触が気になっていた。何かがずれる感触、構造が変化する瞬間の微細な抵抗。それは今思えば、エネルギーの流れを感じ取ろうとしていたのかもしれない。うまく言葉にできなかったが、機械の中に「あるべき形」があって、自分はそこへ向かおうとしていた。ただ、方法を知らなかっただけで。
最初の一年間で、純は自分が元の世界で培ってきた機械の知識が、この世界の錬金術と驚くほど相性が良いことに気づいた。圧力の逃がし方、熱の分散、歯車の負荷計算——原理は異なるが、発想の構造は似ている。元の世界でネジを巻き続け、壊し続け、また直し続けてきた経験が、思いがけない場所で活きていた。
そして、もう一つのことにも気づいていた。
自分の「不運」について。
試験管の中の液体を混ぜると、想定外の反応が起きる。金属片に触れると、表面の結晶構造が変化する。それは偶然ではなかった。元の世界で機械を壊し続けてきたあの体質が、この世界では「エネルギー構造を変革させる力」として働いている。ネジを巻くたびに時計を壊していたのではなく、時計の内部構造を強制的に組み替えていたらしい。元の世界の機械には、それを受け止める回路がなかっただけで。
この世界なら、違う。
純は自分の手を見た。指先に、目に見えない何かが宿っているとしたら。壊すだけではなく、正しく変革させることができるとしたら。
二年目は、その力を制御することに費やした。
資料室の地下に廃棄された実験室があり、純はそこを使わせてもらうことにした。金属片、廃棄された魔導回路の部品、壊れた歯車。それらを素材に、純は毎日実験を繰り返した。触れた瞬間に意識を集中させる。エネルギーの流れを感じ取る。変革させる方向を定める。
壊すのは簡単だった。制御するのが難しかった。
最初の半年は失敗続きだった。金属を変質させようとして、爆発させた。回路を組み直そうとして、熱を暴走させた。実験室の壁には焦げた跡が無数についた。純は毎回、何がいけなかったかを書き留めた。爆発の原因、熱暴走のパターン、力の出力が大きすぎた箇所。失敗は記録に変えた。記録は次の実験の地図になった。
それでも続けた。
諦める理由が、純の中にはなかった。正確に言えば、諦めた先に何があるかを想像した時、そこには何もなかった。元の世界に帰る方法はまだわからない。この都市が消えれば、帰り方を探す時間さえ失われる。だから続ける。それだけのことだったが、純にとっては、それで十分な理由だった。
夕暮れ時、部屋の窓から斜めに差し込む光の中で、純はよく思い出した。あの部屋で、静かに自分の隣に座っていた彼女のことを。純が何度目かの失敗をして、机に突っ伏している時も、何も言わずにそこにいた彼女を。
「お前の時計を、今度こそ俺の手で直してやる」
声に出すと、不思議と気持ちが整った。泣きそうになるわけでも、感傷的になるわけでもなく、ただ、やることが見える気がした。
三年目、純はついに力の制御に成功した。
金属片に触れ、内部のエネルギー構造を感じ取り、目的の方向へ、定めた速度で変革させる。暴走させず、崩壊させず、ただ必要な変化だけを引き起こす。指先に意識を集中させると、対象の「今の状態」と「あるべき状態」の差が、なんとなく感覚でわかるようになっていた。
同じ年、純は巨神炉の内部構造の全体図を、資料室の膨大な文書から再構成することに成功した。三百年分の設計図と修復記録を組み合わせ、今現在の劣化状況を計算式で推測し、現在の回路がどのような状態にあるかを、紙の上に描き切った。
それは誰も見たことのない地図だった。
完成した図面を前に、純はしばらく動かなかった。三年かけてたどり着いた、巨神炉の「今」の姿。複雑で、傷だらけで、それでも三百年間動き続けてきた構造が、紙の上に広がっていた。純には、何をすればいいかが見えていた。恐ろしくないとは言えなかった。が、やれる、とも思った。
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【臨界】
四年目の秋。
地響きが、日常になっていた。
残っている街の人間は、揺れに慣れてしまって、食事をしながら地震を感じても顔も上げなくなっていた。が、純には数値として見えていた。振動の周期が短くなっている。振幅が大きくなっている。グラフにすれば一目瞭然で、その傾きは止まらない。あと数ヶ月、早ければ数週間。
臨界が来る。
純は準備を始めた。
巨神炉の内部温度に耐えられる素材を、廃材から選り出す。錬金術で性質を変え、熱遮断性を高める。回路を組むための工具を、この四年間で覚えた技術を総動員して、一から作り直した。元の世界の工具設計の知識と、この世界の錬金術を組み合わせた、どこにも存在しない工具だ。
設計図は、頭の中にある。紙に書けば誰かに見られる可能性がある。そして「そんなもの不可能だ」と言われるかもしれない。純は一人で作業しながら、そのことを考えた。不可能と言われることへの恐れではなく、説明する時間が惜しかった。言葉で納得させるより、実際にやってしまう方が早い。
臨界の前日、純は実験室の床に座り、明日やることを頭の中で一通りなぞった。巨神炉に入る。劣化した回路の接続を切る。新しい回路を、自分の力を使いながら直接接続する。暴走しているエネルギーの流れを、正しい方向に組み替える。
理論上は可能だ。
実際にやれるかどうかは、入ってみるまでわからない。
純は手のひらを見た。四年間で、指先には小さな傷と、薄い火傷の跡がいくつもついていた。実験で焦がした跡、工具を滑らせた跡。元の世界では、ただ機械を壊すだけだった手が、今は確かに、何かを作れる手になっていた。変革できる手に。
「直してやる」
天井に向かって、静かに言った。
都市を。そして——あの、止まったままの時計を。
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【巨神炉の内部へ】
臨界の日は、朝から空気が違った。
地面の振動が、もはや「揺れ」ではなく「鳴動」と呼ぶべきレベルになっていた。石畳が微細にひび割れ、建物の窓ガラスが小刻みに鳴り続けている。残っていた市民たちも、さすがに外に出て不安そうに空を見上げていた。広場のあちこちで人が集まり、何かを話し合っている。子供を抱えて走っている者もいる。
純は道具袋を肩にかけ、一人で都市の中心へ向かった。
誰かに声をかけられることを想定していたが、誰もいなかった。いや、純がいる通りには誰もいなかった。都市の中心部に向かうにつれて、人の気配が薄くなっていった。みな、反対方向に逃げているのだ。
巨神炉は、市街地の中心にある。高さ百メートルを超える円筒形の構造物で、外壁には三百年分の補修の跡が重なり、太い蒸気管が蔦のように巻きついている。平時であれば大勢の技術者が周囲を行き来しているはずだが、今日は誰もいなかった。
炉の前に立った純に、ものすごい熱気が打ちかかってきた。
扉は開いていた。いや、正確には、内部の圧力に押されて半開きになっていた。隙間から白い蒸気が噴き出し、金属が歪む高い音が断続的に聞こえてくる。
純はその場に立ち止まり、炉の外壁を見上げた。三百年前に作られた石と金属の塊が、今もここにある。設計者は、こうなることを想定していたか。おそらくしていなかった。三百年は、誰の計算も超える時間だ。それを今から直す。純は一度だけ深く息を吸った。
熱い空気が肺に入ってくる。少し前まで涼しかった秋の空気とは全く別の、焦げた何かの匂いが混じった熱気だ。
純は扉をくぐった。
内部は、地獄のようだった。
いや、純が知っている限りでの表現として、それ以外の言葉が出てこない。天井まで届く魔導回路の壁面が赤熱していて、あちこちで火花が散っている。太い配管から蒸気が噴き出していて、視界が白く霞んでいる。床は熱で変形していて、歩くたびにずぶずぶと沈む感覚がある。
そして、音。
機械が壊れる直前に出す、あのギリギリという音が、炉全体から同時に聞こえていた。純は元の世界でその音を何度も聞いたことがある。部品が限界まで摩耗した時の、修復不能になる一歩手前の音だ。あの音を聞いた後に間に合ったことは、これまで一度もなかった。
今日が、最初になる。
純は道具袋から工具を取り出しながら、壁の回路を確認した。設計図通りだ。劣化した接続部が、想定通りの場所にある。順番も、計算通り。
「落ち着け」
自分に言い聞かせた。
手が震えていた。熱のせいではない。これだけの規模を相手にするのが初めてだから、体が緊張しているのだ。それでも手を動かせ。震えていても、動かせれば同じことだ。
最初の接続部に手を伸ばした。
回路の金属に触れた瞬間、強烈な熱が指先を貫いた。錬金術師が作った素材の手袋があるが、それでも限界に近い熱さだ。が、その熱の奥に、純には感じ取れるものがあった。
エネルギーの流れ。
暴走しているエネルギーが、でたらめな方向に流れ続けている。正しい流れがある。そこへ向けて、今から組み替える。
指先に、意識を集中させた。
変革が始まった。
金属の結晶構造が、純の指先を通じて組み替わっていく。接続が正しく繋ぎ直される。劣化した部分が、新しい構造に生まれ変わる。それは工具でやる作業ではなかった。純の体質が、直接回路に変化を起こしていた。
一箇所目、完了。
次へ。
炉の内部を移動しながら、純は次の接続部へと向かった。蒸気が顔に吹きかかり、視界が歪む。床の変形がひどくなっていて、歩くたびに体のバランスを取り直す必要がある。
二箇所目。
三箇所目。
四箇所目。
指先の感覚が、熱で鈍くなり始めていた。感覚が薄れると、力の制御が難しくなる。実験室でもそれは経験していた。感覚ではなく、理解でやる。四年間かけて学んだ知識が、体の中に刻まれている。指先が焼けていても、頭の中に設計図は完全に存在している。
五箇所目。
六箇所目。
炉の最深部に近づくにつれて、熱が増していった。装備の許容範囲を超えている。手袋の一部が焦げ始めていた。純は足を止めずに進んだ。焦げているのは手袋だ。手袋の下の手が焼けたら、その時また判断する。今は、次の接続部へ。
七箇所目。
これが、最後だ。
炉の最深部、巨神炉の核に最も近い場所。ここに最も重要な回路がある。ここを繋ぎ直せば、全体の流れが正しくなる。
純は手を伸ばした。
回路の表面は、もはや赤く光っていた。触れた瞬間、手袋の一部が炭化した。指先に直接、熱が達した。痛みは覚えているより鋭かった。が、その痛みの奥に、エネルギーの流れが、感じ取れる。
今だ。
純は、四年間培ってきたすべての力を、指先に注ぎ込んだ。
変革の力が解放された。回路が、純の意志に従って組み変わっていく。劣化した三百年分の構造が、一瞬にして正しい形に戻っていく。暴走していたエネルギーが向きを変え、設計通りの流れに戻り——
静寂が来た。
壊れる直前の機械のような、あのギリギリという音が止まった。蒸気の噴き出す量が減り、炉全体の温度が、少しずつ落ちていく。赤熱していた壁面の色が、赤から橙へ、橙から黄へと変わっていく。
純は床に膝をついた。
全身の力が、一度に抜けていく感覚があった。指先から肩まで、使い果たした感覚。痛みはある。しかし、それよりも先に、炉の奥で聞こえてきた音に、純は耳を澄ませた。
巨大な歯車が、正しい方向に回り始めていた。
三百年前に設計されたリズムで、安定して、穏やかに。
純は炉の壁にもたれて、その音を聞いていた。元の世界でも、この世界でも、正しく動いている機械の音は、他の何とも違う。無駄がなく、迷いがなく、ただあるべきように動いている音だ。
「……動いてる」
声に出すと、ようやく実感が来た。
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【帰 還】
祝宴は三日間続いた。
都市の広場に長いテーブルが並べられ、食事と音楽と、誰かが合成した美しい光の花火が、夜空を彩った。都市に残っていた市民が全員集まったような賑わいで、純の名前を呼ぶ声が、何度も何度も広場に響いた。
純はその声を、少し離れた場所に座って聞いていた。嬉しくないわけではなかった。ただ、自分が何かを達成したという実感より先に、ここに来てから四年間が、一枚の絵のように浮かんでいた。資料室の冷たい床。実験室の焦げた壁。夕暮れ時に一人で呟いた言葉。
国の最高位の錬金術師の称号と、都市の永住権と、望むものは何でも与えるという言葉を、純は丁寧に断った。言葉を選びながら断ったが、本当のことを言えば、欲しいものはここにはない。ここに純が欲しいものはなかった。
夜、一人になった時、純は空を見上げた。
異世界の星は、元の世界とは配置が違う。四年間、毎晩見てきた空だが、見るたびに違和感があった。慣れようとしなかったのかもしれない、と純は思った。慣れてしまったら、元の世界の夜空を忘れそうで。
あの部屋の窓から見える夜空を、純はまだ覚えていた。
---
錬金術師としての力は、物質のエネルギー構造を変革すること。では、空間と時間のエネルギー構造を変革すれば、次元の壁に穴を開けることはできるか。
理論上は、できる。
ただし、通常の錬金術師には不可能だ。次元の壁を変革するためには、まず次元の壁のエネルギー構造を「感じ取る」必要がある。通常の錬金術師には、次元の壁は感じ取れない。目に見えない、触れない、計測できない壁を変革するすべがない。
しかし純には、感じ取れる。
巨神炉の最深部で、あの回路に触れた時。熱で指先の感覚がほとんどなくなった状態でも、エネルギーの流れを感じ取れた。それは感覚器官の問題ではなかった。純の「変革の力」は、物理的な感覚を超えて、エネルギーそのものに直接アクセスしていた。
ならば。
次元の壁にも、触れられる。
純は廃材の置き場から素材を集め、三日かけて術式の基盤を組んだ。どこかの錬金術師が書き残した「次元干渉理論」の文書を元に、純なりの解釈で計算式を組み直した。理論的な裏付けはある。問題は規模だ。次元の壁を変革するためには、巨神炉に接続した時の十倍以上のエネルギーが必要になる。
自分の体一つで行うのは、巨神炉の時より遥かに過酷になる。
純はその計算式を前に、しばらく考えた。やれるかどうかではなく、やらなかった場合のことを。この都市で錬金術師として生きていく自分を、想像しようとした。できなかった。できないというより、その絵に、どうしても実感が伴わなかった。
広場の隅に術式の基盤を展開した時、気づけば人が集まっていた。
都市に残っていた人間たちが、純の作業を遠巻きに見ている。何を作っているのか、誰も声をかけなかったが、誰も離れようともしなかった。純には彼らの顔が一人一人わかった。四年間で、言葉を交わしてきた人たちだ。
純は基盤の中心に立ち、目を閉じた。
次元の壁を感じる。
ある。
確かにそこにある。分厚い、透明な何か。時間と空間が凝固したような構造をしている。これを変革する。ここに穴を開ける。
力を注ぎ込んだ。
じわりと、壁が動いた。
足元から、金色の光が滲み始めた。術式の基盤が共鳴して、銀色の光が加わる。金と銀が混ざり合って、純の周囲に柱を作る。
もっと。
さらに力を注ぎ込んだ。次元の壁が、ゆっくりと開いていく。純の感覚の中では、分厚いガラスをヒビ割って押し広げるような感触だ。炉の中よりも、ずっと静かな戦いだった。音もなく、熱もなく、ただ純の意識と、壁の構造だけがある。
光が強くなる。
広場が静まり返っている。
純は振り返った。
見送ってくれる顔が、幾つもある。最初の夜、宿を世話してくれた男もいる。彼は煙草を口にくわえたまま、片手を上げた。純も手を上げた。
言葉にしなかったのは、言葉にする必要を感じなかったからではなく、声を出すと光の制御が乱れそうだったからだ。が、それで伝わる気がした。四年間、同じ都市で生きてきた人間には。
次元の扉が、完全に開いた。
まばゆい光の中へ、純は踏み込んだ。
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【時計が動く】
夕暮れの光が、窓から斜めに差し込んでいた。
彼女は部屋の中に立っていた。
壁際のテーブルの上に、あのアンティークの置き時計がある。純が消えた日から、ずっとここにある。止まったままで。文字盤に小さなひびが入っていて、中から光が溢れ出した日のことを、彼女は今でも、ほぼ毎日思い出す。
何があったのか、今もわからない。
帰ってくるかどうかも、わからない。
それでも、彼女はこの部屋にいる。夕暮れ時になると、なんとなくここへ来てしまう。説明しろと言われても困る。ただ、あの光が差し込んでいた時間帯に、この場所にいないといけない気がした。根拠はない。ただ、そう感じた。
だから。
止まった時計の前に光が滲み始めた時、彼女は最初、目を疑わなかった。
疑わなかったというより、体が先に動いた。息を止めて、後退りもせず、その光から目を逸らさなかった。金色と銀色が混ざり合った光が、部屋の空気を満たしていく。あの日と同じ光だが、方向が逆だ。あの日は時計から光が出た。今は、部屋の中心から光が溢れ、時計へと向かっていく。
光が、人の形を作った。
少し大人びた輪郭。背が少し伸びて、肩幅が少し広くなった。けれど、こちらを見る目は、変わっていない。
「ただいま」
彼女はすぐに返せなかった。
返す言葉は知っている。ずっと待っていた言葉だ。なのに、声が出るまでに少し時間がかかった。
「……おかえり」
二人は向かい合ったまま、しばらく動かなかった。かける言葉が多すぎて、どこから始めればいいかわからなかった。いなくなってから、どれくらいの時間が経ったのか。あちらの世界では長い年月だったかもしれないが、こちらの世界では時計が止まったあの瞬間のままのような気もして、彼女には見当がつかなかった。
純は、道具袋を床に置いた。
それから、テーブルの上の時計に目を向けた。
「ちょっと待ってて」
小声でそう言って、純は時計の前に立った。
四年前と同じように、二本の指で竜頭を挟む。が、その手は、四年前のものではなかった。指先に薄い傷の跡と、火傷の痕。何百回も実験を繰り返し、何度も焦がし、それでも手を動かし続けてきた手だ。純はその感触を、指先で確かめるように、竜頭をゆっくりと持った。
意識を集中させた。
時計の内部のエネルギー構造を、感じ取る。四年前、自分が何をしてしまったかが、今ははっきりわかる。でたらめに変革させてしまっていた構造が、どうあるべきかも。ただ壊すのではなく、正しい形に向けて、変革させる。あの時できなかったことを、今やる。
ネジを、巻いた。
カチ。
一つ目の音が、部屋に響いた。
カチ。カチ。
歯車が、正しい方向に回り始める。今度は逆回転しない。今度は爆発しない。ただ、静かに、設計通りに、百年前の職人が意図した通りのリズムで——
カチ、カチ、カチ、カチ。
時計が動いた。
純は振り返った。
彼女が目を見張っていた。止まっていたはずの時計が動くのを、信じられないものを見る顔で眺めていた。驚きと、それから、ずっと我慢していたものが溢れそうな顔で。
純は何か言おうとして、やめた。言葉より先に、言いたいことの重さが喉のあたりにあった。どこから話せばいいのか、どれだけ話しても足りないのか、それをわかった上で、まず一つだけ言った。
「直ったよ」
彼女は何も言わなかった。
言わなかったが、純には伝わった。ずっとここで待っていたことが。根拠もないのに待ち続けていたことが。それがどういうことか、純にはわかった。
夕暮れの光の中で、時計の音だけが聞こえていた。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
完璧な音で、時が刻まれていく。これから話す時間は、いくらでもある。
純はそれを、時計の音を聞きながら、静かに思った。
若き日の スチームパンク のわくわくを紡いだ小説です
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