スープ職人
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あらすじ
<p>【胃袋からの大脱出】</p><p>「――なるほど、強酸性か。なら、中和は早い。いい出汁が取れそうだ」</p><p>ぬめぬめと蠢く不快なピンク色の肉壁。足元を容赦なく押し寄せる、すべてをドロドロに融解させる胃酸の津波。その絶望的な地獄絵図の中心で、佐藤 純 はお玉をビシッと構えたまま、店の厨房でスープの味見でもしているかのようにひどく冷静に呟いた。</p>
本文
【胃袋からの大脱出】
「――なるほど、強酸性か。なら、中和は早い。いい出汁が取れそうだ」
ぬめぬめと蠢く不快なピンク色の肉壁。足元を容赦なく押し寄せる、すべてをドロドロに融解させる胃酸の津波。その絶望的な地獄絵図の中心で、佐藤 純 はお玉をビシッと構えたまま、店の厨房でスープの味見でもしているかのようにひどく冷静に呟いた。
ここは世界を呑み込むと言われる超巨大海獣「リヴァイアサン」の胃袋の中。どこをどう間違えれば、日本の商店街からこんな狂った場所に強制転移させられ、おまけにエプロン姿で飯を作ることになるのか、普通の人間には逆立ちしても理解できないだろう。純にだって正直一ミリも分からない。だが、職人とは因果な生き物だ。目の前に魔導コンロを据えた。火はある。素材はある。ならば、料理人がやることは一つ。
今大事なのは、この鍋の対流だ。それだけだ。世界の危機より、まず目の前のスープを最高の状態に仕上げること。
「のんきに灰汁(あく)を取ってる場合じゃないわよ 純!! 溶ける! 私たちが溶けちゃう!」
純の隣で、妻が声を限りに叫んだ。 両腕を天に広げ、青白い光を全身の毛穴から全開で絞り出して、迫り来る胃酸を阻む絶対防壁の結界を維持している。額には滝のような汗が滲み、唇は魔力枯渇による極限の疲労でガタガタと震えていた。この巨獣に呑み込まれてから一体何時間が経つのか。彼女の魔力は、もうとっくに底をつきかけていた。
壁際に生ゴミのように張り付いた異世界の冒険者たちの顔も、一様に死人のように青ざめている。Sランクの凄腕剣士も、お偉い高名な大魔導士も、数々の修羅場をくぐり抜けた歴戦の傭兵も関係ない。ここではただの「怪獣の消化待ちの具材」に過ぎない。満ちてくる胃酸の、鼻をもぎ取るような臭気に、誰もが希望を捨て、膝を折りかけていた。
「大丈夫。もう少しだ。絶望する前に、人間は腹が減る」
純はそう答えながらも、一切手を止めなかった。視線は鍋の中央、一分子の乱れも許さない対流の渦へと固定されている。
怪獣が先ほど生呑みにしたという、市場価格が国家予算レベルの幻の魔獣肉が、魔鉄の鍋の底でゆっくりと、しかし確実に極上の旨味をジュワジュワと解き放っている。そこへ、純は「道具箱」から「発酵魔ハーブ」を豪快にひとつかみ投入した。アルカリ性が異常に強く、かつこの異世界でしか採れない特殊な草だ。リヴァイアサンの胃酸(強酸)とこのハーブが接触すれば、化学的な熱量が爆発的に生まれる。そして、その熱量を妻の結界を触媒にして魔力へと逆変換する――それこそが、純がこの極限状態で閃いた「瞬間中和スープ」の理論。
問題は、その 絶妙な加減。
強すぎれば、エネルギーが暴走して鍋ごと全員が木端微塵に吹き飛ぶ。弱すぎれば、ただの酸っぱくてマズいスープ。だからお玉で、丁寧にかき混ぜる。完璧な対流を作る。熱が均一に行き渡るように、鍋の中を静かに、ゆっくり、丁寧に回してやる。スープは暴れさせてはいけない。怒った火に任せて煮立てれば、素材の芯は硬いまま、外だけがドロドロに崩れる。それは料理じゃない。ただの暴力的な熱湯だ。己の技術で、暴虐の炎を従順な飼い犬へと調教していく。
お玉をスッと引いた瞬間、純の指先にカチリと確かな手応えが伝わった。
世界がピタリと静止したような錯覚。整った。
「――できた」
鍋から黄金色の湯気が、暗黒の胃袋を真っ昼間のように照らしながらふわりと立ち上った。純はすぐさま器を手に取り、壁際に座り込んでいた冒険者たちへ容赦なく配って回る。「飲め。残したら皿洗いだ」とだけ言った。能書きを説明している時間はない。
一人の剣士が、半信半疑でそれをガツンとあおった。
次の瞬間、その冒険者の背中から、まるで最新鋭の蒸気機関車のようにゴォォォッ!!と凄まじい白い湯気が噴き出した。
「な、なんだこれはぁぁぁ!? 旨味が、旨味が脳天を突き抜けて――力が、力が無限に湧き上がってくるぞおおお!」
二人目、三人目。次々とスープを干した者たちの体から、まばゆい光の魔力オーラが天に向かって爆発的に立ち上る。大魔導士が信じられないものを見たという風に目を見開く。「これは――」と誰かが驚愕に震える声で呟いた。魔力が極限まで引き上げられ、高密度に圧縮された純度100%の魔力が、全身の毛穴という毛穴から滝のように溢れ出している。
「全員、構えろ!」
復活どころかドーピング全開になった誰かが、地鳴りのような声で叫んだ。全員が立ち上がり、一斉に両手を肉壁へと翳した。各自が蓄えた魔力が巨大な光球となり、一つに束ねられ、ピンク色の肉壁へと向かって超ド級のレーザーとなって解き放たれた。
ドォン。
音というより、空間そのものが爆散したかのような衝撃が全身を叩いた。足元が激しく揺れ、肉壁にバキバキとひびが走り、次の瞬間、直径10メートルに及ぶ大穴が開いた。
ドッと、まばゆい光が差し込んでくる。
純はあまりの眩しさに目を細めながら、お玉を持ったまま大穴の外を見た。
そこにあったのは、息を呑むようなエメラルドグリーンの大海原。紺碧の空には、大小二つの月が並んで浮かんでいる。遠く、霞の向こうには、重力を完全に無視して島が浮いていた。一つではない。連なるように、いくつもいくつも。まるで雲の上に広大な大陸が乗っているみたいに、空に島々が並んでいた。
穴から吹き込んでくる心地よい風が、純の煤けた髪を揺らした。日本の港とは違う、圧倒的な生命力に満ちた磯の匂いと、嗅いだこともない高貴な花の匂いが混ざり合っていた。
妻が、純の隣にそっと立った。二人はお互いの顔を見合わせ、それから黙ってその景色を見た。
「純さん」と、妻が煤けた顔で不敵に笑う。
「どうやら私たち、日本の商店街からちょっと遠くへ来すぎちゃったみたいね」
異世界の、大絶景だった。
ここから彼らの、おかしな旅が始まる。
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純の異世界ライフには猛烈な追い風が吹いていた。言葉の壁という最大の難問は、胃袋を脱出した直後に救助した魔導士が、お礼にと「言語即時習得魔法」をかけてくれたおかげで、翌朝にはまるで生まれ故郷かのように不自由なく話せるようになっていた。文字もいつの間にか読めた。世界の詳細な地図も手に入った。あとは、お玉一本、腕一本あれば生きていける。
「腹が減っている人間は、ろくなことを考えない。世界を滅ぼす奴はだいたい飯がマズい環境にいる」というのが 純の頑固な持論。
純が寸胴鍋を担いでスープを差し出すたび、異世界の人々は例外なく目を丸くし、椅子から転げ落ちた。知らない大陸から来た、言葉も名も知れぬ怪しげな料理人が作る一杯が、致命的な傷を瞬時に癒し、大魔王の呪いを解き、国家規模の絶望をひっくり返す。その噂は風よりも早く大陸中に広まった。一年でその名が知れ渡り、三年で生きる伝説になりかけたが、純はそんな周囲の喧騒などどこ吹く風で、ただただ頑固にスープを作り続けた。
純がスープを一杯作るたびに、世界がゴトゴトと音を立てて強制的に動かされた。
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例えば、結晶の鉱山都市が熱暴走でドロドロに溶けかけた夜がある。
すべてが美しい鉱石結晶でできた、芸術品のような都市だった。街灯の代わりに巨大な水晶柱が優しく光り、地面も壁も天井も、すべての光を反射して虹色に輝いていた。しかし、その輝かしい都市のエネルギー源である古代魔導炉が最悪の熱暴走を起こし、街の根元から融解が始まっていた。
近づけた水は、一メートル手前で「シュッ」と虚しく消滅する地獄。魔法の冷却装置は過負荷で軒並み焼け落ち、なす術がない。住民たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、国家最高の技師たちは顔を青くして「もう手がない、都市を捨てるしかない」と、持っていた工具を放り出して逃げ支度を始めた。
その時、パニックに陥る彼らの背中に、純の凄まじい怒号が突き刺さった。
「逃げるな職人ども! 対流が止まれば都市が丸ごとスープの具になるぞ!」
「ひ、料理人!? な、何を言っているんだ君は!」
腰を抜かす国のエリート技師たちを完全に無視して、純は目の前で淡々と「岩泥芋」の皮を剥いていた。
岩泥芋は、この地方の泥深い地下にしか生えない、粘度が異常に高い頑固な根菜。これをベースにした、スプーンを突き刺しても倒れないほどの超高密度のポタージュを仕込む。
一般的に、粘性の高いスープは熱を閉じ込めて逃がさない――と思われがちだが、料理の本質を知らない素人の間違いだ。鍋の中で完璧な対流を作り出せば、熱は一点に留まることができない。全体へ均一に広がり、急速に分散する。スープの圧倒的な全体積で熱を受け取れば、局所的な臨界点など起こりようがない。
純は滝のような汗だくになりながら、狂ったように熱を放つ炉の前でお玉をマッハの速度で回し続けた。魔導炉のわずか手前まで、沸騰する鍋を運ぶ。距離にして、わずか五メートル。皮膚がじりじりと焼かれ、まつ毛が熱でチリチリに縮れる嫌な感覚がした。後ろで妻が「私の魔力が切れたらあんたを肉盾にするからね!」と歯を食いしばり、必死に防護の結界を張ってくれていなければ、三秒と保たずに消滅していただろう。
純は叫びと共に、完成したポタージュを魔導炉の真っ赤に染まった投入口へ豪快に流し込んだ。
ズゴゴゴゴゴゴオオン!!!
都市を揺るがす轟音が響いた。炉の中で驚異的な対流が起き、爆発的だった熱量が芋の分子に瞬時に分散され、吸収され、スープ全体に均一に飲み込まれていく。臨界点を示す魔導メーターが、一段、また一段と目に見えて下がっていく。
こうして都市は救われた。
代わりに純は全身の体力を使い果たし、三日間、ベッドから一歩も動けなかった。妻が呆れた顔で水を運んできて、「あんた、本当に手の施しようのない馬鹿ね」と言って、でも、どこか誇らしげに笑っていた。
この突飛な一件で純の名は大陸中に轟いた。
「世界の胃袋」という、ちょっと大食いチャンピオンのような異名が生まれたのも、まさにこのころだった。
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王都の防壁を呑み込まんとする、天災規模の超巨大流体モンスター「オメガ・ゼリー」が来襲した日もある。
「剣が通じない? 魔法が効かない? 当たり前だろ、あれは単なる『とろみのついた水分』。つまり、ただの巨大な片栗粉の塊みたいなもんだ!」
それは生きる大洪水。物理攻撃は虚しくすり抜け、魔法の火炎は水分で消され、雷撃は巨体全体に受け流される。あらゆる攻撃を無効化し、すべてを包み込み、窒息させ、都市を文字通り「胃袋」に収めようとする流体の怪物。絶望した王宮騎士団が「神の鉄槌を待つしかない」と祈りを捧げる中、純は戦場のど真ん中で、数千リットルの熱湯を沸かした大釜の前に立っていた。
純がプロの眼光で睨みつけたのは、怪物の「とろみ(粘性)」の正体。
「おい魔導士、あの怪物の構成成分に『ペクチン(植物性多糖類)』の魔力反応はあるか!?」
「えっ!? は、はい! 確かに植物系の魔力による異常なゲル化反応が――」
なら話は早い。とろみ(ゲル)はな、酸度と糖度、工程における熱のバランスが崩れれば、一瞬で保水力を失ってただのシャバシャバの水に戻るんだよ!」
純は叫ぶと同時に、大釜の熱湯へ大量の「異世界レモン果汁(強酸)」と、山のような「サトウキビの蜜(糖)」をぶち込んだ。お玉の代わりに巨大な木製の櫂を握り、妻の防護結界に守られながら、津波のように迫るゼリーのド真ん前で大釜を全力で攪拌する。酸、糖、熱。ゲル化を崩壊させる「絶対の黄金比」が揃った瞬間、釜から強烈な甘酸っぱい湯気が立ち上る。
「喰らえ! 特製レモンスープだ!!」
純は王都中の魔導士たちの風魔法を借りて、大釜のスープをスライムの頭上から豪快に噴霧した。
シュワァァァァァッ!!
シロップが触れた瞬間、怪物の巨大な肉体が一変、激しく泡立ち、悲鳴のような音を立ててボコボコと崩れ始めた。網目状に水分を保持していたゲルの結合が、純の計算通り一瞬で完全に破壊された。
さっきまで王都を滅ぼそうとしていた巨大な怪物は、わずか数分でただの「大量の、ちょっと甘酸っぱい美味しい水」へと成り下がり、乾いた大地へと虚しく吸い込まれていった。
残されたのは、泥まみれになりながらも、なぜかほんのり異世界レモンの良い香りがする王宮騎士たちと、肩で息をする純の姿だけ。
この日、純の元には、王都のすべての貴族から「我が家のお抱えシェフになってくれ」という、執拗なストーカーまがいの招待状が数千通も届くことになった。
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あるいは、精神を木端微塵に砕く「呪いの音」が鳴り響く古代神殿もあった。
「耳を塞ぐな。そんな安物の防具では防げん! このスープの泡で音を喰うんだ!」
呪われた古代の神殿。内部に一歩でも踏み込んだ者は、精神を汚染され、例外なく数分以内に発狂した。自ら叫びながら壁に頭を打ちつけ、口から泡を吹いてバタバタと倒れた。目に見えない、不可視の殺人超音波が常時発振されているのだと、調査隊の魔導学者は震えながら言った。その音波の振動は、あらゆる物理的な盾も魔法の障壁すら簡単に通り抜け、直接、人間の脳と鼓膜をズタズタに震わせる。
そこで純は、無限収納 道具箱から大量のミルクと新鮮なオイルを取り出した。
狙うは「乳化」。本来混ざり合うはずのない水と油を、完璧な比率で混ぜ合わせ、その境界面に何億、何兆もの微細な気泡を閉じ込める高等技術。普通はフランス料理などで「なめらかなソース」を作るためのシェフの技法だが、純にはもう一つの物理的な使い道があった。この極小の気泡たちは、音の振動を完全に遮断する。柔らかく、弾力があり、いかなる微振動も先へ伝えない天然の防音壁だ。
純はお玉を持ち、腕が千切れて痺れるほど猛烈な速度で攪拌し続けた。真っ白に白濁した、とろみのあるスープが完成した。純はこれを、嫌がる調査隊員たちの兜の内側に容赦なく塗り込み、彼らの耳の周囲を完全に覆い尽くした。見た目は完全にギャグだが、効果は絶大だった。
そして、再び神殿に踏み込んだ。
キィィィンと、頭蓋骨の内側を直接スプーンで掻き回されるような呪いの感覚は確かにあった。だが、鼓膜はビクリともしなかった。脳は決して震えなかった。スープの中の無数の気泡たちが、呪いの振動を一つ残らず包み込み、飲み込んで消滅させていた。
神殿の最奥に一体何が眠っていたのか、純は今も他人に話さない。ただ、その翌日、王城から純の元へ、目が飛び出るような報奨金と共に、国王直筆の正式な感謝状が届いた。
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さらに、時間の流れが完全に崩壊した「時間の迷宮」では、スプーン一杯のスープで狂った現在地を取り戻させた。
その不気味な迷宮では、時間の流れがモザイク状に狂いに狂っていた。一歩踏み込めば十年前に飛ばされ、二歩進めばまだ見ぬ未来へ、三歩引けば昨日の朝に戻る。多くの旅人たちが自分の主観的な「現在」を完全に見失い、過去と未来の狭間で精神を摩耗させ、永遠に彷徨っていた。彼らの目は完全に虚ろで、その表情は、どこかにあるはずの「今」を探したままピタリと止まっていた。
純は荷物の底から、大切に保管していた百年物の熟成スパイスを取り出した。異世界に来て三年目に、命懸けの冒険で手に入れた特別な代物。それと、迷宮の入口付近で今朝摘んできたばかりの、朝露に濡れた新鮮なハーブをまな板の上に並べる。
「百年前のスパイスと、今さっき摘んだばかりのハーブ。時間を、この鍋の中で一つに混ぜ合わせる」
違う時間を一つの鍋で同時に煮る。
気が遠くなるような熟成と、弾けるような鮮度。過去の腐蝕と未来の生命。相反する時間の成分を、絶妙すぎる火加減とミリ単位の煮込み時間によって、「一つの旨味」へと強制的に融和させていく。これが神業に近いほど難しい。どちらか一方が強すぎれば、もう一方が確実に死ぬ。両方が最高潮に生きたまま、奇跡の一つの味になる瞬間を、じっと待つしかない。
四十分の静寂の後、琥珀色の極上コンソメスープが完成した。
純は迷宮の旅人たちに、それを一杯ずつ手渡して回った。彼らが口に含んだ瞬間、その目が劇的に変わった。光を失い虚ろだった焦点が、スッと「今、ここ」の現実に合う。彼らの脳内で、狂っていた時間の歯車がカチリと音を立てて噛み合う音が、純の耳にまで聞こえてきた気がした。
全員が、奪われていた「今」へと帰ってきた。
この十五年という歳月で、純は数えきれないほどの場所を、国を、人々をスープで救った。どの都市に行ってもその名を称えられ、どの国の王も彼を見れば深く頭を下げた。それでも、純が人生で唯一気にしたのは、スープを喉に流し込んだ誰かが、「う、うめええええ!!」と涙を流して顔を綻ばせるその劇的な一瞬だけだった。その一瞬のためだけに、彼は作り続けた。
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お玉が割れた夜
ワァァァァ!という地鳴りのような万雷の拍手と歓声の中、純はエプロンで手を拭きながらフッと満足げに笑った。
ここは異世界の首都にある、巨大な大広場。十五年の長い旅の果てに「世界の胃袋」とまで崇められた男は、今日もその名に恥じない奇跡の仕事をやってのけた。正直、その大層な呼び方が気に入っているわけではない。ただ、不器用に向き合ってきた結果、そう呼ばれるくらいにはなれた気がした。
すぐ隣には妻がいる。十五年間、一日たりとも欠かさず、文句を言いながらも自分の隣にいてくれた人だ。あの暗いリヴァイアサンの胃袋の中から始まって、都市が溶けかける鉱山都市の炎の前でも、あの超巨大スライムの脅威の前でも、あの発狂しそうな呪いの神殿の中でも、時間の迷宮の歪みの中でも、彼女はいつも隣で命懸けの魔法の結界を張り続けてくれた。今日くらいは、仕事のことは忘れてゆっくりさせてやりたい。
そう思った、まさにその瞬間だった。
純の手の中で、何かが小さく鳴った。
パキィン。
ひどく澄んだ、静かな音だった。硬い鉄が乱暴に割れる不快な音ではなく、何か大切なものが、すべての使命を全うして、静かに眠りにつくような音だった。
驚いて手元を見れば、あのリヴァイアサンの胃袋から十五年間、来る日も来る日も使い込んできた相棒――ステンレスのお玉が、真っ二つに割れていた。柄の根元から、定規で引いたようにきれいに。そして、その断面から、目に見えるほど濃い白い湯気が立ち上り、純の鼻先をかすめた。
それは、十五年分のスープの匂いだった。
一番最初の魔獣肉のワイルドなコク、発酵ハーブのツンとした酸味、あの鉱山都市を救った岩泥芋の濃厚な甘み、スライムを溶かしたレモンの爽やかさ、神殿を沈めたミルクの包み込むような優しさ、迷宮を解いた熟成スパイスの奥深い深み。それらすべてが、走馬灯のように一瞬で純の脳裏を駆け抜けていった。
妻がハッとして純の顔を見た。純もまた、引き寄せられるように妻を見た。
それが、すべての引き金だった。
突如として、二人の周囲の空間がぐにゃりと歪み始める。見慣れた異世界の景色が、まるで熱い鍋の中の激しい対流のように、純たちを中心にして猛烈に渦を巻き始めた。大広場の頑丈な石畳が、自分たちを称賛していた群衆の声が、美しい夕暮れに染まる首都の空が、ぐるぐると混ざり合い、収縮し、やがて一つの黄金色の美しい雫へと凝縮されていく。
すべてが消え去ろうとする光の中で、妻が純の手をちぎれんばかりに、強く、強く握りしめた。
次の瞬間、純の鼻腔を突いたのは――懐かしい、都市ガスの匂い。
気がつくと、視界に飛び込んできたのは 見慣れたスープショップの壁。使い込まれたコンロ。狭い厨房。
妻がスプーンを持ったまま硬直して、純の顔を凝視していた。
純は慌てて壁の時計を見た。秒針は、あの異世界の胃袋に呑み込まれるまでの、あの瞬間のたった十秒しか進んでいない。十秒前と、今が、何事もなかったかのように平然とつながっている。
しかし、純の右手には、あの割れたお玉ではなく、傷一つないピカピカのステンレスのお玉が握られていた。
「……くくっ、ははは!」
フッと、こらえきれない笑いが口から漏れた。
純はお玉を強く握り直した。十秒前まで、あと一歩何かが足りないと頭を抱えて悩んでいた絶妙な火加減の答えが、今は手の中に、脳内に、十五年分の経験としてハッキリと存在している。
コンロの前に堂々と立ち、鍋の中を覗き込む。スープが、優しくゆっくりと対流している。その複雑な分子の動きさえ、今の純にははっきりと目で追えた。どこで、どのタイミングでお玉を入れ、どう引けばいいか、身体が勝手に理解していた。
純はお玉を入れた。
スープの繊細な対流をミリ単位すら乱さないまま、ほんの数センチ、職人の手つきでお玉を動かす。お玉の縁が、表面に浮いたわずかな雑味と灰汁の膜だけを完璧に捉えた。一瞬の、神速の動作。引き上げると、お玉の上には薄灰色の膜だけが見事に乗っていた。
次の瞬間、鍋の中のスープが、みるみるうちに澄み渡っていった。まるで磨き抜かれた水晶のように、底まで透き通った完璧な黄金色のスープ。
後ろで、妻が「あ……」と小さく息を呑んだ。
純はもう一度、滑らかにお玉を入れた。また、静かに引く。またスープが美しく澄む。何も変わっていない。異世界だろうが日本だろうが、十五年前も、十五年後も、料理人が鍋の前でやるべきことは、ただ愚直に同じことをやり続ける、それだけだ。
「純さん」
妻の声が、少し震えていた。
「あなた本当に……世界一のスープ職人よ」
純はゆっくりと振り返った。
妻の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出していた。堪えようとして、でも堪えきれなくて、一粒の光がすっと彼女の頬を伝って落ちていく。それは十五年の過酷な旅の記憶と、目の前にある究極の一杯のすべてを理解した涙だった。純はカウンター越しにそっと手を伸ばし、その温かい涙を指先で拭った。
「知ってる。お前の結界のおかげだ」
妻が、笑った。涙を流しながら、最高に嬉しそうに笑った。
二人は静かに微笑み合った。
夜、すべての店じまいを終える。
椅子をひっくり返して机の上に並べ、モップで床をきれいに拭き上げ、コンロの火をパチリと落とす。純は店の入り口にある黒板の前に立ち、前の日の古くなった文字を雑巾で拭いて、新しいチョークを手に取った。
そして力強く、一文字ずつ、心を込めて書き進める。
『特製スープあります。異世界帰りにつき、味は保証付き』
後ろからのぞき込んできた妻が、「最後の一言のせいで、オカルトショップだと思われるわよ」と呆れたように笑った。
「食えばわかる。スープが変わらない限り、俺のやることは変わらない」
「それもそうね」
二人は並んで、ガラガラと音を立てて表の古いシャッターを下ろした。
ふと見上げた夜空には、日本の、少し寂しげな三日月がぽつんと一つだけ浮かんでいた。
味覚の奥には、今も確かに、そして色褪せることなく輝き続けている。
あの絶望的な怪獣の胃袋をぶち破り、都市を救う炎をくぐり、巨大ゼリーをレモン味に変え、呪いの神殿を踏み越え、時間の迷宮を鮮やかに抜けて、世界を端から端まで旅した果てで見た――大小二つの月が美しく浮かぶ、あの壮大な異世界の空が。
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