LEVIATHAN CLAW
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
与那国島の深海に、体長十一メートルの甲殻類が潜んでいた。駆除か対話か——光のパターンで語りかけてくる未知の知性を前に、人間は選択を迫られる。そして明かされる真実、それは三万二千年の沈黙を破った、新種との最初の遭遇だった。
本文
LEVIATHAN CLAW
序章 漂着
与那国島 午前五時十七分
波が引くたびに、異臭が濃くなった。
島袋漁は長年の習慣で夜明け前に目が覚める。齢六十七、与那国島で生まれ与那国島で老いた漁師にとって、海は空気と同じものだった。しかしその朝、自宅の縁側に出た瞬間、彼は足を止めた。潮の匂いに混じって、鉄錆に似た何かが漂ってきた。血の匂いだと気づくのに、さほど時間はかからなかった。
砂浜に降りた島袋は、まず影を見た。
夜明けの薄い光の中で、それはクジラかと思った。全長七メートルはあろうかという巨大な物体が、波打ち際に横たわっていた。しかし近づくにつれ、それがクジラではないことがわかった。背びれがない。尾びれの形が違う。灰青色の皮膚は滑らかではなく、硬質な鱗に覆われている。
ホオジロザメだった。
島袋は四十年以上漁師をしている。サメを見慣れていた。しかし目の前の光景は、彼の経験のどこにも当てはまらなかった。サメの腹部に、直径八十センチほどの穴が開いていた。穴の縁は鋭利に抉れており、周囲の組織は内側から外側に向かって押し広げられていた。まるで内部から爆発したように。
島袋はしゃがみ込み、穴の縁を観察した。ここで重要なのは、彼が冷静だったことだ。老漁師は怯えるより先に、職業的な観察眼を働かせた。穴の内壁は焦げていなかった。爆発物ではない。断面の組織は潰れていた。何か硬いものに、途方もない力で打ち抜かれた。
島袋は立ち上がり、砂浜を見渡した。
波打ち際から三メートルほどのところに、規則的な窪みが並んでいた。直径二十センチほどの円形の窪みが、等間隔に点在している。砂が乾いていたら風で消えていたかもしれない。幸い夜露で湿っていた砂は、痕跡をはっきりと保存していた。
島袋は携帯電話を取り出した。写真を撮った。それから海上保安庁に電話した。
電話口の若い職員は、最初に鯨の死骸と聞き間違えた。島袋は訂正した。サメだ。大きなサメが穴を開けられて死んでいる。若い職員は「わかりました、確認に参ります」と事務的に答えた。
島袋は電話を切り、もう一度海を見た。
水平線は白み始めていた。穏やかな海だった。波は低く、風もほとんどなかった。この島の周辺海域で最も深い場所は、ここから南に二百キロほど行った先にある。琉球海溝。最深部は二千三百メートルを超える。
島袋の祖父は、その海溝を「ウミヌニライ」と呼んでいた。海の底の底、という意味だ。神様が住む場所だとも言った。近づいてはいけない、と。
老漁師は煙草に火をつけ、砂浜に腰を下ろした。海を見つめながら、祖父の言葉を思い出した。
海は、まだ何も教えてくれなかった。
第一章 痕跡
海洋研究開発機構(JAMSTEC)調査船「かいれい」 与那国島南方二百二十キロ 三日後
「もう一度、数字を確認させてください」
仲村凪は画面から顔を上げ、向かいに座る同僚の顔を見た。
「信じられないのはわかります。でも、データは正確です」
調査船「かいれい」の解析室は狭かった。六畳ほどのスペースに、モニターが五台と解析用ワークステーションが並んでいる。エアコンの効きが悪く、五月の南方海域では昼間の室温が三十度を超えた。仲村は白衣の袖をまくり、再びキーボードを叩いた。
画面に表示されているのは、過去三ヶ月分の魚群探知機データだった。与那国島南方の海域、北緯二十一度から二十三度、東経百二十五度から百二十七度の範囲。百四十四平方キロメートルに相当するその海域で、今年の一月以降、魚影が急激に減少していた。
減少ではない、と仲村は思った。消えた、というべきだ。
「一月第一週と第四週のデータを重ねて表示します」
彼女がコマンドを入力すると、二枚の分布図が透過合成された。一月初旬の画面には、中型魚から大型魚まで、豊富な魚影が散在していた。しかし四週後のデータには、ほぼ何もない。点在する小さな反応は、せいぜいカタクチイワシ程度の小型魚だ。
「これは漁業圧力では説明がつかない」と仲村は言った。「この海域で操業している漁船のデータは全部照合しました。むしろ漁獲量は例年より少ない。何かが魚を追い払っている。あるいは食い尽くしている」
「食い尽くす、か」
同僚の田端研究員が腕を組んだ。東京大学出身の三十五歳で、仲村より五年先輩にあたる。優秀な研究者だが、保守的な人物だった。
「サメの個体数増加の可能性は?」
「調べました。サメのデータはむしろ少なくなっています。与那国島で三日前に打ち上げられたホオジロザメのニュース、知っていますか」
田端は眉を上げた。「あの腹に穴の開いたやつか」
「海保のレポートを入手しました」仲村はフォルダを開き、写真を呼び出した。「穴の直径は七十八センチ。断面の組織分析では、高速の鈍器による単発の貫通打撃と一致しています。刃物ではない。爆発物でもない。そして——」
彼女は次の写真を表示した。「砂浜の窪みです。海保の職員が撮影しました。直径十八から二十二センチの円形の窪み。深さ平均三センチ。等間隔で十四個確認されています」
田端が画面に近づいた。「これは……」
「歩行痕、だと思います」
沈黙が落ちた。エアコンの唸り声だけが続いた。
「何の」と田端がようやく言った。
「わかりません。でも間隔から推定すると——」仲村は計算結果を示した。「歩行痕の間隔は平均九十センチ。体節の幅から類推すると、全長は……最低でも八メートル以上」
田端は椅子に深く座り直した。「凪、それは」
「非常識な数字だとわかっています」仲村は静かに言った。「でもデータがそう言っている」
彼女は最後のファイルを開いた。三週間前に「ウミガメ-2」が撮影した深海映像だ。水深三百二十メートル付近、琉球海溝の縁にある岩礁地帯。映像は十四秒間しかなかった。機体に何らかの衝撃が加わり、カメラが停止したためだ。
その十四秒の映像の、七秒目から八秒目にかけて、画面の右端に何かが映り込んでいた。
仲村が一時停止させた。
それは岩盤の色と似ていたが、岩ではなかった。表面に規則的なパターンがある。硬質な、何かの断片。映り込んでいるのは全体のほんの一部だったが、仲村の目には明らかだった。
「これが、私が報告書を書いた理由です」
田端は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「防衛省に連絡するべきだ」と彼はようやく言った。
「もう送りました」仲村は答えた。「昨日の午後に」
石垣島 海上自衛隊第五航空群基地 翌日午前十時
桐島海斗は、ホオジロザメの腹の穴を覗き込みながら、自分の直感が正しいことを確信した。
嫌な確信だった。
桐島は四十歳、海上自衛隊の三等海佐で、潜水医官の資格を持つ海洋生物研究者だった。那覇の防衛省技術研究本部に籍を置きながら、沖縄科学技術大学院大学(OIST)と共同研究を続けてきた。専門は甲殻類の神経生物学と水中音響学。なぜその組み合わせかと聞かれると、「シャコのパンチを研究していたら自然そうなった」と答えることにしていた。
そのシャコの専門家が今、冷凍保存されたホオジロザメの死骸の前に立っていた。
「貫通深度はどのくらいですか」桐島は石垣島の海保職員に聞いた。
「測ってみたところ、約四十五センチです。ちょうど中心付近まで打ち抜かれています」
桐島は使い捨て手袋をはめ、穴の縁に触れた。内壁の組織は圧潰されている。弾丸の創管とは違う。刃物の切創とも違う。面で叩いた跡だ。それも、想像を絶する速度で。
彼はポケットから小型の計測器を取り出し、穴の直径を計った。七十八ポイント三センチ。
「わかりました」
桐島は立ち上がり、手袋を外した。同行してきた防衛省の連絡将校、二十代の若い二尉が後ろで控えている。
「JAMSTEC から来た報告書、読みましたか」と桐島は聞いた。
「はい。魚群データの異常と、深海映像の件ですね」
「深海映像に映っていたもの、何だと思いましたか」
二尉は少し考えてから答えた。「岩盤か、大型生物の一部かと」
「大型生物の一部、正解です」桐島は外に出ながら言った。五月の石垣島の陽光が、目に痛いほどだった。「Odontodactylus scyllarus——ジャパニーズ・ピーコック・マンティス・シュリンプ。和名、モンハナシャコ。体長十五センチほどの甲殻類で、自然界で最も速いパンチを持つ生物です。加速度は二十二口径の弾丸とほぼ同じ。インパクト時の力は体重の二千五百倍に達する」
「……はい」
「そのシャコが、全長十メートル以上だったとしたら」
二尉は足を止めた。桐島は歩き続けながら言った。
「穴の直径は七十八センチ。通常のモンハナシャコの打脚、つまり拳に相当する部位の幅は体長の約十五パーセントです。逆算すると、この打撃を与えた個体の体長は——」
「五メートル以上……」
「最低で。打角と力の損耗を考慮すると、実際はもっと大きい可能性がある」桐島は立ち止まり、南の海を見た。水平線まで澄んでいた。穏やかな、美しい海だ。「JAMSTECのデータと突合すると、十メートル超という推定が出ます」
「そんな生物が、本当に」
「いないはずです」桐島は静かに言った。「節足動物の巨大化には物理的な限界がある。外骨格の強度、呼吸系の効率、神経伝達の速度。すべてが壁になる。しかし」
彼は振り返り、建物の中——冷凍保管されたサメの死骸のある方向——を見た。
「データは嘘をつかない」
那覇市・防衛省沖縄統合調整所 三日後
会議室に七人が集まった。
正面のモニターには、与那国島南方の海域地図が表示されていた。失踪した船舶の位置に赤いマーカーが打たれている。貨物船「第八龍神丸」。五千二百トン。乗組員二十一名。三日前の午後二時十五分、最後の交信を行い、以後消息を絶った。翌朝、海上に油膜と一部の残骸が発見された。生存者はいなかった。
東堂厳海将補は、スーツ姿の文官と海自制服組の顔を交互に見回してから口を開いた。
「状況を整理します。過去四ヶ月で、与那国島南方海域において原因不明の船舶沈没が三件。漁船二隻と今回の貨物船。合計で乗組員三十四名が死亡または行方不明。加えて、JAMSTECの調査データによる大型未確認生物の可能性。石垣島の海保が保管するホオジロザメの死骸への未確認の攻撃痕。以上を踏まえ、防衛省として調査チームを編成します」
桐島は壁際の椅子に座り、静かに聞いていた。
会議室の端に、見慣れない顔が二つあった。一人は外国人の女性。三十代後半、金髪を後ろで束ねており、胸のバッジに「IMCO」のロゴが見えた。国際海洋生物保護機構。もう一人は背の高い外国人男性で、五十代に差し掛かった年齢に見えた。軍人特有の姿勢をしているが、制服は着ていない。
東堂が二人を紹介した。「ローレン・バウアー博士。IMCOの上級研究員で、本調査の国際監視役として参加します。それからデイヴィッド・コール大佐。米海軍太平洋艦隊から派遣された生物脅威顧問です」
コールは軽く頷いた。表情は動かなかった。
桐島の隣に、仲村凪が座っていた。JAMSTECからの招聘だった。三日前に石垣島で初めて会い、互いの分析結果を照合した。仲村の体色パターン分析と桐島の打撃痕分析は、一つの結論を指し示していた。
「桐島三佐」東堂が言った。「あなたの分析を」
桐島は立ち上がり、モニターの前に立った。
「結論から言います。与那国島南方海域には、現在の生物学的常識では説明のつかない大型甲殻類が生息していると判断します。体長の推定値は十から十二メートル。分類上は口脚目、いわゆるシャコの仲間に最も近い特徴を持ちます」
沈黙が落ちた。
「根拠を示します」
桐島はデータを次々と表示した。打撃痕の分析。魚群データの消失。深海映像の断片。三件の船舶沈没における共通点——いずれも船底に単発の大きな衝撃痕があり、爆発物反応は陰性だった。
コールが口を開いた。「シャコのパンチで貨物船が沈むか」
「通常のシャコでは不可能です」桐島は答えた。「しかし運動エネルギーは質量と速度の二乗に比例します。体長が四十倍になれば、体重は——単純なスケールアップで——六万四千倍になる。実際にはそうはなりませんが、パンチの威力は想像を絶するレベルになりえます」
「そんなものが実在すると?」
「実在する可能性を排除できないということです。データがそれを示している以上、我々は可能性として検討しなければならない」
ローレン・バウアーが手を挙げた。「仮にそれが実在するとして、まず確認したいことがあります。我々の目的は何ですか。調査ですか、それとも駆除ですか」
東堂は即答しなかった。
「調査です」と桐島が言った。「今の段階では」
コールが桐島を見た。その目には、明らかな懐疑と、それとは別の何か——職業的な関心の色があった。
会議はさらに二時間続いた。
会議室を出た廊下で、仲村が桐島に小声で言った。「コール大佐、信用できますか」
「わかりません」桐島は正直に答えた。「でも彼は深海で何かを見ている。それは確かだと思います」
「どうしてわかるんですか」
「目です。信じてもらえない何かを見た人間の目をしている」
仲村は少し考えてから言った。「あなたも、そういう目をしていますよ」
桐島は答えなかった。那覇の午後の陽光が、廊下の窓から差し込んでいた。
第一章 了
次章予告:「ウミガメ-3」が水深三百五十メートルの岩礁で捉えた映像。十六の複眼が、カメラを見返していた。
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