第27話 怖がりの表紙画像

第27話 怖がり

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/13 📚 シリーズ: 祓い師沙耶は、怪異を祓わない ――鳴らない鈴と見習いの記録―― 📝 2,196文字 ✅ 全年齢

あらすじ

怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。  祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。  怪異を前にすれば足は震える。  札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。  それでも、目を逸らすことだけはできなかった。  先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。  灰をまとった狼。  雨の降らない町に増え続ける赤い傘。  誰もいない駅で鳴る鈴。  消えない灯り。  閉じた家に残る声。  だが、怪異はただの化け物ではない。  怒り。  悲しみ。  後悔。  待ち続けた想い。  言えなかった言葉。  見て見ぬふりをされた痛み。  人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。  形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。  それが、二人の祓いだ。  祓うべきは、怪物か。  それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。

本文

集会所の壁には、前よりもさらに強烈な密度で無数の白い札が現れていた。

縦一メートル、横二メートルある巨大なコルクボードの枠を完全に越え、色褪せたモルタルの壁紙の上へとはみ出すように増殖している。

重なり合った札同士が、隙間風もない密閉された部屋の中で、絶え間なくパサ、パサと乾いた羽音のような音を立てていた。

大量の揮発性インクの匂いが部屋中に充満し、息を吸い込むたびに鼻の奥を鋭く突く。

俺は記録帳を左手にしっかりと握り込んだまま、増え続ける壁の札をじっと見ていた。

真っ白な和紙の表面には、個人の名前ではない「呼び名」が、裏側から黒い染みのように次々と滲み出していく。

『いい子』

『泣き虫』

『しっかり者』

『かわいそう』

『放っておいても大丈夫』

俺は、札の群れに向かって一歩だけ距離を詰めた。

スニーカーのつま先が古い畳を踏みしめ、微かに軋む音が鳴った、その瞬間だった。

壁の一番高い位置から、一枚の白い札がチリッ、と音を立ててモルタルから剥がれ落ちた。

それは重力に従って床に落ちるのではなく、空中で不自然に軌道を変え、まるで意思を持った虫のように真っ直ぐ俺の方へ向かって飛んできた。

そして、俺の右腕の袖に、ピシャリと強い音を立てて激しく貼りついた。

俺は記録帳から視線を外し、自分の袖を見た。

黒いナイロン生地の上着に張り付いた白い札には、太く濃いインクでこう書かれていた。

『怖がり』

俺は左手の親指と人差し指を伸ばし、札の端を直接つまんだ。

そのまま、ナイロン生地から引き剥がそうと手首に力を込める。

札の角は、数ミリだけ浮き上がった。

しかし、ナイロンの細かい布目に、白い和紙の繊維が接着剤でも流し込んだかのようにべったりと入り込んでおり、ブチ、ブチチ、と繊維が微かに千切れる音がするだけで、それ以上は全く引き剥がせない。

俺は親指の爪を立てて、さらに強い力で強引にめくり上げようとした。

札は剥がれなかった。

むしろ、札の表面にある『怖がり』の文字のインクだけが、周囲の光を吸い込んだように、ほんの少しだけ濃く、くっきりと浮かび上がった。

視界の端で、沙耶さんが動いた。

彼女は腰の袋から、銀色の祓い鈴を取り出した。

だが、沙耶さんは鈴を鳴らさなかった。

無音のまま、冷たい金属の本体を、俺の袖に強固に貼りついた『怖がり』の札へゆっくりと近づける。

鈴の曲面が札の表面に触れる数ミリ手前で、札を構成している和紙の白さが、強い光を当てられた皮膚のように一瞬だけ薄く透明になった。

だが、紙が透けても、そこに書かれた黒い文字の輪郭は一ミリも消えることなく、はっきりとナイロン生地の上に黒々と留まり続けている。

不意に、俺の左手から記録帳が滑り落ちた。

バサリ、と大きな音を立てて、乾いた畳の上でページが開く。

開いたページには、灰ヶ谷村の時に書いた詠札の文字が見えた。

『ミオは、鈴を鳴らした。』

鉛筆の跡が、畳に向いた懐中電灯の光を受けて、黒く光っていた。

俺はそれを拾おうとして、右膝を曲げた。

そのまま右手を畳の方へ伸ばそうとした瞬間、袖に貼りついた札の角が上着の布地を信じられないほどの力で上に引っ張り、俺の右手首が空中でガクンと不自然に止まった。

見えない太いワイヤーで袖を天井から固定されたように、腕がそれ以上前へ出ない。

無理に動かそうとすると、上着の肩の縫い目がギリッと悲鳴を上げた。

沙耶さんが、自分の右手を俺の方へ真っ直ぐに伸ばした。

彼女の細い指先は、俺の袖でも腕でもなく、生地に張り付いた札の角を真っ直ぐに狙ってつまもうとしていた。

俺は、半歩だけ後ろに下がった。

ズッ、と俺の踵が畳を擦り、古いい草が重く沈み込んで小さく鳴った。

札に触れようとしていた沙耶さんの手が、空中に残る。

俺は、空を切った彼女の指先から視線を上げ、感情の読めないフラットな顔を見た。

胸の奥でつかえていた息を吐き出し、はっきりとした声で言った。

「俺が怖いのは、沙耶さんが決めなくていいです」

言い終わった後、袖の上着の布地が、わずかにふっと軽くなった気がした。

視線を落とすと、『怖がり』の文字は、まだそこにある。剥がれてはいない。

ただ、生地にべったりと沈み込んでいた和紙の繊維が、ほんの少しだけ浮いているような気がした。

沙耶さんの伸ばされた指が、ゆっくりと、関節を一つずつ折りたたむように閉じた。

彼女は祓い鈴の柄を強く握り込んだまま、それでも中の玉を鳴らすことはしなかった。

沙耶さんの手首から下がる赤い鈴の緒だけが、一切の音を出さずに、空中で小さく揺れている。

沙耶さんの手が、ゆっくりと下がり、身体の脇へ戻った。

スササッ。

部屋の奥にあるモルタルの壁から、別の札が一枚、壁伝いに滑り落ちる乾いた音がした。

その札は畳の上に着地すると、ツツーッと数センチだけ滑り、ちょうど沙耶さんの足元のつま先でピタリと止まった。

俺は、視線を落としてそれを見た。

沙耶さんも、わずかに顎を引き、自分の足元を見た。

俺と沙耶さんの間に、何も置かれていない畳の目が続いている。

沙耶さんの鈴の緒が揺れるたびに、赤い組み紐の端が、その畳の目の上を微かに掠めた。

沙耶の足元に落ちた札を、誰も拾わなかった。

祓い鈴の緒だけが、音を出さずに揺れていた。

札には、

『守るべき子』

と書かれていた。

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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