第28話 名札を破るの表紙画像

第28話 名札を破る

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/15 📚 シリーズ: 祓い師沙耶は、怪異を祓わない ――鳴らない鈴と見習いの記録―― 📝 2,400文字 ✅ 全年齢

あらすじ

怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。  祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。  怪異を前にすれば足は震える。  札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。  それでも、目を逸らすことだけはできなかった。  先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。  灰をまとった狼。  雨の降らない町に増え続ける赤い傘。  誰もいない駅で鳴る鈴。  消えない灯り。  閉じた家に残る声。  だが、怪異はただの化け物ではない。  怒り。  悲しみ。  後悔。  待ち続けた想い。  言えなかった言葉。  見て見ぬふりをされた痛み。  人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。  形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。  それが、二人の祓いだ。  祓うべきは、怪物か。  それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。

本文

一枚の白い札が、古いい草のささくれた畳の上に張り付いていた。

札はただ畳の表面に置かれているのではなく、和紙の繊維が畳の細かい目の中に深く沈み込み、根を張るように同化している。

裏から黒々と滲み出たインクは、周囲の空気を吸い込むような濃さで『かわいそう』という文字を描いていた。

その札の前に、真っ黒なインクの靄(もや)が凝縮して形作られた千尋の気配が、音もなく立ち止まった。

顔も手足の造形もない靄の塊が、明確な意思を持ってその札を見下ろしている。

俺は、床から半歩だけ右足を出そうとした。

直後、沙耶さんの右手が鋭く動き、銀色の祓い鈴が俺の顔のすぐ横でピタリと止まった。

チリ、という微かな音すら鳴らなかった。

冷たい金属の塊が視界の端を塞いだことで、俺は出した右足を、音を立てずに元の位置へ戻した。

千尋の影がゆっくりとしゃがみ込み、畳に張り付いた『かわいそう』の札の角に、黒い靄でできた指先をかけた。

そのまま、上に向かって強く引き剥がそうとする。

一度目は、剥がれなかった。

和紙が畳の繊維に頑強にへばりついており、千尋の指先――人間の爪にあたる部分だけが、物理的な強い圧迫を受けて白く変色する。

沙耶さんが、顔の横で止めた祓い鈴の柄を、指の関節が白くなるほど強く握り直した。

しかし、彼女は鈴を鳴らさない。

千尋の影が、二度目に札の端を強く起こした。

メリッ、という布が裂けるような小さな音がして、札の下から畳の青い繊維が数本、無理やり引き抜かれる。

札は半分だけ、畳から反り返るように剥がれ上がった。

その直後だった。

半分剥がれかけた『かわいそう』の札の上に、虚空から現れた別の真新しい白い札が、ピシャリと強い音を立てて重なった。

新しい札の表面に、黒く太いインクが一瞬で滲み出す。

『いい子』

千尋の手が、空中でピタリと止まった。

俺は、左手に持っていた記録帳を両手で開いた。

右手で鉛筆を強く握り、ページの上部へ移動させる。

鉛筆の黒鉛の先が、白い紙の表面にわずかに触れた。

だが、俺はまだ書かない。指の力を抜いたまま、ノートの上に手首を固定する。

沙耶さんが、鈴を握った右手を固定したまま、上半身をわずかに前へ傾けた。

沙耶さんのスニーカーの先が、わずかに前を向いた。だが、足裏は畳から離れなかった。

千尋の影が再び動き、上に覆い被さるように重なった『いい子』の札に指をかけ、先に剥がしにかかった。

全く抵抗なく、『いい子』の札は薄紙のように剥がれ落ちる。

だが、その下には、半分だけ畳に張り付いた『かわいそう』の札が、依然として強固に残っていた。

千尋がもう一度、黒い爪を『かわいそう』の札の角にかけた。

今度は、強引にめくり上げるように札の角が完全に起き上がる。

畳の目に深く絡みついていた白い紙の繊維が、蜘蛛の糸のように細く何本も伸びていく。

俺は、ノートの上で鉛筆を握る右手を少しだけ動かした。

沙耶さんは、俺の動きを視界の端で捉えても、何も言わなかった。

俺は、右手を元の位置に戻した。

ブチリ、と何本もの繊維が同時に千切れる音がして、千尋が札を完全に剥がし取った。

剥がれた『かわいそう』の札は、端が丸まることもなく、平たいまま畳の上へ力なく落ちた。

その直後、部屋の隅に置かれた名札箱の木製の蓋が、ギィ、とひとりでに数センチだけ横にスライドして開いた。

中から、何も書かれていない真っ白な札が、一枚だけ滑り落ちる。

千尋の影が手を伸ばし、それを拾い上げた。

彼女の手の中にある白い札には、何の呼び名も、インクの滲みもなかった。

俺は、左手を少しだけ前へ出しかけた。

指先が空気を掴む前に、止める。

沙耶さんが、顔の横で祓い鈴の柄をギリッと木の鳴る音がするほど強く握り込んだ。

鳴らさない。

千尋の影が、白い札を両手で持った。

そのまま左右に引き裂こうとして、一度、動きが止まる。

分厚い和紙の抵抗に遭い、白い札の真ん中が、くの字に少しだけ曲がった。

千尋が手にさらなる力を込め直し、二度目の動作で、札を引き裂いた。

ビビリッ。

紙の繊維がちぎれる破れる音は、驚くほど小さかった。

その小さな音を合図にするように、壁のコルクボードを埋め尽くしていた無数の白い札が、一斉に画鋲から外れ、ハラハラと雪のように畳の上へ落ちていった。

数秒で、壁は元の茶色いコルクの表面を取り戻した。

俺は、開いた記録帳の上に、鉛筆の芯を真っ直ぐに下ろした。

指先に体重を乗せ、横に直線を引く。

今度は、鉛筆がガラスの上を滑るような無機質な感触はなかった。

黒鉛が紙の繊維を確実に削り取る、ガリッという確かな摩擦が手首を伝わってくる。

あの夜、名前欄で鉛筆が滑った感触とは、まるで違った。

芯が、紙に食い込んでいる。

俺は書いた。

『千尋は、自分の名札を破った。』

沙耶さんが、静かに右手を下ろし、祓い鈴を腰の袋へ戻した。

そして部屋の隅へ歩いていき、少し開いていた名札箱の蓋を、ピタリと音を立てて閉めた。

朝が来た。

雨戸の隙間から差し込む光が、冷え切った集会所の中を白く照らし出している。

広大なコルクボードの表面には、画鋲の小さな穴が無数に残っているだけで、もう一枚の札も貼られていなかった。

建物の裏にある、農業用の用水路。

緩やかな水流の中、コンクリートの壁のひびに、白い紙片が一枚だけ引っかかっていた。

俺は、それを拾おうとして、水面に向かってしゃがみ込んだ。

水流にあおられ、紙片は細かく揺れている。

俺は、手を伸ばしたまま、それを拾わなかった。

ゆっくりと立ち上がり、振り返ると、沙耶さんが集会所の引き戸の前で、こちらを見ていた。

何も言わなかった。

裏の用水路に、

白い紙片が一枚だけ引っかかっていた。

水を吸って、

紙は少し透けていた。

そこには、何も書かれていなかった。

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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