エピローグ まだ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
震えながら、見る。 それでも、動かす。 祓い師見習いの蓮は、怪異を前にすれば足が震える。 それでも彼は、最後まで目を逸らさない。 一度も祓いに失敗したことのない先輩・沙耶。 彼女は冷静に怪異の核を見抜き、蓮を導く。 二人は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴り続ける鈴。 消えない灯り。 だが、怪異はただの化け物ではない。 それは、誰も受け取らなかった感情だ。 怒り。悲しみ。後悔。 待ち続けた想い。言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、止まったまま夜の中を彷徨う。 蓮と沙耶の祓いは、それを消すことではない。 止まった時間を、もう一度動かすこと。 震えながらでも、目を逸らさずに。
本文
古い路線バスの硬い座席が、エンジンの低い振動を絶え間なく背中へと伝えてくる。
俺は膝の上で、分厚い記録帳を開いていた。
バスの古びたタイヤがアスファルトの継ぎ目を越えるたび、開かれた紙のページが小刻みに震える。
俺の視線は、「綾乃」という名前が書かれたページに落ちていた。
その名前の横には、結局何の属性も文字として書き足すことができなかった。
ただ、折れる寸前の力で押し付けられた鉛筆の鋭い芯が、紙の繊維を深くえぐり取って作った、ささくれ立った窪みだけが残っている。
俺は右手の中指の腹で、その無意味な深い窪みをゆっくりと一度だけなぞった。
削り取られた紙の感触と、溝に残っていた黒鉛の粉が指先に移る。
俺は記録帳をパタンと閉じ、隣に座る沙耶さんを見た。
沙耶さんは、窓枠に軽く寄りかかるようにして、流れていく寂れた景色を無言で見つめていた。
彼女の袴の裾が、バスの振動に合わせて微かに揺れている。
窓の外に田んぼが続いていた。水が張られたばかりの田面に、白い空が映り込んでいる。バスが揺れるたびに、その空の反射がゆらゆらと形を崩した。
俺はしばらくその景色を見ていた。それから、視線を沙耶さんの腰に提げられた小さな布の袋へと下ろした。
あの旧家で、管理者の男を止めるために彼女が関節が白くなるほど強く握り締めていた祓い鈴。
バスの車体が大きく揺れても、袋の中に収められた銀の玉は、決して壁にぶつかる澄んだ音を立てようとしなかった。
「……鳴らさないんですか、あの鈴」
エンジンの振動音に紛れるほどの低い声で、俺は尋ねた。
沙耶さんはこちらを振り向かなかった。
ガラス窓に反射した彼女の静かな横顔が、微かに動いたように見えた。
「まだ」
たった一言だけ。
沙耶さんの口からこぼれ落ちたその言葉の後に、別の言葉は続かなかった。バスの振動だけが続いた。
俺は内ポケットに記録帳を押し込み、再び座席の正面を向いた。
古いバスは、錆びたサスペンションを重く軋ませながら、次の場所へと続く長い一本道を走り続けていた。