第36話 屏風の裏の表紙画像

第36話 屏風の裏

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/3 📚 シリーズ: 祓い師沙耶は、怪異を祓わない ――鳴らない鈴と見習いの記録―― 📝 2,351文字 ✅ 全年齢

あらすじ

震えながら、見る。 それでも、動かす。 祓い師見習いの蓮は、怪異を前にすれば足が震える。 それでも彼は、最後まで目を逸らさない。 一度も祓いに失敗したことのない先輩・沙耶。 彼女は冷静に怪異の核を見抜き、蓮を導く。 二人は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴り続ける鈴。 消えない灯り。 だが、怪異はただの化け物ではない。 それは、誰も受け取らなかった感情だ。 怒り。悲しみ。後悔。 待ち続けた想い。言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、止まったまま夜の中を彷徨う。 蓮と沙耶の祓いは、それを消すことではない。 止まった時間を、もう一度動かすこと。 震えながらでも、目を逸らさずに。

本文

表側の絵が完全に剥がれ落ちた巨大な屏風の残骸。

その横で、管理者の男が荒い息を吐きながら一歩踏み込んだ。

白足袋が畳を擦る。床板が重みで軋む。

男は無言のまま、俺の肩を背後から力ずくで掴もうと、太い腕を真っ直ぐに伸ばしてきた。

その軌道を断ち切るように、沙耶さんが動いた。

俺を庇う定位置へは回らない。

真っ直ぐに伸びてくる男の腕の真正面へ、自らの体を正確に割り込ませた。

見えない壁にぶつかったように、男が咄嗟に動きを止める。

沙耶さんは腰の袋の中に右手を突っ込み、銀色の祓い鈴の柄を強く握り締めていた。

関節が白く透けるほどの圧力。だが、鈴は鳴らさない。

見下ろしてくる男の顔を無言で見据え、「これ以上は通さない」という物理的な壁として立っていた。

男の荒い息遣いが止まり、その場に縫い付けられたように動けなくなる。

二人の間に、張り詰めた沈黙だけが落ちた。

俺は、背後の物理的拮抗から完全に背を向けた。

左手には記録帳が握られている。

「綾乃」の名前の横に、どうしても文字を書き足せなかったページ。

鉛筆の芯が紙を深くえぐった無意味な窪みを、親指の腹で一度だけなぞる。

毛羽立った紙の繊維と、黒鉛の粉が指先に触れた。

俺は分厚い表紙をパタンと閉じた。

乾いた破裂音が響く。記録帳を上着の内ポケットへ深く押し込み、両手を空にした。

俺は少しの間、空になった両手を自分の正面で見た。

右手の中指の腹に、鉛筆の芯がえぐった薄い黒い跡が残っている。

俺はその手のひらを一度だけ強く握り締め、ゆっくりと開いた。

そして、九十度回転して止まっている巨大な屏風へ近づき、分厚い黒塗りの木枠に両手をかけた。

俺は木枠に全体重をかけ、屏風をさらに奥へ向かって押し込んだ。

ズン、と跳ね返されるような異常な重さが腕にのしかかる。

重心が底に張り付いている。

俺は靴底で畳を強く踏みしめ、肩から木枠にぶつかるように強引に押し込んだ。

ズズズッ、と木枠の下端が畳の表面を削り取る。

すでに傷ついていた藁の繊維が完全に引きちぎられ、メリメリと断裂音が響く。

古いイグサの粉っぽい匂いが舞い上がる。

屏風を繋ぐ古い鉄の蝶番が、数十年ぶりに無理な角度までねじ曲げられ、ギギギと甲高い摩擦音を立てた。

錆びた金属が削り合う振動が、木枠を伝って俺の腕の骨までビリビリと響く。

肩の筋肉が悲鳴を上げ、靴底がささくれに引っかかって滑る。

俺は奥歯を噛み締め、極限の反発力を力ずくで押し切った。

百八十度の完全な回転。

ドン、と腹の底に響く重い衝撃音とともに、巨大な屏風が畳の上に落ち着いた。

表側を完全に奥の壁に向け、裏側をこちらへ向けて屹立している。

衝撃で座敷の床板が微かに震え、天井から埃が落ちた。

俺は荒い息を吐きながら、屏風の『裏側』を見た。

表の豪華な和紙とは違う、粗い下張り紙と無骨な木の骨組み。

その粗い裏紙の右端。

表側で空白が空いていたまさにその位置にだけ、古い墨の線で囲まれた四角い枠が引かれていた。

枠の中には誰も描かれていない。

ただ、「ここに一人分の空間があった」という事実だけを囲い込んだ、ひび割れた真っ黒な墨の線。

俺はその枠の前にゆっくりと膝をついた。

枠の線は古く、ところどころひび割れている。だが、線の内側は乾いた白いままだった。

触れようとして、止まった。

指先が枠の線の手前五センチで空中に静止する。

俺は内ポケットから真っ白な詠札と、太い筆符を取り出した。

冷たく乾いた竹の軸を握る。

先ほどのような強烈な弾力も、腕をへし折るような反発も、今は一切存在しない。

俺は筆の穂先を詠札へ静かに押し当てた。

スッ、と濡れた毛先が紙の繊維に触れ、濃い墨汁が何の抵抗もなく吸い込まれていく。

俺は手首を滑らかに動かし、ただ一つの事実だけを記録した。

『屏風の裏に、一人分の余白が残った。』

最後の文字の払いから、ゆっくりと筆を離す。

紙の表面で、墨の水分が鈍く黒い光を反射している。

俺は筆符を懐へ戻し、墨の乾き始めた詠札を、屏風の裏側へと向けたまま畳の上へそっと置いた。

和紙が畳のイグサに触れ、カサッと小さな音を立てる。

俺の背後で、沙耶さんが動いた。

腰の袋の口に当てていた右手をゆっくりと引き抜く。

ピンと張り詰めていた袴の袖が下へと落ち、布が柔らかく擦れる音が鳴った。

彼女は短く息を吐き出し、握り締めていた指先の緊張を物理的に解いた。

その後方では、管理者の男が両腕を下ろしたまま、畳の上に立ち尽くしている。

男の荒かった呼吸はすでに収まり、ただ薄暗い座敷の中で、巨大な屏風の裏側を焦点の定まらない目で見つめ続けていた。

巨体が微かに揺れるだけで、男は一歩も前へは進まない。

天井から舞い落ちていた埃がゆっくりと畳へ積もり、ひんやりとした夜の空気が部屋の底に沈殿していく。

むせ返るようだった古い埃の匂いは薄れ、詠札から揮発する墨の生臭い匂いだけが、空間を静かに満たしていった。

やがて、障子の薄い和紙の向こう側から、冷たい朝の光が差し込んできた。

青白い光が座敷の畳を斜めに切り裂き、空気中を漂う埃の粒を白く照らし出す。

朝の光の中で、巨大な屏風は正しい天地の向きのまま、畳の上に重い木枠を下ろして静かに屹立していた。

屏風全体を支配していた、あの暴力的なまでの逆さまの引力は完全に消失している。

俺は屏風の正面に立ち、表と裏を交互に見た。

壁の方を向いた表側は白かった。朝日を反射して真っ白に光っている。

裏には余白だけがあった。

屏風はもう逆さまではなかった。

屏風の裏には、一人分の余白だけが残っていた。

墨はもう動かなかった。

けれど、乾いた匂いだけが、少し遅れて座敷に残った。

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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