1話 偽りの天才ピアニストの身代わりはもうやめます。~私を暗闇から救い出したのは、至高のサックス奏者の執着愛でした~
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
従姉妹イザベラの「影」として、地下の防音室でピアノを弾き続けるエレーナ。 才能を搾取され、幽霊のように生きる彼女を見つけ出したのは、冷酷な天才サックス奏者、ギルバートだった。 嘘にまみれた華やかなステージ。その裏で、ギルバートはエレーナの指と魂を執拗に暴いていく。 今夜、偽りのミューズが堕ち、地下の幽霊が真実の愛に鳴り響く――。
本文
氷の欠片が重なり合い、クリスタルのグラスと触れ合って、高く澄んだ音を立てる。その音さえもが、今夜の『ブルームーン』に流れるジャズの構成要素であるかのように、フロアの空気は洗練されていた。
銀座の片隅、地下へと続く重厚な階段を降りた先にあるそのクラブは、一晩で数百万の金が動く、社交界の聖域だ。
だが、その華やかな喧騒を真上に仰ぎ、配線が這い回る冷え切った地下室の隅に、エレーナの居場所はあった。
広さは三畳に満たない。壁には音を吸収するための古いフェルトが貼られ、窓一つないその空間は、まるで生きながらにして閉じ込められた棺桶のようだった。
目の前には、傷だらけの電子ピアノ。
エレーナは、頭を締め付けるような重量感のあるモニター用ヘッドホンを装着し、静かに呼吸を整える。
ヘッドホンから流れてくるのは、フロアの喧騒を切り裂くような、鋭く、それでいて絹のように滑らかなテナーサックスの響き。
ギルバート・ウィンストンが、今夜もステージに立ったのだ。
「……ああ」
彼がサックスのリードを湿らせ、最初の一音を放った瞬間、エレーナの指先がわずかに震えた。
ギルバートの吹く音は、ただの音波ではない。それは、エレーナの剥き出しになった神経を直接指先でなぞるような、暴力的なまでの説得力を持っていた。
モニターの中では、従姉妹のイザベラが、スポットライトを一身に浴びて優雅に微笑んでいる。
彼女が纏っているのは、エレーナの三年間分の食費よりも高いであろう、シルクのドレスだ。イザベラが鍵盤の上に、丁寧にケアされた白い指を乗せる。
(来る……)
エレーナは視界を遮断するように目を閉じ、ギルバートの吐息に意識を集中させた。
ギルバートがサックスを鳴らす。
それに合わせて、エレーナは地下の暗闇で鍵盤を叩いた。
一本の細いシールドケーブル。
それが、エレーナの魂とイザベラの身体を繋ぐ、残酷なへその緒だった。
エレーナが叩いたピアノの信号は、ミキシングコンソールを経て、ステージ上にある豪華なグランドピアノに仕込まれたスピーカーから「イザベラの音」として解き放たれる。
観客たちは、イザベラの優雅な指の動きと、そこから溢れ出す圧倒的な才能に酔いしれ、惜しみない拍手を送る。
だが、その指には何の重みもない。彼女が叩いているのは、音の出ない、ただのプラスチックの板に過ぎないのだから。
実際にギルバートの挑発的なアドリブに応じ、彼の気まぐれなテンポの変化をミリ単位で察知し、音の中で彼と絡み合っているのは、この冷え切った地下室で蹲るエレーナだけだった。
サックスの音が、エレーナのピアノを翻弄するように低く唸る。
ギルバートの演奏は、常にギリギリの緊張感を孕んでいた。彼は、自分のピアノ伴奏者がどれほど自分を「理解」しているかを試すように、予測不能なフレーズを投げ込んでくる。
エレーナはその度に、熱病に浮かされたような心地でそれに応えた。
彼が低音で唸れば、彼女は高音のトリルでその耳を愛撫する。彼が激情に任せてリズムを崩せば、彼女は深い打鍵でその足元を支え、どこまでも自由に跳ばせた。
二人の音が、目に見えない空間で肌を重ねる。
ギルバートのサックスが、彼女のピアノを力強く抱きすくめ、エレーナは音の中で、彼という存在に蹂躙される快感に身を委ねた。
誰にも見られていない。誰にも知られていない。
この快楽を享受しているのは、世界中でたった二人だけなのだ。
――いや。
ギルバートさえも、その相手が「地下の幽霊」であることには気づいていない。
ステージの上、ギルバートが満足げに目を細め、隣で「弾いているふり」をするイザベラに向かって、艶やかな微笑を向けた。
エレーナの胸に、鋭い痛みが走る。
ピアノを弾くことだけが、唯一、彼女が「自分」でいられる瞬間だった。
それさえも、叔父夫婦によって「借金のカタ」として奪われた。
『エレーナ。お前はイザベラの「価値」を高めるための部品なんだよ。お前が目立てば、イザベラの商品価値が下がる。そうなれば、お前の父親の負債を誰が返すと思っているんだ?』
叔父の冷酷な声が、今も耳の奥で反響している。
イザベラにとって、エレーナはなくてはならない宝物だ。自分が「天才ピアニスト」としてセレブの仲間入りをし、ギルバートのような至高の男を手に入れるために、絶対に欠かしてはならない精密な機械。
だからこそ、イザベラはエレーナを丁寧に、残酷に管理した。
彼女に贅沢は許さないが、指を痛めるような労働もさせない。彼女を孤独の中に閉じ込め、ただ「ピアノを弾く機能」だけを、イザベラの都合に合わせて稼働させた。
エレーナはヘッドホンを外し、深く溜息を吐いた。
耳元には、今もギルバートのサックスの残響が、熱い痺れとなって残っている。
「……ギルバート様」
指先に残る、鍵盤の冷たさ。
彼女は、自分が決して彼の目に留まることがない「幽霊」であることを、痛切に噛み締めていた。
しかし、彼女は気づいていなかった。
今夜のセッションの最後、ギルバートがサックスを口から離し、フロアの喧騒の中でただ一点、ステージの床を見つめていた理由を。
彼の耳は、スピーカーから流れる「完璧すぎるピアノ」の中に混じった、わずかな――イザベラの指の動きとは決して一致しない――魂の震えを、すでに聞き分け始めていた。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。