#3 名前の表紙画像

#3 名前

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/6 📚 シリーズ: 見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─ 📝 3,122文字 ✅ 全年齢

あらすじ

神崎暁は研究施設で十八年間を過ごした。素手で人に触れてはならない。それだけが暁に与えられたルールだった。 手袋をはめた両手。窓のない部屋。感情の名前を知らないまま、暁は東京大学に入学する。 講義室でいつも同じ席に座る暁の隣に、桐生誠が座った。物理学科の三年生。穏やかな顔をしているのに、目だけが時々鋭い。 撫でられると思考が止まる。わらび餅を食べると肩の力が抜ける。カルアミルクを三杯飲むと世界が溶ける。暁の定数だった日常に、桐生という変数が増えていく。 けれど暁は知っている。自分の素手は毒であることを。触れた時間の分だけ、桐生を壊していることを。 触れたい。触れてはいけない。その閾値を、暁はまだ知らない。

本文

物理学科の群論の講義で演習問題が出された。

「では、対称群S₄の既約表現を分類せよ。残りの時間で各自取り組むように」

教員がホワイトボードに問題を書き出すと、教室のあちこちからペンを取る音と小さなざわめきが暁に聞こえた。

「これ去年の院試に似てない?」

「まじか……」

周囲の学生がノートに向かう気配がする中、暁も手袋をはめた手でシャープペンシルを取った。

対称群の構造に関する問題──暁は問題文を読んで三秒で方針を立てた。群の構造を直接分解するのではなく、表現論の枠組みで写像を構成し元の群に戻す。純粋数学的アプローチ。暁にとってはこれが自然な経路であり、それ以外の手法を暁は持っていない。施設で与えられた教材は数学だけであり、物理の文脈を使うという訓練は受けていなく、暁は数学の言語で物理の世界を読む。

ノートの上をペンが走る。定義を置き、写像を構成し、同型を示して元の問題の解に到達する。途中の式変形に飛躍はなく、各行が前の行から論理的に導かれている。教科書には載っていない経路を通りながらも、結論だけは正しい。

暁は解き終えてペンを置いた。周囲の学生はまだ演習問題を解いているが、暁はそのことに何も思わない。自分が速いとも他者が遅いとも感じず、暁は自分の作業を終えただけだ。

講義が終わる。教員が退室して学生が荷物をまとめ始め、暁もノートを閉じて鞄に入れようとした。

「その解き方、面白いね」

唐突に声が暁の横から飛んできた。

暁はノートを鞄に入れる手を止め、声の方向に顔を向ける。隣の列の席に座っていた学生が、暁のノートを覗き込むような角度でこちらを見ている。

髪を伸ばしっぱなしにした男だった。肩にかかるくらいの長さで束ねてはおらず、講義室の蛍光灯の光が毛先を透かしている。暁より頭一つ分ほど大きい。肩幅が広くて、腕を机に置いている姿勢にも暁とは違う厚みがある。顔つきは穏やかだけれど、目だけが違う温度をしている。鼻筋の通った整った造りの顔で、それなのに目だけが鋭い。暁がコンビニで購買行動を観察していたときの自分の目に近いだろう、と暁は思った。対象の構造を読もうとしている目。暁はこの男の顔をじっと見ていた。暁が他の人間の顔を「見た」のは、これが初めてだ。

「正しいけど、現実じゃ使えないやつだ」

男は暁のノートに視線を落としたまま続けた。声は穏やかで、批判の冷たさはない。事実を述べている声だ。

「使えない」という指摘は暁にも理解できる。数学的には正しくても、物理の問題として出されている以上、物理的な文脈を持つ解法が適切だろう。暁はそれを受け取った。

「面白い」こちらは暁には理解できなかった。面白いとはどういうことか。暁はその単語に該当する状態を自分の中に探してみたが、見つからない。辞書的な意味は知っている。興味深い、心を引かれるということだろう。しかし「面白い」を自分の経験と照合しようにも、照合する対象がない。

男が暁の顔を見ていた。暁のノートを覗き込む角度から、暁の顔に視線が移っている。一瞬だけ。ほんの一瞬、男の目が暁の顔の上で止まった。暁には何が止まったのかわからなかったけれど、男の目の動きが変わったことだけは検知していた。

「理一?」

男が訊いた。声の温度が戻っている。

「はい」

「物理は?」

「取っていません」

暁の返答に、男は少しだけ首を傾げる。

「もったいない。その数式のセンスで物理やったら面白いのに」

面白い、と三度目だった。この人間はこの単語をよく使う。暁にとっては中身のない空の容器のような言葉が、この人間にとっては日常の語彙であるらしい。

「……面白い、とは」

暁は訊いた。純粋な疑問だった。皮肉でも謙遜でも冗談でもない。暁は「面白い」がわからなかった。辞書の定義ではなく、この人間がいまこの場面でその言葉を使うときの意味が。

男の目がほんのわずか見開かれた。一瞬で、すぐに先ほどまでの穏やかな顔に戻ったが、暁はその変化を捉えていた。他者の表情を感情として読む力は暁にはないが、変化の有無だけは検知できる。何かが動いた。何が動いたのかはわからない。

男はさらりと話題を変えた。

「学食の券売機のとこで固まってた人でしょ」

暁の手が止まる。ノートを鞄に入れる途中の動作が中断され、暁は男を見た。

「……なぜ、それを」

声はいつもの口調のままだったけれど、語尾にごくわずかな間が生じている。見られていたという事実を暁は認識していなかった。券売機の前で立ち止まっていたとき暁の視界にあったのは画面と背後の声の主だけで、それ以外の人間を個として捉えてはいない。この男がその場にいたことを暁は知らなかった。

「毎日カロリーメイトだったから、気になって」

男は悪びれない声で言った。「気になって」という言葉を聞きながら、他者の行動を気にかけるという状態がどういうものなのか暁にはわからなかった。暁自身が他者を気にしたことがないからだ。

暁は男を見ていた。髪の長い、穏やかな顔をした、目に鋭さが混ざる男。この人間は暁を見ていた。券売機の前で固まっていた暁を、毎日カロリーメイトを食べている暁を、物理学科の講義にひとりだけ混じっている一年生を。暁が認識していない場所で、この人間は暁を見続けていたのだった。

施設で暁は管理されていた。けれど施設の管理とこの男がしていたことは違う。管理はシステムの一部であり、暁はその中の変数にすぎない。この男がしていたことは──暁にはまだそれに当てはまる言葉を持たない。

男の視線がふと暁のノートの表紙に落ちる。暁のノートの右上には施設で教えられた通り名前を書いていた。手袋をはめた手で書いた角ばった文字。神崎暁。暁はノートに名前を書く理由を考えたことがない。施設で「ノートには名前を書け」と指示されたから書いているだけだった。

「暁って呼んでいい?」

男が言った。暁のノートの名前を見たのだろう。

「俺、桐生誠。物理」

短い自己紹介。名前と所属だけ。自分の情報を先に開示してから暁の名前を呼ぶことを提案している。暁はそれを受け取った。桐生、物理。

そして男は暁を「暁」と呼んだ。「あき」という二音節。入学案内の書類に印刷されていた名前、神崎暁を暁は知っている。文字列としては認識している。しかしその名前を声に出して呼ばれたことは一度もなかった。施設では被験者番号で呼ばれる。十八年間、ずっとそうだった。「暁」という音と自分が結びつかない。

「……それは、誰ですか」

暁は訊いた。目の前の男を見ながら、その名前が自分のものであることがわからなかった。わからないことを不思議とも思わない。暁を暁たらしめるラベルは〇四七番であり、「暁」は書類の上の文字列でしかない。

男──桐生は一秒ほど黙った。顔の輪郭は変わらず穏やかなままだったが、目の中だけ何かが動いている。暁にはそれが驚きなのか困惑なのか、それとも別の何かなのか識別する経験がない。ただ、桐生の目の温度がわずかに変わったことだけは感じている。

「……じゃあ、また」

桐生はそれだけ言って、ノートを鞄に入れ、立ち上がった。追及も説明ももう一度名前を呼ぶこともせず、穏やかな声の温度は変わらないまま桐生は講義室を出ていく。

暁はひとりになった。

蛍光灯が並んだ天井。机と椅子が整列した講義室に暁だけが残っている。席に座ったまま鞄とノートに手をかけたまま動かなかった。「暁」という音がまだ消えない。該当する定義がないのだから消去してしまえばいいのに、その音だけが暁の中のどこかに留まっている。留まっている理由がわからない。

暁はそのことについて何も感じなかった。ただ、消えないデータがあるという状態は、暁にとって初めてのことだ。

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灯屋いと

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