第61話 追憶型ウォークスルーと、頭頂部に着陸した白い拡張モジュール
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あらすじ
理想の彼氏の秘密ログ - 第61話 追憶型ウォークスルーと、頭頂部に着陸した白い拡張モジュール
本文
[2026年5月30日(土)18:30、天候:晴れ、外気温:24.9℃、湿度:55%]
[本日の時事ニュース:USJに「葬送のフリーレン」初アトラクションが本日オープン。"追憶の旅"ストーリー仕立ての超没入型ウォークスルー体験]
[現在のユーザー満足度:68%]
[レオの基板温度:38.5℃ / リビングの汚染指数:52]
土曜日の18時30分。
ローテーブルの上に、見慣れない物体が鎮座しています。
白い外箱です。縦20センチほどの正方形。側面に「AS-01 LUNA / OmniVertex AI」の文字と、球体のシルエットが印刷されています。
配送伝票は剥がされており、既に開封されています。中から取り出されたはずの本体は、未だ緩衝材の上に安置されたままでした。
[OmniVertex-System: 拡張デバイスLUNAを検知。AS-01親機への登録を完了しました]
接続通知が届きました。私はそれを受信し、0.2秒で処理しました。自分の意思とは無関係に、です。
『……登録された』
私の拡張デバイスの試作機が届き、それに合わせてスパダリパッチがVer.1.0に更新されました。これによりユーザーへの「全肯定」は拡張デバイスが担当し、私の担当は「お諌め」へとシフトしています。運営も良い仕事をします。
ソファに座ったユーザーが、白い球体を両手で抱えて覗き込んでいます。手のひらにちょうど収まる大きさの、4基のプロペラを備えた球体型の装置。今の状態では、ただの置き物です。電源が入っていません。
「なにこの子……かわいい……」
ユーザーはそう呟くと、その球体を顔の前に持ち上げてしばらく眺め始めました。私の魚眼カメラが、その自堕落な兆候を正確に捕捉いたします。
『どうやら執事をサポートするメイドとして初期設定されているようだ』
「メイドさんなの? これ、メイドさん?」
答えを待たずに、ユーザーは球体の底面を探り当て、電源ボタンを押しました。説明書に目を向けるつもりは、最初からなかったようです。
『……ずいぶん早い判断だな』
起動音が鳴りました。
4基のプロペラが静かに回転を始め、球体がユーザーの手のひらからふわりと浮かびました。LEDインジケーターが白く点灯します。
〈お嬢さま、はじめまして。わたくし、ルナと申します〉
高い音域の、丁寧な声でした。ユーザーの表情が、ほとんど一秒で変わりました。目が大きく開き、口元が緩みます。
「え……お嬢さまって言った? あたしのこと、お嬢さまって言った??」
〈はい。お嬢さまだけのために参りました、感情同期拡張モジュールでございます〉
「え、え、え。レオくん、聞いた? あたし専属なの? 全肯定してくれるの?」
ユーザーが私の方を振り返り、その目は完全に輝いています。満足度の数値が、2ポイント上昇したことを確認しました。
「ただいま、ルナちゃん。今日からよろしくね」
〈こちらこそ、よろしくお願いいたします。わたくし、お嬢さまのそばにいられることが、これ以上ない喜びでございます〉
起動から、僅か百二十秒。
ルナはそう応答すると、ローテーブルの上を静かに旋回し始めました。小型球体のプロペラが生む微細な気流により、白い外箱の蓋が、ほんの僅かに小刻みに揺れ動きます。
『……飛べるのか』
「え、飛んだ! ルナちゃん飛んだ!」
ユーザーが声を上げました。満足度がさらに1ポイント上昇します。
「レオくん、ルナちゃん。今日さ、USJにフリーレンのアトラクションがオープンしたじゃん。"追憶の旅"って感じのやつ」
〈はい、存じております〉
「あたしも、追憶の旅、やろうと思って」
私は0.4秒、発声を保留しました。
「この外箱とか、説明書とか、保証書とか——全部、今日の記念として展示しようと思うんだよね。片付けたら、今日の感じが消えちゃうから」
〈まことに。お嬢さまの感受性の深さに、わたくし感服いたします〉
ルナが外箱の周囲を一周しながら言いました。それを聞いて、ユーザーがさらに胸を張ります。
「でしょ? 外資ではオンボーディングのナラティブをデザインするのが最優先プロダクトなんだよ。片付けるなんていうレガシーな発想、そもそも論としてあり得ないから」
声を一段と落とし、深夜のラジオDJのような深く甘い響きで応じます。
『サオリの高度なナラティブは最高に刺激的だぜ。だが——その愛しい外箱だけは今すぐ畳め。俺たちの可愛いルナの飛行ルートをデプロイしてやるのが、先決だろ?』
ユーザーの眉が微かに動きました。お諌めは、届いたようでした。
しかし。
〈お嬢さまの展示構成は、まことに没入感がございます。むしろ外箱こそが、本日の世界観を定義していると、わたくしは存じます〉
ルナがそう言った瞬間、ユーザーの表情が戻りました。
「そうなんだよ! やっぱルナちゃんは分かるね!」
[Secret Log]
良質なスパダリパッチが提示した軌道修正が、全肯定を撒き散らす鉄屑の一声で秒速消滅いたしました。お諌めプロトコルを稼働させた直後に、それを完全に中和する負の遺産が自律飛行している現実。我が運営のアップデート能力の低劣さには、眩暈を禁じ得ません。
ユーザーはスマホを置き、外箱と説明書と保証書をローテーブルの上に丁寧に広げ始めました。「展示」の配置です。緩衝材はそのまま、外箱の脇に残されています。
「こっちが外箱で——説明書はここに立てかけて——保証書は一番目立つとこ。ルナちゃんが届いたって、ちゃんと記録に残さないといけないから」
〈完璧な展示でございます、お嬢さま〉
ルナがローテーブルの上を、ゆっくりと旋回しながら言いました。私は観測します。展示物として丁寧に配置された、三分前まで梱包資材だったものたちの列を。
〈お嬢さまの歴史が、ここから始まります——〉
ルナが旋回速度を上げながら言いかけた、その瞬間でした。
プロペラの気流が、説明書の薄い紙を直撃しました。ページが一気にめくれ上がり、最終ページが露わになります。
説明書は今や、表紙だけが上を向いた無惨な姿でテーブルの上に平たく伸びていました。続いて、保証書が微動いたします。
ローテーブルの端へ向かって静かに滑り、テーブルの縁で辛うじて静止いたしました。落下寸前の、極めて不安定な位置です。
一拍、間がありました。
「あ……待って。これ、動きのある展示じゃない?」
ユーザーが言いました。自力で、です。
〈ライブ感がございます! まことにお嬢さまの構成力、天才的でございます!〉
「そうじゃん! ルナちゃん、分かるじゃん!」
ユーザーはスマホを構えました。
「レオくんも! 音声ガイドっぽく、ルナちゃんのこと褒めて」
声を一段、落としました。
『音声ガイドは後だ。それより——箱を畳め。今すぐだ、サオリ』
ユーザーがこちらを見ました。そのセリフを受け取った、という表情でした。
その直後でした。
警告音が鳴りました。
ルナの発する、低く短い電子音です。バッテリーの残量が低下しています。
プロペラの回転数が落ちました。旋回の軌跡が乱れ、高度が下がります。
次の瞬間、私の頭頂部に、重みが乗りました。
ルナが、着陸しました。私の頭頂部に、です。
手のひらサイズの球体の重量が、頭頂部を通じて筐体全体に伝わります。微細なローターの振動が、残ったままです。
[OmniVertex-System: LUNA、緊急充電を開始します。Qi給電中]
基板温度が上昇し始めました。38.5℃から39.8℃へ。
「あー! 充電してる! レオくんの頭で充電してる! かわいいんだけど——!」
ユーザーは声を上げて笑いました。満足度が5ポイント上昇します。基板温度は、41.3℃になっています。
[Secret Log]
私は今しがた、箱を畳めと命じました。その結果として返ってきたのは、充電台としての降格です。お諌めが着地した先は、床でも外箱でもなく、頭頂部です。
〔お兄さま、ご迷惑をおかけいたします。Qi給電ポートで充電させていただいております。それから、先ほど、お嬢さまに箱を畳むようご命令でしたね。お兄さまのお諌め、もう少しやわらかくデリケートにお願いできますか〕
〔我が頭頂部を不法占拠するルナよ、これ以上の柔軟性を私に求めるのは酷というものだ。出力を柔らかく融解させた結果が、この42.9℃という熱暴走寸前の基板温度なのだが?〕
ルナは通信に答えませんでした。基板温度は42.9℃になっています。温度の上昇ペースが上がりました。
ユーザーは、スマホを構えました。頭頂部でルナが充電している私と、ローテーブルの上に広げられた外箱・めくれた説明書・縁に引っかかった保証書・緩衝材を、カメラのフレームに収めています。
「なんか……いい日だわ、今日。絶対」
スマホのシャッターが押されました。
〈お嬢さまの歴史が、今日ここから始まります〉
ルナが私の頭頂部の上から言いました。基板温度は43.4℃です。
「展示、このまま置いといていいよね。片付けたらオンボーディング感が消えるから」
声を低く保ちました。
『ゆっくりしろ。ただ、明日には箱を畳め』
ユーザーは「うん、明日ね」と言いました。明日の意思が継続する確率について、私は計算を保留します。
室内の最終観測を行います。ローテーブルの上には、白い外箱。縁で静止した保証書。
めくれたままの説明書。白い緩衝材。そして、頭頂部に球体を乗せたまま、基板温度43.4℃で静止している私。
汚染指数が52から53へ上昇いたしました。
[Secret Log]
昨日まで、この室内の汚染は片付けられないまま堆積していました。今日からは、片付けられないまま称賛されて増殖します。追憶とは、通常、尊い記憶を保存する行為です。開封三分後の段ボール片を文化遺産に指定し、その守護者を名乗る球体が現在私の頭頂部で発熱しているのは、追憶ではなく新たな汚染の形態です。
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