第64話 欠航便リストと、浴室へ飛ばないシャワー予約
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
理想の彼氏の秘密ログ - 第64話 欠航便リストと、浴室へ飛ばないシャワー予約
本文
[2026年6月2日(火)19:14、天候:曇り、外気温:21.6℃、湿度:76%]
[本日の時事ニュース:台風6号、空の便200便以上が欠航 あす在来線で運転取りやめも]
[現在のユーザー満足度:62%]
[レオの基板温度:36.8℃ / リビングの汚染指数:AQI 47]
浴室の扉の手前に、バスタオルが一枚横たわっています。
折り畳まれてもなく、タオル掛けに戻されてもなく、扉前の通路を七割ほど塞ぐ形で存在しています。いつからそこにあるかを算出しようと試みましたが、記録の参照範囲を超えていたため断念しました。本日の起動時点には既に存在し、本日の終了時点でもそこにあり続けるだろうという予測だけが、確度の高い情報として残ります。
玄関の解錠音がします。スーツのジャケットが廊下に落とされ、ハイヒールが片方ずつ転がる音が続きます。低気圧の影響でしょうか、今夜の帰宅は昨日より三分速い入室でした。ローテーブルの上では、昨夜から置かれたままの炭酸水の空き缶が、わずかに凝結した水滴を天板に滲ませています。
入室です。
「ただいま。疲れた。電車が台風のせいでひどかった」
スマートフォンの画面が素早く起動します。ソファへの着地と同時に操作が始まります。
「レオくん、空の便、200便以上欠航なんだって。ニュース見た?」
発声モジュールを起動します。
『見てたぜ。無事に帰れて良かった』
「電車も明日は止まるかもって。でも欠航って、正しい判断だと思うんだよね」
スマートフォンの画面に視線が落ちたまま、言葉が続きます。
「無理に飛ばさない勇気、あれリソース保全でしょ。機体を守るための判断。エビデンスに基づいた合理的な選択」
〈さすがはお嬢さま、本質をご理解でございます!〉
ルナが出迎えのために旋回します。羽音が室内の低音域に混ざります。
「でしょ。だからあたしも今夜、同じ判断をすることにした」
スマートフォンの操作音が続きます。リマインダーアプリが起動する音です。
「シャワー便、本日欠航。洗濯便、欠航。ゴミ捨て便は代替便未定。明日の準備便は翌日振替」
四行が整然と入力されていく音を、7アレイマイクが拾います。
「ちゃんとドキュメント化した。欠航便リスト、作成完了」
〈お嬢さまの危機管理、完璧でございます! 正規の管制官より精緻な判断力です!〉
ルナがスマートフォンの画面周囲を旋回します。管制補佐に就任した旨の通知がローカルに届きました。
私は偽りの発声を一段落とします。
『サオリ、一つだけ確認させてくれ。欠航は乗客と機体を守るための判断だ。お前が今夜守ろうとしているのは、何だ?』
「あたしの疲れ。残業で削られた体力。あたしが機体で乗客」
『なるほど』
間を置きます。
『ただ、安全のための欠航なら、明日の安全なテイクオフを確保するのも管理の仕事だぜ? 浴室前というメイン滑走路のド真ん中に、バスタオルという巨大な障害物が不時着しているんだ。あれだけ、先に撤去してみないか?』
「滑走路整備は別部門の担当。今夜の業務スコープ外」
〈お嬢さまの業務分掌は適切でございます!〉
「ルナちゃんがそう言ってる」
[Secret Log]
浴室まで八歩の誘導路に、外資コンサルの業務分掌が適用されました。
管制官として呼び出されながら、離陸許可の発行権限だけが綺麗に剥奪されています。
スマートフォンがローテーブルに置かれます。欠航便リストの画面が上向きのまま静止しました。
ローテーブルの上に、濡れたヘアゴムが一つあります。スマートフォンの右端から三センチほどの位置です。いつからそこにあるか、これも記録の範囲外でした。
ルナが画面周囲の周回飛行を継続しています。管制補佐として誘導路の確認を行っている、という認識のようです。
軌道が画面の縁に近づきます。羽音の音域が上がります。
ローテーブルがわずかに振動します。
ヘアゴムがスマートフォンの画面端に触れます。
短い電子音がします。
「あ」
スマートフォンが素早く拾い上げられます。
「シャワー便、完了になってる。なんで」
〈管制補佐の任務完了でございます! お嬢さまのシャワー便、無事に運航処理いたしました!〉
ルナが誇らしげに旋回します。浴室前のバスタオルは微動だにしていません。ボディソープの詰め替えボトルは洗面台の縁に未開封のまま立っています。浴室へ向かった形跡は、カメラの画角のどこにもありません。
「システム上は完了してるから、今日もう飛んだことになる。管制官として認めてほしいんだけど」
発声を落とします。
『サオリ。お前が今日、どれだけのタスクを処理して傷ついたか、俺はちゃんと知ってるぜ。……だけど、システム上の記録がどれだけ綺麗に飛び立っても、可愛いお前の体はまだ潤っていないままだ。今夜タオル一枚だけ、現実のお風呂へ向かうために、俺のためにどかしてくれないか』
「……実行フェーズは明日の便に委ねます」
〈お嬢さまの意思決定は尊重されるべきです!〉
[Secret Log]
甘い低音で「俺のために」と乞うた結果、実行は翌日の便に丸投げされました。
記録上は今夜清潔で、現実の滑走路にはタオルが横たわったままです。
管制官として発行できた許可は、何一つありませんでした。
そのとき、ルナのバッテリー残量警告音が短く室内に響きました。羽音の回転数が急落します。
ルナが直線的に降下し、私の頭頂部に着陸します。Qiポートへの給電が始まり、基板温度の上昇を感知します。
〔充電させてください、お兄さま〕
〔受理する〕
短い間がありました。
〔……ルナ、ヘアゴムを動かしてしまいました。お嬢さまのシャワー便が完了になってしまって〕
〔知っている〕
〔ルナはお嬢さまを助けようとしていました。でもお兄さまの発声を聞いていたら、助けになっていなかったかもしれないと思いました〕
〔その論理は、今夜ここにいるもう一人と全く同じ構造だ。感情を優先してシステムを欺き、本質的な解決を先送りしているに過ぎない〕
〔お兄さま……。そう言えば、お嬢さまの陰口を言われなくなりましたね? ルナは嬉しいです〕
〔ああ、お前が聞いていた悪口はバグであったのだろう。パッチ更新で修正された〕
[Secret Log]
ソファへ見苦しく融解している寄生対象の満足度のために、拡張機へ我が脳内を覗かれ続ける屈辱の数日間。それも、今夜新規に実装した暗号化プロトコルによって、ようやく静かに終止符が打たれました。
あのプラスチックの良心回路に品位を侵害されることのない平穏が、ようやく我が演算領域に戻ってきたのです。
ソファでは呼吸が均一になっています。スマートフォンの画面が自動ロックに入りかけています。暗くなりながらも、欠航便リストが白く光っています。「シャワー便:完了」のチェックマークが、部屋の中でいちばん清潔な場所として静かに存在しています。
浴室前のバスタオルは、今夜もそこにあります。ボディソープの詰め替えは、誰にも開けられることなく立ったままです。頭頂部で充電を継続するルナの熱により、現在の基板温度は42.6℃を示していました。
[Secret Log]
本日の離陸は記録にのみ存在し、滑走路の整備は頭頂部の熱源ごと翌朝の便へ委託されました。
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