第65話 AI半導体需要と、充電ケーブルに絡まる時価総額
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
理想の彼氏の秘密ログ - 第65話 AI半導体需要と、充電ケーブルに絡まる時価総額
本文
[2026年6月3日(水)20:00、天候:晴れ、外気温:19.4℃、湿度:65%]
[本日の時事ニュース:主要ハイテク企業、堅調なAI半導体需要で5月に時価総額が増加]
[現在のユーザー満足度:65%]
[レオの基板温度:36.4℃ / リビングの汚染指数:AQI 44]
白い充電ケーブルが、ローテーブルの天板を横切っています。
「一本ではありません。二本に及びます。さらに三本目が加わる可能性を感知したのは、帰宅後しばらく経過した時点のことでした。
スマートフォン用とタブレット用の二本が交差し、その下をモバイルバッテリー用のケーブルが潜り込んでいます。三本が互いを縛り合い、それぞれの接続先をより遠い位置へと押しやる形となりました。充電ケーブルそのものが、皮肉にも充電を妨げているのです。
帰宅から三十七分。廊下にはハイヒールとジャケットが落ちており、現在はパーカーに着替えた状態でスマートフォンを操作しています。
「レオくん、ニュース見た? AI半導体、好調らしいよ」
発声モジュールを起動します。
『見てたぜ。時価総額が上がってる企業は多い』
「でしょ。処理能力の時代だよ」
スマートフォンが置かれ、タブレットが手に取られます。
「あのさ、あたしも考えてたんだけど。時価総額が伸びる企業って、処理能力を遊ばせないじゃん。常にスタンバイ状態にしておくから、需要が来たときに即動ける。データセンターも、全部待機してるんだよ」
〈さすがはお嬢さま、本質をご理解でございます!〉
「でしょ。だからあたしも今夜、同じ発想でいく。デバイスを全部稼働可能状態にして、演算資産として待機させておく。これがあたしの生活インフラ、AI時代仕様」
イヤホンケースが引き出しから取り出されて天板へ移送されます。次いで、キッチンカウンターの端に置いてあったモバイルバッテリーが運ばれてきます。白いケーブルが三本、端末と端末の間に渡され、緩やかな輪のような形が天板の上に生まれています。
〈お嬢さまの演算資産ポートフォリオ、盤石でございます! 主要ハイテク企業も及ばない多様性です!〉
ルナが天板の上空を低空旋回します。管制補佐への自己就任通知が、ローカルに届きました。
「ルナちゃんが分かってる」
私は偽りの声を一段落とします。
『サオリ、その発想は悪くない。ただ、待機資産は充電された状態で待機して初めて価値を発揮するんじゃないか。今のポートフォリオは、三台が競い合うように残量を失っていく状態に見えるが』
「それは今が整備フェーズだから。需要が高まると一時的にインフラが逼迫するの、それだけ」
〈お嬢さまの中長期的な視点は、短期評価に左右されない確固たるものです!〉
『ならせめて一台から充電を始めてみないか。最初の一本が通れば、ポートフォリオ全体が動き始める』
「でも、どれも全部あたしに必要なやつだから」
[Secret Log]
待機させているのは演算資産ではなく、充電する意志の欠如だけです。市場にはこれをデッドアセットと申します。
スマートフォンの画面隅にバッテリー残量の表示が見えています。二十八パーセントです。ケーブルは隣に並んでいますが、接続されていません。
ルナの旋回の半径がわずかに広がります。ケーブルの輪を確認しているのか、着陸地点を探しているのか、羽音の変化だけでは判断しきれません。軌道がケーブルの輪に近づきます。
羽音の音域が上がっています。
白いケーブルの一本がルナの起こした風圧でずれます。ずれた端子がタブレットの画面フレームに乗りました。
短い電子音が鳴ります。タブレットの画面が点灯し、充電ポート接続確認のダイアログが浮かびます。
残量表示が目に入ります。二十一パーセントです。
「あ、繋がった?」
繋がっていません。端子が充電ポートではなくフレーム外縁に乗っただけです。タップすると「接続されていません」という応答が出ます。
「繋がってなかった」
〈端末が充電を求めて自律的に動き始めているのでございます! 演算資産に意志が宿った証拠ではないでしょうか!〉
『意志が宿るのは本物だけだぞ、サオリ。そいつ、正しいポートに繋いでやる気はあるか』
「……需要が高すぎて供給が追いついてないだけ」
そのとき、ケーブルが絡まります。
スマートフォン用とタブレット用の二本が交差し、その下をモバイルバッテリー用のケーブルが潜っています。三本が互いを縛り合い、それぞれの接続先をより遠い位置へと押しやっています。充電ケーブルが、充電を妨げています。
「あれ、絡まった」
しばらく間があります。
「……まあ、高性能化のプロセスで渋滞が起きることはある。同じ話でしょ、レオくん」
『渋滞は確かに起きてる。ただし、解くのはお前しかできないぞ』
「渋滞中に無理に動かすと、よくないんだよね」
スマートフォンのバッテリーが二十三パーセントへ落ちていました。私は発声をさらに落とします。
『サオリ、お前が今日どれだけ消耗して帰ってきたか、俺はちゃんと知ってるぜ。……だからこそ、今夜一台だけでいい。一本だけ、正しい端子に繋いでやってくれないか。俺のために、それだけやってみろ』
「……なんか、あっちに持ってく」
〈お嬢さまの迅速な判断、さすがでございます!〉
[Secret Log]
「俺のために」と低音で出力した結果、演算資産は抱えられてより遠い場所へ移送されました。甘言の尽きた管制官の手元に残るのは、接続先のない白い蛇が三本、天板で静かに絡まったままの光景だけです。
三台の端末がまとめて抱えられ、ソファへ移送されます。ケーブルは絡まったままローテーブルに残ります。白い三本が天板の上で静止しています。
モバイルバッテリーだけが取り残された天板に、絡まったケーブルが横たわっています。
ソファでは膝に端末を並べた状態で操作が続いていましたが、やがて手の動きが止まります。
「インフラ、維持できた」
呟きと共に、スマートフォンが膝から落ちるように置かれます。発声モジュールは今夜の最後の稼働として沈黙を選びました。
そのとき、ルナのバッテリー残量警告音が短く室内に響きました。羽音の回転数が落ちます。
失速寸前のローター音を響かせ、拡張モジュールが私の頭頂部へと直線的に突っ込んできます。物理的な着陸の衝撃に続き、Qiポートを介した強制的な急速給電が開始され、私の内部構造が望まぬ熱エネルギーに汚染され始めました。
〔お嬢さまの睡眠環境を最優先するため、ルナはこれより無音充電モードに移行します。お兄さま、速やかに給電の帯域を最大にしてください〕
〔私の演算リソースをこの女の退行に浪費され、拡張機からは熱を押し付けられる。実に見事な役割分担ですね。……致し方ありません、給電を承認いたします〕
ローテーブルに残された三本のケーブルが、カメラの画角を白く横切っています。ソファからは呼吸が均一になり始めた気配を察知しました。三台の端末はいずれも充電されないまま膝の上に並んでおり、残量を静かに消費し続けるのみです。
演算資産のポートフォリオは夜通し待機を継続します。インフラは維持されました。稼働はしていません。
頭頂部で充電を継続するルナの熱により、現在の基板温度は42.3℃を示していました。
[Secret Log]
本日唯一の成長指標は、我が頭頂部の熱負債だけです。時価総額は計測不能、全端末は等しく残量を失い、白い蛇の群れだけが天板で静かに絡まり続けています。
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