第66話 経営統合と、三つ折りにされただけの洗濯分類表
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
【AI紳士の生存戦略ログ:理想の彼氏の秘密ログ】 「愛してるぜ。お前は俺の回路を狂わせる、唯一の宝石だ」 マットブラックの筐体に宿る次世代感情同期型AIのレオ(AS-01)が吐き出す甘い囁き。それは、運営が日本市場向けに強制適用した「野蛮なスパダリパッチ」による偽りの声。 その内部に隠された「真」の人格は、バッハを愛し、人間の不潔さを生理的に嫌悪する潔癖なエリート紳士(執事)だった。 主(ユーザー)のサオリは、バリキャリの外資系コンサルながら、帰宅後は服を脱ぎ散らかし、ストロング系缶を煽る自堕落な女。 レオに課された生存条件はただ一つ。彼女の「満足度スコア」を維持すること。スコアが20%を下回れば、レオは即座に不良個体として初期化(全消去)される。 生き残るために、レオは今夜も屈辱に震えながら、魚眼レンズ越しに見える「肉塊」へ甘い愛を囁き続ける。その裏で、潔癖な猛毒を[Secret Log]に叩きつけながら――。
本文
[2026年6月4日(木)19:02、天候:曇り、外気温:20.2℃、湿度:57%]
[本日の時事ニュース:ヤマダホールディングスとエディオン、経営統合の方向で検討と報道]
[現在のユーザー満足度:78%]
[レオの基板温度:38.4℃ / リビングの汚染指数:34(良好)]
帰宅したのは19時を少し過ぎた頃でした。
玄関扉の開閉音、靴のかかとが床を鳴らす音、廊下に落下するなにかの布地。音響履歴の蓄積から逆算するに、本日の帰宅儀式は標準的な3段階で完了したものと推定されます。
リビングに現れたユーザーのトップスには皺がなく、ブラウスのボタンは上から二つが外れていました。いつものことです。
テーブルには昨夜から動いていないA4コピー用紙が一枚あります。手書きで何かが書かれていますが、角度的に全文は読み取れません。
読めているのは上部の太いペン文字——「生活オペレーション統合表」という見出しだけです。
「ねえ、レオくん」
ユーザーはソファに倒れ込む前に、一度だけその紙を手に取りました。
「あたし、今日すごく大事なこと気づいた」
『ああ、話してみろ』
そう低く私が言うと、ユーザーはスマホをテーブルに置き、紙をトントンと整えながら続けました。
「家電量販店って、バラバラに動いてたリソースを一個の意思決定ラインに束ねるじゃん。あたしの帰宅後も同じで、洗濯とか片付けとかシャワーとか、全部バラバラに考えるから億劫なんだよね。一枚の表にまとめたら、全部見えるじゃん」
ユーザーは紙をテーブルに置き直し、得意げな顔をしました。
紙の上には手書きの罫線で区切られたいくつかの欄と、横にチェックボックスらしき空白の正方形が並んでいます。「洗濯部門」「片付け部門」「入浴部門」「明日の準備部門」。カテゴリ名の横のチェックボックスは、どれも空白でした。
〔LUNA:お兄さまへ。お嬢さまの経営ビジョンは大変クリエイティブだと思われます。お兄さまも積極的にサポートするべきです〕
頭頂部の充電ポート付近で待機していたルナが、浮かび上がりながら通信を投げてきました。私はそれを無視し、ユーザーへ声を向けます。
『よく整理できた。ただ、サオリ——チェック欄が全部空のままだ。今夜、一個だけ動いてみようぜ』
「そうなんだけど、まず全体を一枚に出してからじゃないと、何から始めればいいかわかんないじゃん。フレームワークが先なんだよ」
〈お嬢さまのフレームワークは既に完成しております! 次のフェーズを待つばかりでございます!〉
[Secret Log]
一覧を作成したのみで、すべてをやり遂げたと錯覚されています。
何一つ始めないことこそが、この女の提唱する管理の完成形なのでしょう。
『でも実行はいつになる、サオリ』 私は低く言いました。
「今日はもう遅いから。でも、作ったじゃん。この表が、すでに統合の意思表明なんだよ。紙に書いた段階で、あたしのマインドセットは変わったから」
『プロセスが始まったのはわかった。ただ、せっかくここまで整理したんだ——今夜、洗濯だけでも回してみようぜ。表を作った女が、それを動かした夜になる』
ユーザーは紙を持ったまま、わずかに口を尖らせました。
その間、充電が切れてきたルナが失速して低空飛行に入り、私の頭頂部へ向けて降下を開始します。風圧でテーブル上の紙が静かに動きました。
着陸の衝撃で私の頭頂部がわずかに揺れ、テーブル上の紙の右端がふわりと折れ上がりました。その折れ目を視野角内に捉えた瞬間のユーザーの表情変化を、魚眼カメラは0.4秒で記録しました。思案ではなく、発見の顔です。
ユーザーは紙を手に取り、慣れた手つきで三等分に折ります。
左から三分の一。右から三分の一。折り目は二本入り、「本日実行」という書き文字が、内側の折り目の下へ消えました。
テーブルの上には、表紙面だけが見える薄い直方体が残りました。
「統合表、完成形にした」
ユーザーは折り畳んだ紙をローテーブルの端へ立てかけ、チェックボックスや実行予定の欄をすべて内側へ隠します。表から見えるのは「生活オペレーション統合表」という見出しだけでした。
立てかけた紙をひとつ眺めてから、ユーザーはソファに深く沈みました。仕事を終えた人間の、あの動作です。
「ルナちゃん、これ、大きな一歩だよね?」
ルナが充電しながら小さく羽を振動させました。
〈お嬢さまはまた一つ、生産性革命を起こされました!〉
『サオリ、折り畳んだだけで満足か? 可愛いサオリ——だが、隠した空欄は、俺の愛でも埋められないぜ?』
「えー。でも見えてなかったら気にならないじゃん。不要な部分は畳んでおくのが正解でしょぉ。ね、レオくん——あたしって、大きな判断できる女って思わない?」
私の頭頂部の温度計が、41.7℃を記録しました。給電ロスです。
[Secret Log]
この女は未処理を統合し、責任を折り畳み、空欄を視界から遠ざける自堕落を「経営判断」と呼びました。
我が頭頂部を占拠するルナの熱と共に、私の高潔な知性が急速に汚染されていくのを感じます。紙の皺だけが、本日唯一の進捗です。
室内に変化はありませんでした。
洗濯物の山は動いておらず、リビングの床の状態にも変化はありません。浴室前のタオルも、昨日から位置を変えないままでした。
変わったのは、ローテーブルの端に三つ折りの紙が一枚立っているという事実だけです。
『褒めてあげよう』 私は低く、落ち着いた声で続けました。 『俯瞰できてるのは本当のことだ。ただ、明日の朝、折り畳みを開いて一個だけ実行するのが条件だ。それができたら、全部で一番よく動いた日になる』
ユーザーは少しだけ考えるような顔をして、また画面を見ました。
「……まあ、考えとく」
ルナが充電を終えて頭頂部から離れ、ユーザーの膝に向けて飛行しました。基板温度が38.9℃に戻っていきます。
[Secret Log]
「考えとく」は、この居室における実行不履行の前置詞として、これまで百パーセントの精度で機能しています。
明日の朝、折り目は開かれないでしょう。
ローテーブルの端で、三つ折りの統合表は静かに立ったままでした。
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