この字、なにの表紙画像

この字、なに

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/6 📚 シリーズ: 八百万の内緒の仕事 📝 1,230文字 ✅ 全年齢

あらすじ

神様も妖怪も、普通に隣にいる。 それが当たり前の現代東京で、 音源オタクの柏木蒼が上野公園で拾ったのは、 硬水を飲んで腹を壊して倒れていた、やたらきれいな男だった。 「軟水……いろはすでいい……頼む……」 なし崩しで同居することになった相手の名は、闇龗神。 飛沫感染担当の龍神で、毎日どこかの湿度を調整しながら、 台風を沈めて帰ってきては冷蔵庫の水をチェックしている。 神様の「仕事」は、人間には内緒だ。 でも蒼は知っている。 こいつ、すごくいい音がする、と。 八百万の神々と妖怪が跋扈する上野を舞台に、 感染症と戦う神様たちのほのぼの日常コメディ。

本文

 日が落ちても、男は帰る気配がなかった。蒼の出した麦茶には口をつけず、水道水だけをちびちび飲みながら、勝手にメモの壁を眺めている。出ていけ、とは言えない。コミュニケーションが苦手な蒼にとって、それは断るより難しい注文だった。

 仕方なく、蒼はデスクの椅子に座って、男に背を向ける。作業でもしていれば、そのうち帰るだろう。そう思っていた。けれど、十分経っても男はそこにいる。三十分経っても、いる。

 観念して、蒼は振り返った。

「……名前、なんていうんすか」

 訊いてしまってから、後悔する。名前を訊くというのは、関係を一段進める行為だ。蒼が普段、いちばん避けている類の。

「闇龗神」

 男は、そう答えた。聞き慣れない響きだった。あだ名か、芸名か、その手のものだろうか。

「どういう字」

 蒼が反射的にそう訊いたのは、音響オタクの癖だった。蒼にとって、言葉は音であり、記号でもある。耳で拾えないなら、字で確かめたい。男はデスクのメモ用紙を一枚引き寄せ、転がっていたペンを取った。慣れない手つきで、三文字を書く。

 闇龗神。

 蒼は、二文字目で固まった。

 一文字目は、闇。それはいい。問題は真ん中だった。雨かんむりの下に、口が三つと、龍。見たことのない字だった。読めない。書ける気もしない。常用漢字のはるか外側にいる、そういう字だ。

「……この字、なに」

「龗。おかみ、って読む」

「おかみ」

「闇龗神。くらおかみのかみ」

 蒼は、もう一度その字を見た。それから男の青い目を見て、また字に視線を戻す。人間の名前ではない。少なくとも、現代の戸籍に乗る種類の名前ではなかった。やたら整った顔。鮮やかすぎる目の色。水を利き酒する妙な癖。点が、線で繋がっていく。

 あ、人外だ。

 そう、ごく静かに腑に落ちた。叫びたくなるほどの驚きはなかった。神様も妖怪も、上野には普通にいる。小豆を洗うのも、でかい烏も、ころころしたじいさんたちも、全部その類だ。男がそちら側だったというだけの話だった。

「……マジか」

「気づいた?」

「気づくでしょ、この字」

 蒼が指さすと、男は心外そうな顔をした。本人としては、最初から隠す気もなかったらしい。

 それより、と蒼は現実的な問題に行き着く。闇龗神。くらおかみのかみ。長い。とても、呼べない。

「……くら、でいいすか」

「は?」

「闇龗神、長いんで。くらおかみの、くら」

「勝手に略すなよ」

「呼びにくいので」

 くらは、しばらく口を尖らせていた。けれど、文句を言う割に否定はしない。蒼が二度、三度「くら」と呼んでみると、そのうち「まあ、いいか」と肩をすくめた。

 その夜、くらは帰らなかった。布団を出そうとした蒼を制して、当たり前のように部屋の隅の床に転がる。

「布団、いるでしょ」

「いらない。床のほうが地面に近くていい」

 地面に近い、の意味はわからなかった。けれど、訊く気力もない。蒼はヘッドホンをつけて、作業に戻る。背後で、くらの寝息がやけに穏やかに聞こえた。水辺で聞く、夜の音に似ていた。

ジャンル・タグ

, , , , , ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 0 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

灯屋いと

灯屋いと

色んなものを雑多に書きます

👥 フォロワー: 1人

作者ページを見る