録んなよ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
神様も妖怪も、普通に隣にいる。 それが当たり前の現代東京で、 音源オタクの柏木蒼が上野公園で拾ったのは、 硬水を飲んで腹を壊して倒れていた、やたらきれいな男だった。 「軟水……いろはすでいい……頼む……」 なし崩しで同居することになった相手の名は、闇龗神。 飛沫感染担当の龍神で、毎日どこかの湿度を調整しながら、 台風を沈めて帰ってきては冷蔵庫の水をチェックしている。 神様の「仕事」は、人間には内緒だ。 でも蒼は知っている。 こいつ、すごくいい音がする、と。 八百万の神々と妖怪が跋扈する上野を舞台に、 感染症と戦う神様たちのほのぼの日常コメディ。
本文
くらは、それから居ついた。
出ていけと言った覚えはない。けれど、いていいと言った覚えもなかった。神様と同居というのは、そういうかたちで、なし崩しに始まるものらしい。
朝、蒼が遅く起きるころには、くらはもういない。近所をうろついて、昼前にふらりと帰ってくる。風呂にはやたら長く入り、入浴剤を入れると本気で怒った。冷蔵庫の水は毎日チェックされる。ある日、玄関にいろはすの箱が積まれていて、蒼は反射的に身構えた。
「誰の金で」
「俺の。これくらい買える」
「……金、持ってんの」
「水は別だ。本能で買える」
意味はわからなかったが、自分の財布が無事だったので、それ以上は追及しないことにした。神様にも給料が出るのかもしれない。考えはじめると面倒なので、蒼は考えるのをやめた。
その日の夕方も、蒼は録音機材を提げて家を出た。値下げ弁当の時間まで、まだ少しある。路地をひとつ折れたところで、見慣れた背中を見つけた。くらだった。
近所のばあちゃんが、自宅の前で水やりをしている。その傍らに、くらがしゃがんでいた。何をするでもなく、ただ寄り添うように。蒼は足を止めた。声をかけるほどの用もない。引き返そうとして、空気が変わったのに気づく。
夕方の路地の、ばあちゃんの周りだけ。空気がしっとりと重くなっていく。そういう感触だった。湿度が上がる、というよりも、その場所だけ別の季節が降りてきたような。乾いていたアスファルトに、うっすらと色が差していく。くらの唇が、声にならないくらいの小さな音を、こぼしていた。
その音を、蒼は聞いた。
人間の音楽の、どこにもない音だった。音階に乗らない。楽器では出せない。けれど確かに「音」で、しかも、とんでもなくいい。背筋がぞくりとした。考えるより先に、手がレコーダーに伸びる。録らなければ。今すぐ。これを逃したら、二度と——
「録んなよ」
くらが、こちらを見ずに言った。
蒼の手が止まる。空気はもう、元の乾いた夕方に戻っていた。ばあちゃんは何も気づかないまま、「あら、いい風」と言って、にこにこと家に入っていく。くらは立ち上がり、膝の埃を払って、いつもの軽い顔で振り返った。
「……今の、なに」
「なんでもない」
「なんでもないわけ、ないでしょ。空気が」
「気のせい気のせい」
くらは笑ってごまかす。蒼にも、それが何だったのかはわからなかった。湿度を操っていたのか、あのばあちゃんに何かをしていたのか。理屈は何ひとつ繋がらない。ただ、くらが何か、とんでもなくすごいことを、こともなげにやってのけたことだけは、わかった。そして、それを誰にも知られないようにしていることも。
「……あの音、もう一回は」
「録んなよって言っただろ」
「サンプリングって知ってる?」
「知らんけど駄目」
取りつく島もなかった。蒼は諦めて、レコーダーをポケットに戻す。逃した音への未練が、まだ指先に残っていた。
帰り道、二人はとりとめのない話をしながら歩いた。値下げ弁当をひとつ買って、半分こした。くらは相変わらず、水のことばかり喋っている。
電線の上で、やけに大きい烏が一羽、二人を見下ろしていた。蒼は、今日もそれに気づかない。
変な神様を拾った、と思う。やたら顔がよくて、水にうるさくて、ときどき、聞いたこともない音を立てる男。何をしているのかは、わからない。たぶん、訊いても教えてくれない。
それでも、いい音のする場所に、いい音のするやつがいる。蒼にとっては、それでもう十分だった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。