第28話 空を飾るな
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1938年の晩秋、ミュンヘンの空は低かった。
朝から雲が降りてきたような日が続き、街灯は昼前からぼんやりと白く光った。石畳には落葉が貼りつき、馬車の車輪がそれを黒く潰していく。新聞売りの声は、東方国境の話題から少しずつスペインへ移っていた。
マドリード。
バルセロナ。
エブロ川。
赤色勢力。
防共。
スペインの空。
その言葉は、遠くにあるはずの戦場を、ミュンヘンの喫茶店や商工会館の卓上へ運んできた。
アドルフ・ヒトラー意匠事務所の一階では、ユンゲが受付机に置かれた新聞を読んでいた。
小さな記事だった。
スペイン北部の町に対する空襲について、フランスの画家が大きな絵を描いたという。記事は短く、断定を避けていた。実行したのはフランコ側の航空部隊とされるが、使用された機材や訓練、通信技術にはドイツ由来のものが含まれているらしい。政府筋は関与を否定している。航空関係者は技術交流の範囲内だと説明している。
ユンゲは新聞を畳んだ。
遠い話のはずだった。
だが、遠い話はたいてい、封筒に入って事務所へやって来る。
その日の午前、扉が大きな音を立てて開いた。
「失礼する」
失礼という言葉のわりに、入ってくる足音は遠慮がなかった。
ユンゲが立ち上がる。
「ご用件をうかがいます」
男は大柄だった。厚手の外套を羽織り、帽子を片手に持っている。頬は赤く、声はよく通った。胸元には航空関係の徽章らしいものが光っていた。
「ヘルマン・ゲーリング。航空発展後援会の件で来た」
ユンゲは一瞬だけ、名前を確認するように目を上げた。
第一次大戦の航空士官。
空の英雄。
社交界にも産業界にも顔が利き、近頃は航空技術振興と反共運動の集会でよく名を聞く人物だった。
ユンゲは来客簿を開いた。
ゲーリング様
航空発展後援会
講演・募金・展示イベント装飾依頼
声大
予算大
要確認
ペン先が止まる。
少し考えて、最後に一行足した。
空関連
二階では、ヒトラーが鉄道会社向けの案内板を見ていた。
フランツが机の上に会場図を広げ、クレープスは窓際で文字見本を清書している。エルゼは帳簿をつけながら、石炭代の増加に顔をしかめていた。
階段を上がってくる足音を聞いた瞬間、ヒトラーは顔を上げた。
「重い足音だ」
ブルクドルフが言った。
「客ですかね」
「客なら静かに上がれ」
扉が開いた。
ゲーリングが現れると、部屋が少し狭くなったように見えた。彼は大きな筒と、航空写真の束、それから厚い趣意書を抱えていた。
「所長。あなたの噂は聞いている」
ヒトラーは眉をひそめた。
「どの噂だ」
「会場の正面を作る男だと」
「正面を欲しがる客は多い」
「空にも正面が要る」
ヒトラーは少しだけ黙った。
それから、不愉快そうに言った。
「空に正面はない」
ゲーリングは笑った。
「だからこそ、会場に作るのだ」
エルゼが帳簿を閉じた。
「正式なご依頼でしょうか」
「もちろんだ。航空発展後援会主催、スペイン関連講演と展示、募金の会だ。題して、スペインの空に防共を」
ヒトラーはすぐに顔をしかめた。
「題名が上を向きすぎている」
「空の会だからな」
「空を言えば何でも高くなると思うな」
ゲーリングは気にしなかった。
「会場はミュンヘン市内の大講堂。講演、航空写真、飛行機模型、募金箱、新聞撮影。航空技術の発展と欧州防共の意義を、市民と産業界に示す。派手にやりたい」
「派手という言葉を先に出す客は、たいてい面倒だ」
「地味な空など誰も見ない」
「高さと派手さを混同するな」
ゲーリングは机に航空写真を広げた。
飛行場。
山地。
白い道。
市街地。
上空から見下ろしたスペインの町は、模型のようだった。屋根は小さく、道路は線になり、人間の姿はほとんど見えない。
ヒトラーはしばらく写真を見ていた。
「空から見ると、街は軽くなる」
ゲーリングは満足そうに頷いた。
「その通り。だから空は重要だ。地上の争いを、空が決める時代になる」
ヒトラーは写真から目を離さなかった。
「軽く見えることと、軽いことは違う」
ゲーリングは少しだけ眉を上げた。
「ふむ」
エルゼが契約書の用紙を取り出す。
「当事務所の業務範囲は、会場装飾、展示導線、壇上構成、掲示物配置です。募金の集計、寄付者名簿管理、講演内容、政治文面の作成は含みません」
「寄付者名簿は重要だ」
ゲーリングが言った。
「重要でも、当事務所の業務ではありません」
「後援会としては、等級別に」
「しません」
「高額寄付者の席は」
「来賓席の配置なら承ります。寄付額による人物分類は業務外です」
ゲーリングは少し笑った。
「なかなか固い」
エルゼは答えた。
「帳簿は柔らかいと危険です」
ヒトラーは航空写真の束をめくっていた。
その中に、一枚だけ空気の違う写真があった。
町の一部が壊れていた。屋根が抜け、壁が崩れ、通りに瓦礫が広がっている。教会の塔らしきものが欠け、商店の看板は斜めに曲がっていた。写真は遠くから撮られている。だが、壊れた正面だけはわかった。
ヒトラーの指が止まった。
「これは何だ」
ゲーリングが少し間を置いた。
「スペイン北部の町だ。戦火にさらされた場所だ」
「誰が壊した」
「戦争が壊した」
「便利な主語だ」
フランツは息を止めた。
ゲーリングは写真を見下ろした。
「直接やったのはスペイン側だ。我々の部隊ではない」
「我々」
「ドイツだ」
「君は政府か」
ゲーリングは笑った。
「政府ではない。だが空を知る者として、無関係とは言えん。機材、訓練、通信、整備。ドイツの技術は、あちらの空にも届いている」
ヒトラーは写真を机に置いた。
「届いた先の屋根が落ちたなら、空だけ見ているわけにはいかん」
ゲーリングの笑みが少し薄くなった。
「戦争とはそういうものだ」
「なら、なおさら飾るな」
部屋が静かになった。
その時、階下からまた扉の音がした。
ユンゲの声が聞こえる。
「ご用件をうかがいます」
今度の声は高く、どこか楽しげだった。
「ポスター案を持ってきました。空の話には声が必要でしょう」
ヒトラーは目を閉じた。
「来たか」
ゲッベルスは筒を抱えて二階へ上がってきた。
「おや、すでに空が広がっていますね」
「広げるな」
ヒトラーが言った。
ゲッベルスは机の上の航空写真を見て、すぐに一枚を取った。壊れた町の写真だった。
「これは強い」
ヒトラーの目が鋭くなった。
「入口には置かん」
ゲッベルスは笑った。
「まだ何も言っていません」
「言う顔をしている」
「入口に置けば、来場者は募金箱へ真っ直ぐ進みます」
「だから置かん」
「なぜです。破壊は訴えます」
「破壊だけを見せるな」
ゲッベルスは写真を掲げた。
「しかし、これほど強い正面はありません」
ヒトラーは低い声で言った。
「壊れた正面を正面にするな」
ゲッベルスの顔から笑みが少し消えた。
ヒトラーは続けた。
「客は町を見ず、破壊だけを見る。屋根も店も、道も玄関も消える。残るのは瓦礫と感情だけだ」
「感情は動員になります」
「発作を募金と呼ぶな」
エルゼが契約書に線を引いた。
「戦災写真は展示資料です。募金誘導の直接隣接配置は、業務範囲外としてお断りします」
ゲッベルスは肩をすくめた。
「会計に負ける広告ほど寂しいものはありません」
「寂しくて結構です」
ユンゲは受付簿を二階へ持ってきて、追記した。
戦災写真
入口配置案
却下
奥展示へ変更
募金箱隣接不可
ゲーリングは腕を組んでいた。
「所長、会は成功させねばならん。空には力がある。それを見せる必要がある」
「空を見せるなら、下に屋根があることも見せろ」
「屋根か」
「飛ぶ者は下を小さく見る。だから会場では、小さくしすぎるな」
ゲーリングは少し黙り、それから大きく笑った。
「あなたは相変わらず地上の男だ」
「だから天井を落とさずに済む」
フランツは会場図を引き寄せた。
「では、構成はどうしますか」
ヒトラーは赤鉛筆を取った。
「入口に空を置くな。空を置くと客が上ばかり見る」
ゲーリングが眉を上げる。
「空の会だぞ」
「会場だ。客は床を歩く」
ヒトラーは会場図に線を引いた。
「入口は航空発展後援会の趣旨。文字は大きくしすぎるな。次に飛行機模型。天井から一機だけ吊るす」
ゲーリングがすぐに言った。
「三機だ」
「一機だ」
「三機なら編隊になる」
「三機吊ると玩具屋になる」
「空は一機では寂しい」
「天井は空ではない」
ゲーリングは不満そうだったが、エルゼがすぐに言った。
「吊り下げ工事費と安全確認費は一機分で見積もります。三機の場合は再見積もりです」
ゲーリングは少し考えた。
「一機でよい」
ヒトラーは勝ち誇らなかった。
「模型は高くしすぎるな。人が見上げる角度には限度がある」
「空を見るのに限度など」
「首にはある」
フランツは急いで書き留めた。
「入口、趣旨説明。中央、航空模型。左右に技術図解と写真。奥にスペインの戦火に関する資料。出口手前に募金箱」
「募金箱はもっと前だ」
ゲッベルスが言った。
「出口手前だ」
ヒトラーは譲らなかった。
「見てすぐ金を入れさせるな。歩かせろ。技術を見せ、写真を見せ、話を聞かせ、それから出口で判断させろ」
ゲッベルスは唇を尖らせた。
「熱が逃げます」
「逃げる熱なら、最初から不要だ」
ゲーリングは航空写真を何枚か選び直した。
「では、壊れた町の写真は奥だな」
「奥だ。ただし隠すな」
「隠すつもりはない」
「なら、見世物にもするな」
その日の午後、事務所は奇妙な忙しさに包まれた。
ゲーリングは空を高くしたがった。
ゲッベルスは言葉を強くしたがった。
エルゼは契約の枠を狭く保った。
ユンゲは受付簿に、断ったものを一つずつ書いた。
ヒトラーは赤鉛筆で、空を地上へ引き戻した。
会場名の幕にも揉めた。
ゲッベルス案は、黒い太字で大きく「スペインの空に防共を」と叫んでいた。文字の後ろには雲と翼が描かれ、下には砕けた鎖と赤い星があった。
ヒトラーは見た瞬間に言った。
「うるさい」
ゲッベルスは平然と返す。
「うるさくなければ防共ではありません」
「防共でも文字には余白がいる」
「余白は弱さに見えます」
「余白がない文字は、息切れして見える」
ゲーリングは幕を見て満足そうだった。
「悪くない。力がある」
「力しかない」
ヒトラーは赤鉛筆で翼を消した。
「翼は一つでいい。雲もいらん。赤い星は小さくしろ。大きく描くと、むしろそちらが主役になる」
ゲッベルスが目を細める。
「敵を大きく見せて、こちらを強くする手法です」
「敵を大きく描きすぎる広告屋は、敵の宣伝をしている」
ゲッベルスは少し沈黙した。
「たまに痛いことを言いますね」
「たいてい痛くしている」
結果、壇上幕はかなり抑えられた。
中央に小さな航空機のシルエット。
下に会名。
右側に短い標語。
スペインの空に防共を。
ゲーリングは不満そうに眺めた。
「もっと高くできた」
ヒトラーは答えた。
「高い幕は読まれん」
「見上げればよい」
「人は長く見上げると疲れる」
「空を見る者は疲れを知らん」
「会場に来るのは市民だ。操縦士ではない」
展示当日、会場となった大講堂の外には、航空発展後援会の旗が立った。
ただし、旗は二本だけだった。
ゲーリングは四本を望んだ。
ヒトラーは二本にした。
「旗が多いと、入口が軍営になる」
「悪いか」
「悪い。ここは募金会だ」
「防共の募金会だ」
「なおさら入口を怖くするな。怖がらせて金を出させるなら、追い剥ぎと同じだ」
ゲーリングは笑った。
「あなたは妙なところで厳しい」
「妙ではない。入口の話だ」
講堂へ入ると、まず趣旨説明のパネルがあった。
航空技術の発展。
民間航空の未来。
欧州秩序と防共。
スペインにおける航空の役割。
文章はやや硬かったが、ゲッベルスの最初の案よりは短かった。彼は最後まで「弱い」と言い続けたが、エルゼが文字数の超過分を追加費用扱いにしたため、渋々削った。
中央には飛行機模型が一機だけ吊られていた。
銀色の機体は、天井から斜めに下がり、ちょうど来場者が見上げすぎずに済む高さで止まっていた。翼は照明を受けて光ったが、会場全体を支配するほどではない。
ゲーリングはそれを見上げて言った。
「やはり三機でもよかった」
ヒトラーは横から言った。
「一機だから見える」
「空なら三機見える」
「ここは空ではない。会館だ」
ゲーリングは楽しそうに笑った。
「あなたは会館に勝たせる男だな」
「会館で負ける装飾は仕事ではない」
左右には、航空技術の図解と写真が並んだ。
翼の断面。
エンジンの仕組み。
通信機材。
飛行場の整備風景。
操縦士訓練の写真。
そこまでは明るかった。
奥へ進むと、スペインの写真が現れた。
山地の道路。
村の広場。
壊れた橋。
砲撃を受けた教会。
屋根の落ちた家。
傾いた商店の看板。
写真の配置は静かだった。
煽る言葉はない。大きな矢印もない。募金箱も置かれていない。短い説明だけが添えられていた。
戦火を受けた町。
撮影地、スペイン北部。
詳細確認中。
フランツは、その前に立つ来場者を見た。
ある者はすぐに通り過ぎた。ある者は長く立ち止まった。ある女性は、壊れた教会の写真の前で手袋を握りしめていた。若い男たちは、飛行機模型の方へ戻って行った。
ゲッベルスが隣に来た。
「やはり弱い」
フランツは答えなかった。
ゲッベルスは写真を見た。
「入口に置けば、人はもっと動く」
ヒトラーが後ろから言った。
「動かすな。見せろ」
ゲッベルスは振り返る。
「見ただけでは金は出ません」
「金の前に目がある」
「目の後に財布が必要です」
「財布を先に開かせるな」
ゲッベルスは肩をすくめた。
「所長は商売に向いていない」
エルゼが近くで言った。
「請求書は出しますので、ご心配なく」
出口手前には募金箱が置かれた。
大きすぎず、しかし見落とさない高さ。横には、航空発展後援会の趣意書と、支援用途の説明が置かれていた。寄付者名簿は別机にあったが、等級別ではなかった。
ヒムラーは遅れて会場へ来た。
彼は名簿机を見て、少し残念そうな顔をした。
「分類されていませんね」
エルゼが即座に言った。
「されません」
「少なくとも、業種別に」
「されません」
「航空関係者、退役軍人、商工会、一般市民」
「されません」
「統計には有用です」
「業務外です」
ヒムラーは頷いた。
「では、後援会側で」
「当事務所の机ではしないでください」
ユンゲは受付簿に追記した。
寄付者分類
提案あり
当事務所では実施せず
講演は夕方に始まった。
壇上に立ったゲーリングは、よく通る声で語った。
空の時代。
航空技術の未来。
スペインで赤色勢力と戦う者たち。
欧州を守るための翼。
彼の声は会場の奥まで届いた。身振りは大きく、言葉は丸く、聞く者を上へ向かせる力があった。
ヒトラーは会場の端で腕を組んでいた。
「喋りすぎる」
フランツが隣で小声で言った。
「でも、皆さん聞いています」
「聞かせる声だ。だから危ない」
「危ないですか」
「高いところから降ってくる声は、客に自分で考える時間を与えん」
壇上のゲーリングは、スペインの空に触れた。
「ドイツの技術は、すでに欧州の空に届いています。直接の作戦ではなくとも、我々の整備、通信、機材、訓練は、空を飛ぶ者たちの力となっている」
会場には拍手が起きた。
フランツは、その拍手の中で、奥に置かれた壊れた町の写真を思い出した。
ドイツの技術は空に届いた。
その下には屋根があった。
講演の後、募金箱には硬貨と紙幣が入った。
イベントは成功だった。
新聞記者は壇上幕と飛行機模型を撮影し、ゲーリングの演説を書き留めた。航空発展後援会の関係者は満足し、商工会の男たちは寄付者の顔ぶれを気にしていた。
ゲッベルスは、少し不満げながらも、ポスターの反応には満足していた。
「やはり言葉はもっと強くできます」
ヒトラーは答えた。
「強くしなくてよかった」
「なぜです」
「十分うるさかった」
「それは成功ということです」
「違う。事故が起きなかったということだ」
ゲーリングが近づいてきた。
「所長」
「何だ」
「会は成功だ。募金も集まった。新聞も来た。模型も悪くなかった」
「悪くなかったなら、十分だ」
「だが、三機でもよかった」
「一機だから見えた」
「あなたは頑固だ」
「君は天井を空だと思いすぎる」
ゲーリングは大きく笑った。
「空を飾るのが私の仕事だ」
ヒトラーは、奥の写真展示を見た。
壊れた町。
欠けた屋根。
曲がった看板。
「空を飾るな」
ゲーリングの笑みが少しだけ止まった。
ヒトラーは続けた。
「下には屋根がある」
ゲーリングはしばらく黙った。
それから、帽子を持ち直した。
「覚えておこう」
「信用できん」
「空の男だからな」
「なおさらだ」
撤収は夜まで続いた。
飛行機模型は慎重に下ろされ、壇上幕は丸められた。写真パネルは木箱に戻され、募金箱は後援会の係員が運んでいった。壊れた町の写真は、最後まで机の上に残っていた。
フランツはそれを布で包んだ。
ヒトラーは横から言った。
「角を折るな」
「はい」
「写真でも、角が折れると正面が死ぬ」
フランツは布をかけながら聞いた。
「所長」
「何だ」
「空を飾るな、というのは、どういう意味ですか」
ヒトラーはすぐには答えなかった。
会場の天井を見上げた。
模型が下ろされたあと、そこには何もなかった。照明の輪だけが残っている。
「空は広い。だから何でも置きたくなる」
「はい」
「旗も、言葉も、飛行機も、英雄も、敵も、勝利もだ」
ヒトラーは布をかけられた写真を見た。
「だが、空に置いたものは、下から見上げるしかない。見上げている間、人は足元を忘れる」
フランツは黙っていた。
「会場では忘れさせるな。下には床がある。外には屋根がある。屋根の下には玄関がある」
それは、前の月に国境展示で使った言葉と、どこかでつながっていた。
玄関。
正面。
屋根。
空。
ヒトラーは政治を語っていない。
それでも、彼が触るものはいつも政治のすぐ近くにあった。
事務所へ戻ったのは、夜遅くだった。
ユンゲは受付簿を開き、今日の記録をまとめた。
航空発展後援会イベント
スペイン関連講演・展示
1938年晩秋
会場装飾完了
飛行機模型、一機吊下げ
戦災写真、奥展示
募金箱隣接不可
寄付者分類、当事務所では実施せず
追加事故なし
ユンゲは少し迷ってから、最後に一行を書いた。
空を飾りすぎず
エルゼが横から見た。
「感想ですか」
ユンゲはペンを置いた。
「記録です」
エルゼは少しだけ口元を動かした。
「では、記録として残しましょう」
二階では、ヒトラーがまだ壇上幕の縮小見本を見ていた。
「翼が大きすぎた」
フランツは外套を脱ぎながら言った。
「本番では小さくしました」
「最初から小さく描け」
「ゲッベルスさんの案ですから」
「なら最初から大きい」
「そうですね」
「納得するな」
窓の外には、低い空があった。
ミュンヘンの夜は冷え、雲は街灯の光を吸って白く沈んでいる。
遠いスペインの空は、ここからは見えない。
だが、その空の話は、今日、会館の天井に吊られていた。
一機だけの模型。
抑えた壇上幕。
奥へ下げられた戦災写真。
出口手前の募金箱。
空を飾りすぎず。
フランツは、ユンゲの受付簿に書かれたその一行を見た。
それが十分だったのかはわからない。
募金は集まった。
演説は拍手を浴びた。
新聞は明日、ゲーリングの言葉を大きく載せるだろう。
スペインの町で落ちた屋根は、戻らない。
ドイツの技術がどこまで届いたのか、誰もはっきり言わない。
ただ、この事務所の会場では、壊れた町の写真は入口に置かれなかった。
飛行機は三機ではなく、一機だった。
空は、飾られすぎなかった。
それだけだった。
ヒトラーは窓の外を見て、低く言った。
「空は広すぎる」
フランツが聞き返す。
「何ですか」
「広すぎるものを飾るな。飾り始めると、きりがない」
それから彼は、赤鉛筆を机の上に置いた。
その赤は、今日は空には使われなかった。
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