第30話 回廊の幅
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1939年の最初の朝、ミュンヘンの通りには、昨夜の紙くずと火薬の匂いが残っていた。
大晦日の騒ぎは、夜のうちに街をひと通り揺らしていった。爆竹の破片、湿った赤い紙、黒く焦げた筒、割れた酒瓶の小さな欠片が、石畳の端に寄っている。店の鎧戸はまだ閉じ、窓辺には新年の飾りが少しだけ残っていた。
幸運の豚。
四つ葉。
煙突掃除人の小さな人形。
金色に塗られた紙の蹄鉄。
アドルフ・ヒトラーは、それらを好きではなかった。
嫌いというほどではない。
ただ、どれも小さすぎる。
小さすぎるものを窓辺に並べると、窓そのものが貧しく見える。
彼の自宅には、そうした飾りはなかった。
事務所から歩いて十分ほどの古い集合住宅、その二階にある部屋である。広くはない。寝台、机、本棚、椅子、湯沸かしの小さな台、古い外套掛け。壁には額も飾りも少ない。窓辺には、昨日買ったりんごが一つ置かれていた。
机の端には、仕事用ではないスケッチブックがあった。
現場へ持っていく図面帳ではない。
依頼主へ見せるものでもない。
窓枠、古い扉、食堂の卓、映画館のロビー、りんごの形、通りの角、そして描きかけの横顔。
失敗の保管。
ヒトラーは一度、そう呼んだことがある。
その朝、彼は黒パンを薄く切り、ゆで卵を一つ皿に置き、鉱泉水の瓶を開けた。外では遠くの子供が、残った爆竹を鳴らしている。乾いた音が一度、通りの壁に当たって跳ね返った。
ヒトラーは顔をしかめた。
「新年を祝う音ではない。失敗した砲撃だ」
返事はない。
彼は一人で食べた。
黒パンは固い。悪くない。卵は少し冷えすぎている。水はよい。りんごはまだ切らない。朝から甘いものを入れると、味の順序が乱れる。
外の鐘が鳴った。
元日の朝らしく、街は遅く動いていた。馬車も少ない。通りを歩く人々も、昨夜の疲れを肩に残している。窓の下で、誰かが笑った。酒の残った笑い方だった。
ヒトラーは黒パンを食べ終え、皿を片づけようとした。
その時、扉が叩かれた。
一度ではない。
几帳面に三度。
彼は動きを止めた。
元日の朝に、三度叩く者。
よい予感はしなかった。
「誰だ」
扉の向こうから、落ち着いた声がした。
「ヒムラーです」
ヒトラーは目を閉じた。
新年早々、最悪の分類が来た。
彼はしばらく黙っていた。扉の向こうも黙っていた。こちらが開けるまで待つつもりなのだろう。その待ち方が、また腹立たしい。
ヒトラーは扉を開けた。
ハインリヒ・ヒムラーは、きちんとした外套を着て立っていた。手には小さな包みと、黒い書類鞄がある。帽子には雪ではなく、昨夜の煙を含んだ湿気がついていた。
「新年おめでとうございます」
「めでたいかどうかは、午後まで待て」
「失礼します」
「まだ入れとは言っていない」
「では、入ってよろしいでしょうか」
「その鞄は何だ」
「新年の案件です」
ヒトラーは扉を閉めようとした。
ヒムラーは包みを差し出した。
「まずは、ご挨拶を」
「何だ」
「幸運の豚です」
ヒトラーは包みを見た。
中には、薄桃色の小さなマジパンの豚が入っていた。背中に四つ葉が乗っている。丸く、甘そうで、どうにも不快だった。
「朝から机に豚を置くな」
「幸運の象徴です」
「菓子か」
「はい」
「ならなお悪い。甘い豚だ」
ヒムラーは微笑んだ。
「では、後ほど」
「後ほどもない」
それでもヒトラーは扉を開けたままにした。
ヒムラーは中へ入った。
部屋に入ると、彼は一瞬だけ室内を見た。寝台、机、本棚、外套、スケッチブック。見るというより、分類するような目だった。
ヒトラーはそれに気づいた。
「部屋を見るな」
「整っています」
「評価するな」
「失礼しました」
「本当に失礼だと思ってから言え」
ヒムラーは椅子の前に立った。
「座ってよろしいでしょうか」
「短く済むなら立て」
「長くなります」
「なおさら立て」
ヒムラーは立ったまま、鞄を開けた。
書類が出てきた。
地図が出てきた。
封筒が出てきた。
丸められたポスター案が出てきた。
ヒトラーはそれを見て、朝の静けさが死んだことを理解した。
「新年に書類を持ち込むな」
「本年最初の案件としては、ふさわしい規模です」
「規模の大きさは、ふさわしさではない」
「ベルリンです」
ヒトラーは黙った。
ヒムラーは、その沈黙を待っていたように続けた。
「東方交通・通商連絡展。商工会、鉄道関係、外務省筋が関わります。ポーランド大使館の商務官も会場を見る予定です」
「名前が長い」
「長い名前の案件ほど、予算があります」
「その言い方はエルゼにだけ通じる」
「もちろん、正式な見積もりはエルゼさんを通します。ですが、まず所長にご判断いただきたい」
「判断なら今できる。元日に来るな」
ヒムラーは、まったく傷つかなかった。
「所長の仕事は、もはやミュンヘンの範囲には収まりません」
「収める場所を決めるのは客ではない」
「しかし、呼ばれています」
「誰に」
「ベルリンに」
ヒトラーは不機嫌そうに窓の外を見た。
ベルリン。
あの街は好きではない。
幅が広すぎる。
建物が背伸びしている。
通りが人間より先に威張っている。
首都なら背筋を伸ばせばよい。背伸びをする必要はない。
だが、呼ばれているという言葉には、少しだけ引っかかった。
それをヒムラーは見逃さなかった。
「東プロイセンの連絡問題を扱います」
「政治案件か」
「表向きは商業と交通です」
「表向きと言うな」
「実際にも、商業と交通です。鉄道、港湾、通関、農産物、工業製品、郵便連絡、旅客案内」
「裏は」
ヒムラーは地図を広げた。
西にドイツ本土。
東に東プロイセン。
その間にポーランド。
北にはバルト海。
ダンツィヒは特別な印で囲まれている。
ヒトラーは地図を見下ろした。
「ドイツが切れている」
「東プロイセンはドイツ領です。しかし本土とは地続きではありません」
「間はポーランドか」
「はい。いわゆる回廊です」
「いわゆる、を付けるな。名付けた者の不満が匂う」
ヒムラーは少し嬉しそうに頷いた。
「その不満を、展示として整える必要があります」
「整えるのは展示だ。不満ではない」
「もちろんです」
ヒトラーは地図から目を離さなかった。
東プロイセンは、紙の上では近い。
だが、紙の近さは列車の近さではない。
線一本で隣に見える場所も、実際には国境、通関、警戒、誤解、感情を通らなければならない。
ヒムラーは別の紙を開いた。
「こちらが、ゲッベルス広告社から届いたポスター案です」
ヒトラーの眉が動いた。
「本人は来ないのか」
「今回は案のみです」
「紙だけでうるさいのか」
「ご確認ください」
丸められたポスターが机の上に広げられた。
大きな赤い矢印が、ベルリンから東へ伸びていた。ポーランド領を真っ直ぐ貫き、東プロイセンへ突き刺さっている。矢印は太く、影までついていた。上部には大きな文字。
東へ、途切れぬ道を。
ヒトラーは一目見て言った。
「これは道ではない」
ヒムラーは静かに尋ねた。
「では?」
「槍だ」
彼はポスターの端を指で押さえた。
「新年早々、地図に槍を置くな」
「力強い表現です」
「力しかない表現は、広告ではなく脅迫だ」
「ゲッベルス氏は、分かりやすさを重視したのでしょう」
「分かりやすすぎるものは、時々暴力になる」
ヒムラーは書類に何かを記した。
ヒトラーはそれを睨んだ。
「今、何を書いた」
「所長所見です」
「私の言葉を分類するな」
「では、保留とします」
「それも分類だ」
ヒムラーはポスターを巻き戻した。
「ベルリンで、現地調整が必要でしょう」
「誰が行く」
「所長が」
「なぜだ」
「ベルリン案件ですので」
「ベルリンならベルリンの業者を使え」
「彼らは地図を飾りすぎます」
「我々も飾る仕事だ」
「所長は、飾りすぎる時に止めることができる」
ヒトラーは返事をしなかった。
ヒムラーはさらに言った。
「商工会館での国境展示を見た者がいます。航空発展後援会の会場も、ベルリンの関係者の目に留まりました。政治的に危うい展示を、会場として成立させた。その評価です」
「危うい展示を持ってくるな」
「持ってこなくても、向こうから来ます」
その言い方は嫌だったが、間違ってはいなかった。
ヒトラーは地図を畳まなかった。
「エルゼを通せ」
「もちろんです」
「移動費、宿泊費、輸送費、現地職人費、すべて別請求だ」
「承知しています」
「承知している客ほど、あとで渋る」
「私は客ではなく、紹介者です」
「もっと悪い」
ヒムラーは、机の上に幸運の豚を置こうとした。
ヒトラーは即座に止めた。
「置くな」
「では、どちらへ」
「持って帰れ」
「幸運を?」
「豚をだ」
ヒムラーは包みを戻した。
「では、事務所へお届けしましょう」
「届けるな」
「ユンゲさんなら、受付に置く場所を考えてくださるかと」
「受付を豚小屋にするな」
ヒムラーは帽子を取った。
「では、本日はこれで」
「元日に来たことは忘れんぞ」
「記憶に残るご挨拶になり、光栄です」
「光栄にするな」
ヒムラーが去ると、部屋は急に静かになった。
だが、静けさは戻らなかった。
机の上には、地図の跡が残っている。紙を広げた時の折り目が、まだ目に見えるようだった。ベルリン。ポーランド。東プロイセン。ダンツィヒ。回廊。赤い矢印。
ヒトラーはしばらく立っていた。
窓の外で、また爆竹が鳴った。
彼は低く言った。
「槍の音だ」
その日の午後、ヒトラーは事務所へ行った。
事務所の入口には鍵がかかっていた。
ヒトラーが鍵を開けようとすると、ビルの管理人がやって来て声をかけた。
「ヒトラーさん、午前中にお届け物です。眼鏡の紳士が置いていかれました」
包みを受け取り事務所に入る。中には薄桃色のマジパンの豚が入っていた。
四つ葉を背負っている。
「本当に届けたな」
誰もいない受付に向かって言った。
返事はない。
彼は包みをつまみ、受付机の端へ移した。中央には置かない。窓から見える位置にも置かない。客が来た時に最初に豚を見るような受付は、受付ではない。
それから二階へ上がった。
事務所の机の上には、昨年から残った見本があった。航空発展後援会の壇上幕の縮小案。東方国境の生活展で使った地図筒。フランス大会向けのポスター修正紙。レヴィン菓子商会の包み紙の見本。ベルナドッテ商会の椅子配置図。
どれも紙だった。
紙の上では、世界はよく整う。
だから危ない。
ヒトラーは机の前に座り、ヒムラーが置いていった地図の写しを広げた。
東プロイセンは、遠くにある。
ドイツ領でありながら、ドイツ本土からは切り離されている。間にはポーランド領があり、ポーランドにとってはバルト海へ出る大事な通り道だった。ダンツィヒは自由市として、どちらのものとも言い切れない顔をしている。
同じ場所を、ドイツ側は切断と呼ぶ。
ポーランド側は出口と呼ぶ。
鉄道関係者は連絡と呼ぶ。
商工会は通商と呼ぶ。
地政学者は回廊と呼ぶ。
広告屋は矢印にする。
ヒトラーは赤鉛筆を手に取った。
しばらく考え、地図の上に線を引こうとして、やめた。
赤は強すぎる。
彼は黒鉛筆に持ち替えた。
一本の太い線ではなく、細い線をいくつも引いた。
旅客。
貨物。
郵便。
港湾。
通関。
農産物。
工業部品。
旅券手続き。
東プロイセンから来る穀物。
ポーランドから来る木材と繊維。
ダンツィヒの倉庫。
地図は少しずつ、命令ではなく手続きに近づいた。
三日後、事務所は通常通り動き始めた。
ユンゲは受付机の端にあるマジパンの豚を見つけた。
「これは何ですか」
ヒトラーは二階から言った。
「知らん」
エルゼが包みを見た。
「ヒムラー氏ですね」
「なぜわかる」
「この種の余計な丁寧さは、だいたいそうです」
フランツが覗き込んだ。
「幸運の豚ですか」
「受付に豚を置くな」
ユンゲは少し考えた。
「では、帳簿棚の上に」
「帳簿棚も豚小屋ではない」
エルゼは淡々と言った。
「食べれば消えます」
ヒトラーは顔をしかめた。
「朝から甘い豚を食うな」
「では午後に」
「午後ならよいとは言っていない」
しかし、豚は午後には消えた。
誰が食べたのかは、誰も言わなかった。
ベルリン行きは決まった。
同行するのは、ヒトラー、フランツ、ユンゲ、クレープス。エルゼはミュンヘンに残り、見積もりと契約の全体を握る。ブルクドルフは現地搬入の必要があれば後から呼ぶ。カイテルはベルリン側の会館担当者と連絡を取ることになった。
列車に乗る朝、ミュンヘン駅は冷えていた。
ホームには旅行鞄を持った客、軍服の男、商人、新聞売り、駅員がいた。湯気と石炭の匂いが混じっている。ユンゲは書類鞄を胸に抱え、フランツは図面筒を持ち、クレープスは測量道具の入った箱を足元に置きヒトラーを待っていた。
そしてヒトラーはやって来るなり列車を見て言った。
「窓の高さが半端だ」
フランツは帽子を取った。
「おはようございます、所長」
「挨拶で窓は直らん」
「まず挨拶を直したかったんです」
ユンゲは小さく笑いそうになったが、こらえた。
列車が動き出すと、ミュンヘンの屋根は後ろへ下がった。
冬の平野が続く。畑は固く、木々は葉を落とし、遠くの村は煙突だけが目立った。ヒトラーは膝の上に地図を置いていた。窓の外ではなく、紙の上を見ている。
フランツが向かいに座り、しばらくして言った。
「所長」
「何だ」
「東プロイセンは、地図で見ると近いですね」
「地図は近づけるための道具ではない。離れていることを隠すこともある」
「今回は、それを見せるんですか」
「見せすぎてもいけない」
「どういうことですか」
ヒトラーは地図の細い場所を指した。
「片方には、ここが切断に見える。もう片方には、出口に見える」
「同じ場所なのに」
「同じ場所だからだ」
フランツは黙った。
ヒトラーは続けた。
「同じ扉を、外から見る者は入口と呼ぶ。中から見る者は出口と呼ぶ。扉は同じだ。名前が違う」
ユンゲがそれを書き留めようとした。
ヒトラーはすぐに気づいた。
「書くな」
「覚えるためです」
「覚えすぎるな」
「忘れるよりは」
「忘れた方がよい言葉もある」
ユンゲはペンを止めた。
だが、紙にはすでに「入口と出口」と小さく書かれていた。
ベルリンは、ミュンヘンより乾いていた。
駅は広く、人の流れも速い。靴音が硬い。看板は大きい。建物は堂々としているが、どこか自分の堂々さを見せつけているようだった。
ヒトラーは駅舎の正面を見て言った。
「この街は背伸びしたがる」
フランツが言った。
「首都ですから」
「首都なら背筋を伸ばせ。背伸びするな」
会場はウンター・デン・リンデンに近い、商工団体と鉄道関係が使う大きな建物だった。入口には石の柱があり、内側の床は磨かれすぎていた。天井は高い。高すぎる。声が逃げる。
会館担当者は、細い口髭の男だった。
「遠路ありがとうございます。ベルリンへようこそ」
ヒトラーは天井を見たまま言った。
「声が上へ逃げる」
担当者は戸惑った。
「は?」
「講演をするなら、背面幕を下げろ。高い天井に言葉を吸われる」
「はあ」
ユンゲがそっと補った。
「会場音響の確認です」
「なるほど」
会場の中広間には、すでに仮の展示物が運び込まれていた。
地図。
鉄道路線図。
港湾写真。
穀物袋。
石炭。
木材見本。
織物。
通関書類の見本。
旅券手続きの説明板。
そして中央に、巨大な地図が置かれていた。
赤い矢印が一本、ドイツ本土から東プロイセンへ伸びていた。
ゲッベルス広告社の案を、誰かがそのまま立体化しようとしている。
ヒトラーは立ち止まった。
「誰がこれを置いた」
会館担当者が答えた。
「鉄道側の仮案です。東プロイセンへの連絡を分かりやすく示すために」
「示しているのではない。突き刺している」
その場にいた数人が黙った。
その沈黙の中で、一人の男が近づいてきた。
背は高くない。落ち着いた灰色の背広を着ている。髪はきちんと撫でつけられ、手には革の手帳を持っていた。彼は丁寧に名乗った。
「スタニスワフ・コヴァレフスキ。ポーランド大使館の商務官です」
彼のドイツ語は流暢だった。少し硬く、しかし崩れない。
ヒトラーは軽く会釈した。
「ヒトラー。意匠事務所だ」
コヴァレフスキは地図を見た。
「ドイツの方々には、この線は連絡路に見えるのでしょう」
「そうらしい」
「ですが、我々には、それが我々の国土を踏み越える線に見えることがあります」
ヒトラーは赤い矢印を見た。
「線が強すぎる」
コヴァレフスキは静かに言った。
「強すぎる線は、時に約束ではなく命令に見えます」
ヒトラーはその言い方が気に入らなかった。
気に入らなかったが、展示の言葉としては正しかった。
彼は会館担当者に言った。
「外せ」
「ですが、中心展示として」
「中心に槍を置くな」
鉄道側の男が口を挟んだ。
「これは槍ではありません。線です」
「太すぎる線は槍になる」
「東プロイセンへの連絡を訴える必要があります」
「訴えることと、相手の胸に刺すことは違う」
ヒムラーがいつの間にか会場に来ていた。
「所長。代案は」
「一本線をやめる」
「では、弱くなります」
「弱くしろとは言っていない。分けろと言っている」
ヒトラーは地図の前に立ち、黒鉛筆を取った。
「旅客線。貨物線。郵便。港湾。通関。農産物。工業部品。これを分けて見せる」
鉄道側の男が言った。
「複雑になります」
「現実が複雑なのだ。簡単にする場所を間違えるな」
コヴァレフスキは何も言わなかった。
だが、その無言は、先ほどの無言とは違っていた。
ヒムラーは別の書類を出した。
「補助資料として、ドイツ系住民分布図、言語別居住区域、通過権確保対象、交通阻害要因、将来調整地域の表示を」
エルゼはいなかった。
だが、ユンゲが即座に言った。
「商業連絡展です」
ヒムラーは彼女を見た。
「商業は人の配置と切り離せません」
ユンゲは一瞬だけ迷ったが、きっぱり言った。
「人の分類は、当事務所の業務外です」
ヒトラーは地図を見たまま言った。
「色を塗りすぎるな。地図が発疹を起こしている」
ヒムラーは眼鏡の奥で目を細めた。
「では、参考資料として控室へ」
「客の目に入れるな」
「関係者には」
「客より危ない関係者もいる」
ヒムラーは書類を下げた。
ユンゲは受付簿ではなく、出張用の記録帳に書いた。
ドイツ系住民分布図
展示対象外
控室資料も要確認
その後の二日間、会場は何度も組み替えられた。
巨大な赤い矢印は撤去された。
代わりに、中央には大きな地図ではなく、低い展示台が置かれた。そこには鉄道模型、通関書類、貨物札、駅名板、港湾倉庫の写真、小さな貨物箱が並んだ。
ドイツ本土から東プロイセンへ行く旅客の手順。
貨物がポーランド領を通過する時の書類。
ダンツィヒ港を使う場合の流れ。
郵便袋の経路。
農産物の出荷例。
工業部品の輸送例。
線は一本ではない。
細く、短く、何度も折れ、駅や窓口や倉庫で止まる。
ヒトラーはそれを見て言った。
「通ることを見せろ。奪うことを見せるな」
鉄道側の男は不満そうだった。
「訴求力が弱い」
「訴求力という言葉を使う者は、だいたい押しすぎる」
「しかし、連絡の重要性が」
「重要なら、なおさら乱暴に見せるな」
コヴァレフスキは、通関書類の展示を見て言った。
「これなら、ポーランド側の手続きも見えます」
ヒトラーは答えた。
「手続きは面倒だ。だから見せる」
「面倒だからこそ、隠したくなるのでは」
「隠すと、後で怒鳴る者が出る」
コヴァレフスキは少しだけ笑った。
「それは、どちら側にもいます」
「どちら側にもいるから、通路の幅が要る」
「幅ですか」
ヒトラーは会場の床を指した。
「狭すぎれば、すれ違う時に肩が当たる。広すぎれば、誰かが自分の場所を取られたと思う。通路は広ければいいわけではない」
コヴァレフスキは地図を見た。
「国境も?」
ヒトラーはすぐに不機嫌になった。
「私は国境を引かん。会場の通路を引く」
「ですが、似ています」
「似ているから厄介なのだ」
会期前夜、ゲッベルス広告社から修正案が届いた。
相変わらず文字は大きかった。矢印は小さくなっていたが、まだ赤かった。見出しは変更されている。
東へ、途切れぬ連絡を。
ヒトラーは紙を見て言った。
「まだ強い」
フランツが聞いた。
「どこを直しますか」
「矢印をやめろ」
「矢印なしで、連絡を示せますか」
「駅名を置け。時刻を置け。矢印は急がせる。時刻表は待たせる」
クレープスがすぐに書き直した。
ベルリン。
ポーゼン。
ダンツィヒ。
ケーニヒスベルク。
通関。
乗換。
貨物確認。
郵便連絡。
赤は消えた。黒と青の細い線になった。
ポスターは少し地味になった。
だが、槍ではなくなった。
会期当日、ベルリンの空は白く曇っていた。
会場には、商工会の男たち、鉄道関係者、外務省筋、新聞記者、東プロイセン関係者、ポーランド大使館の人々、ダンツィヒ自由市の関係者が集まった。
笑顔は多かった。
温かい笑顔は少なかった。
ドイツ側の来場者は、地図を見て「もっとはっきり示すべきだ」と言った。ポーランド側の一人は、港湾展示を見て「我々の権利が薄く見える」と言った。鉄道担当者は、通関展示の前で「手続きが煩雑に見えすぎる」と言った。商工会は、農産物展示の位置が地味だと文句を言った。
ヒトラーはそのたびに顔をしかめた。
「全員が少し不満なら、配置は悪くない」
フランツは言った。
「それは基準ですか」
「会場の基準だ。全員が満足する展示は、たいてい誰かが嘘をついている」
コヴァレフスキは、中央の低い展示台の前で足を止めた。
そこには一本の大きな線ではなく、複数の小さな経路が並んでいた。客は地図を見下ろすだけではなく、書類を読み、札を見て、駅名を追い、港湾写真へ移る。
彼は静かに言った。
「これは、主張というより説明ですね」
ヒトラーは言った。
「展示だ」
「説明も展示ですか」
「説明しない展示は、飾りだ」
「飾りも大事でしょう」
「飾りすぎると、嘘になる」
コヴァレフスキはしばらく展示台を見ていた。
「完全には同意できません」
「同意するための会場ではない」
「では?」
「衝突せずに歩くための会場だ」
コヴァレフスキは、初めて少しだけはっきり笑った。
「それなら、悪くありません」
会場の奥では、ヒムラーが関係者と話していた。
彼はまだ、分類資料を諦めていない顔をしていた。だが、少なくとも会場の壁には貼られていない。客の目に入るのは、人の分布ではなく、物と手続きの流れだった。
ユンゲは記録帳に書いた。
東方交通・通商連絡展
ベルリン
鉄道・港湾・通関・農産物・工業製品展示
東プロイセン連絡説明
大矢印案、撤去
赤色強調、縮小
ドイツ系住民分布図、展示対象外
ポーランド大使館商務官より地図表現修正要望
通路幅、再調整
追加衝突なし
彼女は少し考え、最後に一行を加えた。
線は通路として扱う
フランツが横から覗いた。
「感想ですか」
ユンゲは首を振った。
「作業指示です」
その日の夕方、展示は大きな拍手もなく終わった。
だが、怒鳴り合いもなかった。地図の前で人が詰まることはあったが、肩がぶつかる前に流れた。ポスターの前で足を止める者はいたが、赤い槍を見上げる者はいなかった。
ベルリンの関係者は「実務的」と言った。
鉄道側は「やや弱い」と言った。
ポーランド側は「少なくとも一方的ではない」と言った。
ヒムラーは「次回は補助資料の扱いを」と言いかけ、ヒトラーに睨まれて黙った。
帰りの列車は夜だった。
ベルリンの灯りが後ろへ流れ、窓の外はすぐに黒くなった。車内には石炭の匂いと、革張りの座席の匂いがある。ユンゲは記録帳を閉じ、クレープスは眠っていた。フランツは向かいで、会場図の写しを眺めている。
ヒトラーは膝の上に地図を置いていた。
東プロイセンは、紙の上ではやはり近い。
だが、線一本では近づかなかった。
フランツが小声で聞いた。
「所長、あの展示で関係は良くなるでしょうか」
「展示で国境は動かん」
「では、意味は」
ヒトラーは窓の外を見た。
「人が通路で殴り合わなかった」
「それだけですか」
「通路では、それが大事だ」
フランツは地図を見た。
「でも、外では」
「外でも同じならよい」
「同じでなければ?」
ヒトラーは答えなかった。
列車は暗い平野を走った。
遠くに小さな駅の灯りが見え、すぐに消えた。
どこかで線路が分かれ、また別の線と合流する。
人はそれを路線図では簡単に描く。
だが、実際の線路には枕木があり、駅があり、信号があり、待つ時間がある。
ヒトラーは地図を畳んだ。
「線は、通る者がいて初めて道になる」
フランツは聞いた。
「通れなければ?」
「傷になる」
車輪の音が続いた。
ベルリンで消した赤い矢印は、紙の上からは消えた。
だが、それが世界から消えたかどうかは、誰にもわからなかった。
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