第三章から第四章あたりのミツルとお母さん茉凛

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/11 📚 シリーズ: 短編・番外編 📝 5,011文字 ✅ 全年齢

あらすじ

短編置き場です。

本文

夜の部屋は、ランプの火をひとつだけ残して、静かに沈んでいた。

 窓の外では、草むらの虫が細く鳴いている。昼の熱を失った石壁からは、湿った冷えが少しずつ滲み、寝台の白い布だけが、ほのかに体温を抱いてやわらかく光っていた。

 膝の上に置いた白きマウザーグレイルは、薄明かりの中でひどく静かだった。

 けれど、その静けさの内側に、茉凛がいる。

 そのことだけで、胸の奥に残っていた硬いものが、ゆっくりほどけていく。誰かと話す前に、言葉を選ばなければならない。間違えたらいけない。笑われたくない。そういう小さな緊張が、茉凛の前では少しだけ薄くなる。

 わたしは鞘の縁に指を添えた。

 金属は冷たかった。けれど、内側から返ってくる気配は、いつものように少しだけ騒がしくて、あたたかい。

 だからだろうか。

 ずっと奥に沈めていた言葉が、喉の近くまで上がってきた。

「ねえ、茉凛」

うん?

 すぐ返ってくる声に、胸の奥が小さく揺れた。

 返事が早い。

 それだけで、泣きそうになる日がある。そんなことを言ったら、茉凛はきっと笑うだろう。笑って、それから、少しだけ黙る。

 その黙り方まで、わたしはもう知っている。

「わたし、人を好きになるって、よくわからないの」

うん

「誰かと近くにいるとか、触れ合うとか、そういうのも……あまり、慣れてなくて。自分がどう思っているのかも、考えないで済ませてきた気がする。考えたら、余計にわからなくなるから」

 言いながら、指先に力が入った。

 白い鞘の縁が、爪の下へかすかに食い込む。痛いほどではない。けれど、そこに触れていないと、言葉が途中で散ってしまいそうだった。

「でも、茉凛だけは違ったの。最初から、少し変だった。一緒にいると落ち着くのに、どきどきもして、返事があるだけで嬉しくて……ああ、わたし、この子のこと好きなんだって、そう思った」

……うん

「でも、それが何の好きなのかは、いまでもよくわからない。女の人が好き、っていうのとも違う気がする。男の人のことも、嫌いなわけじゃない。でも、好きとか、そういうふうに考えたことはないの。お父さんみたいに安心する人はいるけど、それはたぶん、恋とは違うでしょう? 同じ年頃の人のことも、あまり見てこなかったし」

 そこまで言って、息が詰まった。

 自分で言った言葉なのに、ひとつひとつが部屋の中へ落ちて、逃げ場を塞いでいくようだった。好き。恋。安心。親愛。どの言葉も、手に取ると形が違う。なのに胸の奥では、全部が同じ場所に触れていた。

 わたしは鞘を見下ろした。

「……おかしいかな、わたし」

 声は、小さくなった。

 おかしい、と言われるのが怖かったのではない。むしろ、自分でずっとそう思ってきたから、誰かの声でそれを聞くのが怖かったのだと思う。

 茉凛は、すぐには答えなかった。

 その短い沈黙が、かえってやさしかった。

おかしいって決めなくていいんじゃない?

「……いいの?」

だって、美鶴、まだ自分の気持ちの名前を探してる途中なんでしょ。好きって思えたことと、それが恋なのか、親愛なのか、安心なのか、ぜんぶ今すぐ仕分けできることとは、別だと思うよ

 胸の奥へ、ゆっくり水が落ちていくようだった。

 おかしい、と言われなかった。

 それだけで、喉の奥が熱くなる。けれど、それをそのまま泣き声にするのは悔しくて、わたしは鞘を抱く腕へ少しだけ力を込めた。

「茉凛は、簡単に言うのね」

簡単じゃないって。わたし、こう見えてけっこう真剣に言ってるよ

「剣だけに?」

それ、ダジャレのつもりかい!

「あ、ごめん……」

ま、たしかにいまは剣の中だからね。だからこそだけど、たまには重みのあることも言うんだよ

 いつもの調子だった。

 軽くて、少しふざけていて、でも逃げてはいない。茉凛のそういう声を聞くたび、わたしは呼吸の仕方を思い出す。

 白い剣の内側で、彼女が肩をすくめたような気配がした。

でもさ、美鶴がそういうこと考えられるようになったの、悪いことじゃないと思うよ。いままで、考える余裕もなかったんじゃない?

「余裕か……」

うん。生きるだけで精いっぱいだったり、待つだけで精いっぱいだったり、探すだけで精いっぱいだったり。そういう時って、自分が何を好きかなんて、後回しになるもんじゃない?

 後回し。

 その言葉は、妙に胸に残った。

 たしかに、ずっとそうだったのかもしれない。父の名を掲げて、誰かが足を止めるのを待っていた。母のことを探していた。知らない世界で、知らない身体で、平気な顔をしようとしていた。

 好き、という言葉は、たぶんそのずっと後ろに置いていた。

 置いていたことにさえ、気づかないふりをして。

「でも、それでも、わたしは茉凛から離れたくない」

 それは、考えて選んだ言葉ではなかった。

 息の底からそのまま出てきた。出してから、しまった、と思った。けれど引っ込めることはできない。鞘を抱く腕に力が入り、白い剣が胸の骨にかすかに当たる。

 冷たいはずの金属が、痛いほど近かった。

離れなくていいよ

 あまりにもすぐに言われて、わたしは息を止めた。

「……ほんとう?」

うん。美鶴がわたしを大事に思ってくれるの、すごく嬉しい。そこは疑わなくていい

 嬉しい。

 その言葉に、胸の奥が少しだけ明るくなった。

 けれど茉凛の声は、そこでふっとやわらかく沈んだ。

でもね、それと、美鶴の世界がわたしだけになることは、別だよ

 指先が固まった。

 わかっていた。茉凛がそう言うことは、どこかでわかっていた。彼女はいつも近くにいる。すぐ返事をくれる。わたしの冗談にも、弱音にも、無理にも、呆れながらつきあってくれる。

 なのに、いちばん奥へ手を伸ばすと、ふいに一歩だけ引く。

 わたしが、茉凛だけを世界にしないように。

 それがわかるから、余計に苦しかった。

「どうして?」

どうしてって

「茉凛がいるなら、それでいいのに。それだけでわたしは――」

だめだよ

 やさしいのに、きっぱりした声だった。

 そのきっぱりしたところが、少し憎らしかった。茉凛はわたしを甘やかす。甘やかしてくれる。けれど、いちばん甘えてしまいたい場所では、わたしが倒れ込む前に、ちゃんと膝を立てさせようとする。

 それが、茉凛のやさしさなのだと知っている。

 知っているのに、いやだった。

「だめ、なの?」

だめ。美鶴は、ちゃんと美鶴の足で立てるようにならなきゃ

「わたし、立ってるじゃない」

かような屁理屈、今はいりませぬぞ、美鶴殿

「屁理屈じゃないわよ」

はいはい。じゃあ言い換える。美鶴は、わたし以外のひとを好きになってもいいし、別の場所で安心してもいいし、わたしがそばにいない時でも息ができるようになっていいの

 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

 わたしがいなくても。

 その言葉は、やさしい形をしているのに、刃物みたいに冷たかった。

「そんなの、嫌よ」

うん。嫌だよね

「わかってるなら、言わないでよ」

わかってるから言うんだよ

 ランプの火が、ぱち、と小さく音を立てた。

 焦げた油の匂いがかすかに鼻を掠める。わたしは息を吸ったのに、肺の途中で空気が止まってしまった。

 茉凛が消える。

 考えたくないことは、考えた瞬間に形を持つ。形を持てば、もうなかったことにはできない。

「茉凛がいない未来なんて、考えたくない」

うん

「考えたら、本当にそうなるみたいで怖い」

うん

「だから、やめて。お願いだから」

 声が震えていた。

 もう隠せなかった。理屈をまとわせることも、平気なふりをすることもできなかった。ただ、嫌だった。茉凛のいない未来を、幸せという言葉と並べられることが、どうしても嫌だった。

 剣の内側から、茉凛の気配が少しだけ揺れた。

美鶴

 名前を呼ばれただけで、目の奥が熱くなる。

わたしは、いまここにいるよ

「……うん」

いまはいる。美鶴が呼んだら返事するし、泣きそうな顔してたら茶化すし、無茶しそうなら止める。そこは約束する

「うん」

でも、約束ってね、永遠の証明じゃないんだよ。今ここで、できることをちゃんと渡すためのものだと思う

 その言葉は、すぐには飲み込めなかった。

 永遠ではない。

 けれど、今ここにある。

 そういうものを、わたしはどう抱えればいいのだろう。失くすかもしれないものを大事にすることは、怖い。けれど、失くすかもしれないからといって、大事ではないふりをすることも、たぶんもうできない。

「わたし、茉凛に頼りすぎてる?」

頼ってるね。とっても

 即答だった。

 少しだけ腹が立って、涙が引っ込みかけた。

「そこは否定してくれてもよかったんじゃない?」

嘘はよくないでしょ

「ひどい」

でも、頼るのが悪いって言ってるんじゃないよ

 茉凛の声が、ふっと近くなる。

 剣の中にいるはずなのに、まるで隣に腰を下ろして、こちらの顔を覗き込んでいるみたいだった。

頼っていいの。甘えてもいいの。わたしのことを好きでいてくれてもいい。そこは、消さなくていい

 喉の奥が痛くなった。

ただ、その好きで、美鶴自身を閉じ込めないでほしいだけ

「閉じ込める……?」

うん。わたしがいるから大丈夫、じゃなくて、わたしがいてもいなくても、美鶴は美鶴の幸せを探していい。そういうふうになってほしいな

 白い剣の表面に、ランプの火が小さく揺れていた。

 そこに映る光は、わたしの指の震えに合わせて、少しだけ歪んでいる。冷たい金属を抱いているのに、胸の奥だけがひどく熱かった。

「……それでも、わたしの幸せは、茉凛と一緒にいることだよ」

うん。今は、それでいい

「今は?」

今のところは、ね

「ずるい」

ずるくてもいいですー。お姉さんなので

「お姉さんって、あなたそういうこと言う?」

言うよ。美鶴が妹みたいに拗ねてるからね

 思わず、喉の奥で笑いがほどけた。

 笑った瞬間、涙も少しだけ落ちそうになって、わたしは慌てて俯いた。茉凛は何も言わない。ただ、その沈黙の中に、見ているよ、という気配だけがあった。

 それがまた、苦しかった。

 やさしいものは、どうしてこんなに苦しいのだろう。

「茉凛」

なあに

「わたし、いつか、茉凛以外の誰かを好きになるのかな」

なるかもしれないし、ならないかもしれない。こればかりはね

「そんな答えなの?」

そんな答えです。未来って、まだ決まってないから未来なんだよ

「適当すぎ」

適当じゃないよ。すごく大事なところは、まだ空けておいたほうがいいって話

 まだ空けておく。

 その言葉は、部屋の冷えの中で、少しだけあたたかかった。

 わたしはずっと、答えがほしかった。父のことも、母のことも、白い剣のことも、自分の気持ちのことも。答えがあれば、迷わずに済むと思っていた。けれど茉凛は、答えのない場所を、怖がらなくていいと言う。

 好きの名前がわからなくても。

 未来がまだ見えなくても。

 今ここで、離れたくないと思っていても。

「……茉凛は、わたしが変わっても平気?」

平気じゃないかも

 意外な返事に、顔を上げた。

「平気じゃないの?」

そりゃそうでしょ。美鶴が遠くへ行ったら寂しいし、わたし以外の誰かと楽しそうにしてたら、ちょっとむっとするかもしれないし

「そうなの?」

わたし、そんな人間できてないので

 その言い方があまりに茉凛らしくて、胸の奥の硬さが少しだけ緩んだ。

でも、それでもね。美鶴が自分の幸せを見つけたら、わたしは嬉しいと思う。寂しくても、むっとしても、たぶん、ちゃんと嬉しい

「……どうして」

美鶴のこと、だいすきだから

 その一言で、世界が一度、静かになった。

 すき。

 わたしがあんなに持て余している言葉を、茉凛は軽く言った。けれど軽薄ではなかった。呼吸のように、でも嘘のない重さで、そこに置いた。

 わたしは鞘を抱いたまま、しばらく黙っていた。

 窓の外で、夜の風が草を撫でる。

 その音は遠く、けれど茉凛の声だけは、剣の奥からまだわたしの内側に届いていた。

「……わたしも、茉凛がすき。だいすき……」

うん。知ってるよ

「知ってても、聞いて」

はいはい。聞いてます

「ずっと一緒にいたい」

うん

「でも、茉凛が言ったことも、少しだけ考えてみる」

少しだけでいいよ。力んだらだめ

「少しだけね」

うん。無理に欲張らないでいい

 茉凛の声が笑った。

 わたしも少しだけ笑った。

 離れたくないと思うこと。いつか離れるかもしれないと怖がること。茉凛だけが特別で、その特別をどう持っていればいいのか、まだわからないこと。

 そのどれもが、胸の中で混ざっていた。

 好き、と言えば足りない。寂しい、と言っても足りない。怖い、でも足りない。

 けれど、足りないままでも、いまはよかった。

 わたしは白い剣を抱いたまま、初めて、自分の心というものの輪郭に触れていた。

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ひさちぃ

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