前世 秋 夕暮れ

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/18 📚 シリーズ: 短編・番外編 📝 1,446文字 ✅ 全年齢

あらすじ

短編・番外編 - 前世 秋 夕暮れ

本文

夕暮れの石与瀬は、水に溶けた絵の具みたいに、ゆるく滲んでいた。

 軒先に灯がともりはじめる。魚屋の氷、焼き菓子の甘さ、港からの潮気。どれも輪郭をなくして、秋の空気へひとつずつ溶けていく。冷えた風が襟へ入り込んだけれど、頬の火照りを冷ますだけで、痛くはなかった。

 借りものの身体で歩くことにも、もう慣れたはずだった。

 それなのに、横断歩道の手前で白線に落ちた影を見ると、足がためらう。これはわたしの歩幅じゃない。わたしの喉でもない。夕方は、そういうことばかりを、昼より正確に思い出させる。

「弓鶴くん、見て。あそこ、焼き栗はじめてる」

 秋の匂いのなかへ、その声がやわらかく混じった。

 茉凜は少し先で振り返り、ショーウィンドウを指さしていた。夕陽の金が睫毛の先に引っかかって、笑いかける手前の目もとだけが、ふっと明るむ。見つけるつもりなんてないのに、そういう瞬間ばかり、先に目へ入ってしまう。

「……ほんとだな」

 まだ少しだけ低すぎる声が、夕暮れの空気へまぎれていった。

「秋って、風より先に匂いで来る感じしない?」

 もう一度、冷えた空気が抜けた。指先の熱までさらっていくようで、嫌いじゃなかった。火照りも、余計な言葉も、少し黙らせてくれるから。

 けれど、今日それが心地いいのは、季節のせいだけではない。

 隣を歩く気配が、通りを渡る風のたび、ほんの少しだけ近づく。石鹸の匂いに、どこかの店先の甘さが移っている。そんなことを数えてしまう自分が、どうしようもなくて、わたしは視線を前へ戻した。

 信号が変わる。

「ほら、青だよ」

 呼ばれているだけなのに、胸の内側がかすかに震えた。

 横断歩道の白は、夕陽を吸って、もう真白ではなかった。薄い桃と金のあわいみたいな色のなかを、茉凜の影がすこし長く、すこし頼りなく伸びている。追いつこうとした瞬間、秋風が膝の裏をさらりと撫でた。

 気持ちいい、と思った。

 それをそのまま口にするのが、こわい。言った途端、もっと別のものまで透けてしまいそうで。

「……歩きやすいな。今日は」

 前を向いたまま言うと、茉凜の声がほどけた。

「ふふ。なにそれ。素直に『風が気持ちいい』って言えばいいのに」

 喉の奥が、かすかに熱い。

「別に、間違ってないだろ」

「うん、間違ってない。でも、そういう言い方するところ、ほんと弓鶴くんだなあって思って」

 ちがう、と思う。

 弓鶴じゃない。わたしは……。

 けれど、それを声にした瞬間、何もかもが壊れてしまう気がした。弓鶴の時間も、茉凜のまっすぐな眼差しも、ただ並んで歩いていられるこの夕暮れのやわらかさも。

 黙ったまま信号を渡りきると、港の方角から、ひときわ冷たい風が抜けてきた。茉凜が「わっ」と笑って肩をすくめ、その拍子に袖がわたしの腕へかすった。

 寒いとは思わなかった。

「焼き栗、買って帰る? 半分こしようよ」

 いつもの軽さなのに、胸の奥へ落ちると、やけにやさしく響いた。

 同じものを分け合う。それだけのことが、どうしてこんなに眩しいのだろう。

 夕暮れは、もうすぐ夜へ沈む。灯りは増えて、影は濃くなり、空気もあと少しだけ冷えていく。こういう時間は長くは持たない。季節も、身体も、わたしの立っている場所も。

「いいよ」

 返した声は、思っていたよりやわらかかった。

 茉凜がうれしそうに笑って、じゃあ急ごう、と半歩だけ先へ出る。追いかけて足を出した瞬間、秋風が頬を撫でて、さっきよりもずっとやさしく抜けていった。

 風がやさしかったんじゃない。

 茉凜のいる方へ歩いている。ただそれだけで、世界はすこしだけ歩きやすくなっていた。

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ひさちぃ

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