没にした第一話
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あらすじ
短編・番外編 - 没にした第一話
本文
※これは現行本編とは異なる初期構想です。
現在公開している本編とは異なる、初期構想段階の導入案です。当時はもう少しライトノベル寄りに、まず「黒髪のグロンダイル」という少女がどれほど異質に見えるのかを、外部視点から強く印象づけるつもりで書いていました。
本編の設定や人物像とは細部が異なる箇所がありますが、作品がいまの形へ変わる前の痕跡として、短編の没案として残しておきます。
やたらと「冷えた酒」が出てきて、「おや?」と思うところですけど、第二章あたりで、背景の技術がわかります。
◇◇◇
薄霞の向こうで、薔薇色の光がゆっくり褪せていた。空の端には菫の陰が滲み、谷間に沈むエレダンの灯は、まだ火を入れられない宝石のように暗かった。
風は〈北壁〉をかすめ、煤けた岩稜の上を低く渡る。氷礫を含んだそれは、四人の外套の裾を乱し、鎧の継ぎ目や革手袋の隙間へ容赦なく入りこんだ。
先頭のカイルは、道の傾きが少しやわらいだことに気づき、ほんのわずかに肩を下ろした。鈍色のフルプレートは砂と古い血で曇り、背負った大剣の鞘には、今日ついたばかりの傷が白く残っている。
彼は振り返らずに、後ろの足音を聞いていた。ひとつは軽く、苛立つように速い。ひとつはまだ少年めいて、時々立ち止まりたがる。最後のひとつは深く、息の間隔が長い。
「みんな、本当によく踏ん張ったな。お疲れ様」
声だけは、いつものように乾いていた。
「街に戻ったら、景気づけに俺が一杯おごろう。うまい飯と冷えたエールで、疲れなんて吹き飛ばそうじゃないか」
笑ってみせた横顔に、夕陽が薄く貼りつく。大剣に刻まれた傷だけが、その笑みより少し正直だった。
エリスは矢筒の口に指を入れ、残った矢羽根を一本ずつ確かめていた。金の髪に砂が絡み、風が通るたび、彼女は眉を寄せる。指先は冷えて白いのに、唇だけはまだ文句を言うだけの熱を残していた。
「何を言っているのかしら。こんな寂れた僻地で、まともな食事なんて期待できるわけがないでしょう?」
吐き捨てる声の端に、疲労が掠れている。
「……せめて熱い湯浴みでもできれば、多少味気ない食事だって我慢してあげるんだけど。はぁ……早くこの砂埃を洗い流して、さっぱりしたいわ」
彼女の視線は一瞬だけ、谷底の街へ落ちた。湯気の立つ浴槽と清潔な布の白さを思い出したのかもしれない。すぐに目元を細め、砂埃を嫌うように顔をそむける。
その隣で、フィルは掌の中の魔石を夕陽へかざしていた。少年と呼ぶには少し背が伸び、魔術師と呼ぶにはまだ肩が薄い。虹色の芯を持つ石は、傾けるたびに内側の光を変えた。
「今回の収穫は、予想以上に上質だね。これだけあれば、当面の活動資金には困らないと思うよ」
笑い方だけは軽い。けれど魔石を持つ指は慎重で、爪の間には乾いた土が詰まっていた。命を削って掘り出した光は、掌の温度を吸うように冷たかった。
最後尾のレルゲンは、銀白の髭を揺らしながら歩いていた。杖の先が岩を叩く音は、ひとつ遅れて風の中へ消える。額の汗はもう冷え、乾いた喉が小さく鳴った。
「……儂はもう、くたくたじゃわい。一刻も早く宿に着いて、横になりたい。ふかふかの、清潔な寝台でな。それから、冷えた葡萄酒も一杯、きゅーっとやりたいもんじゃ」
誰も笑わなかった。笑うには、肺の奥が冷えすぎていた。
それでも四人は歩いた。小石が靴底の下でからりと転がり、遠くの鳥が一度だけ鳴く。風が草の枯れた穂を擦り合わせる音を聞きながら、彼らはただ、今日を越えたという事実をゆっくり飲みこんでいた。
◇◇◇
中央大陸の北方。小国ケリンに属する辺境都市エレダン。
その名を聞けば、旅慣れた者でも声を低くする。
凍える風。鉛色の雲。陽光がまっすぐ届く日は少なく、街はいつも薄い影をまとっていた。周囲に広がるのは、不毛な岩地と、風に身をねじる枯れ木ばかり。枯れ木はまるで、誰かが立てた墓標のように点在している。
だが、この土地で最も恐れられているのは寒さでも飢えでもない。
魔獣。
どこから湧き、何を求めて徘徊するのか、誰にもわからない。黒紫の硬い体毛。濡れたような鱗。岩を噛み砕く牙。悪夢をいくつも縫い合わせたような姿の奥から、理解不能な敵意だけが放たれていた。
通り過ぎたあとに残るのは、血の跡と、名のわからない残骸だけだった。
それでもエレダンには、人が来る。
魔石があるからだ。
魔獣の体内にのみ宿る希少な結晶体。闇の底で月光を抱いたように、柔らかく光を放つ。魔術師にとっては力の媒介となり、魔道具にとっては心臓にもなる。生活を支える灯であり、争いを呼ぶ火種でもあった。
だから命知らずの冒険者やハンターが、この荒れた土地へ足を踏み入れる。欲望と希望と、明日の宿代。それらが寒風に混ざり、エレダンという街の底で濁った熱を持ち続けていた。
◇◇◇
大地が、揺れた。
最初は靴底に触れた、ほんのかすかな違和だった。カイルが足を止めたとき、道端の小石がひとつ、音もなく跳ねた。
黄昏の空気が、急に薄くなる。誰も言葉を発しなかった。四人の視線が、荒野の向こうへ吸い寄せられる。
地平線が歪んでいた。
灰色の雲の下で、黒紫の影がうねっている。巨大な蛇の腹が地を擦っているようにも、夜そのものがまだ明るい地上へ這い出してくるようにも見えた。
振動が膝へ届く。次に、胸へ届く。遅れて、低い唸りが風の下から浮かびあがった。
「……なんだ、これは……?」
カイルの声は低かった。剣を握るより先に、背中の筋肉が強張る。
影ではない。数えられないほどの魔獣の群れだった。
「ま、魔獣…!? こんな数……信じられない……」
フィルの息が裏返る。掌の魔石が小さく震え、虹色の光が割れた。
「なんでよ!? ギルドの地図じゃ、この辺りに『湧き場』なんてなかったはずよ!?」
エリスの指が弓へ伸びた。けれど矢筒の軽さを思い出した瞬間、その指先が止まる。
「今は考えても仕方ない! 走れ! とにかく逃げるんだ!」
カイルの声が、凍りついた足を叩いた。
「くそっ……! 帰り道でこんな目に……!」
誰かが吐き捨てた言葉は、すぐ地鳴りに呑まれる。
四人は走り出した。継ぎ接ぎの革鎧が鳴り、刃こぼれの剣が腰で暴れる。息を吸うたび、喉が焼ける。背後から迫る黒い群れは、砂塵を巻き上げながら、荒野の凹凸を飲みこんでいった。
心臓の音が大きすぎて、誰の足音なのかもわからない。
「ひっ……! ち、近い…! もうすぐ……!」
エリスが振り返りかける。その肩を、カイルの手が荒く掴んだ。
「見るな! 前だけ見て走れ!」
「数が多すぎる! カイル、どうすれば──!」
フィルの声が風に裂ける。
「考えるな! 足を止めたら終わりだ!」
レルゲンの息は、すでに声になっていなかった。杖の先が何度も岩へ滑る。エリスが足元の石に躓き、カイルが咄嗟に彼女の腕を引いた。そのわずかな乱れを、背後の咆哮が見逃さない。
「走れ……走れっ!」
カイルは自分に向けてうめいた。
脚は鉛になっていた。肺の奥には冷たい針が刺さり、歯の間で砂が鳴る。それでも走るしかない。止まれば、次に聞く音は骨の折れる音になる。
だが、影の先頭がはっきり見えた瞬間、カイルは抗えず足を止めた。
「まずい……! あれは、ダイアーウルフだ!」
黒紫の毛並みを逆立てた巨大な狼の異形が、岩を蹴って迫ってくる。牙は濡れ、爪の先には土が裂けた白い粉がついていた。並の冒険者なら、ひと噛みで終わる。
「奴らは足が速い! このままじゃ確実に追いつかれる! ……どこか、隠れる場所は……」
「そんな場所、どこにもないじゃないの!」
エリスの叫びは正しかった。荒野には、剥き出しの岩肌と舞い上がる砂だけがある。身を押しこめる穴も、盾になる木もない。
カイルは一度だけ、仲間の顔を見た。
エリスの唇は血の気を失い、フィルの目は恐怖で広がっている。レルゲンは肩で息をし、杖を握る手の節が白い。
胸の底に、冷たいものが落ちた。恐怖ではなかった。恐怖より少し固い、諦めに似た形だった。
「……仕方ない。俺がここで時間を稼ぐ! お前たちは、その隙に少しでも遠くへ逃げろ!」
剣の柄を握る。革手袋の中で、指が軋んだ。
「カイル! 何言ってるの、そんなの絶対にだめよ……!!」
エリスの声は悲鳴に近かった。けれど彼女は、彼の背を押し戻すことも、横に並ぶこともできない。息だけが喉で震えていた。
「カイル……」
フィルの声はかすれている。レルゲンは何も言わず、ただ目を閉じかけた。
カイルは片頬だけで笑った。いつもの冗談に見えるように。そう見えてくれと願うように。
「へへっ、気にするな。俺なら大丈夫だ。こんなことで、死んでたまるかよ!」
誰も信じていなかった。
それでも、その嘘にすがらなければ動けなかった。
「いいから行け! 早く! 行くんだ!!」
フィルが弾かれたように走った。レルゲンがよろめきながら続く。エリスは一度だけ振り向き、唇を噛みしめて前を向いた。
「死んだら……絶対に承知しないからねっ!!」
遠ざかる声は、ひどく強がっていた。
カイルは、その声が聞こえなくなるまで耳を澄ませた。背後の地鳴りが、すべてを塗りつぶす。
「……当たり前だろうが」
大剣を抜く。刃に夕陽が鈍く流れた。
「仲間を守って死ぬ、か。ふっ、まあ、悪くはない……」
その言葉が終わる前に、空気が裂けた。
突風。
砂塵が視界を白く塗りつぶし、大地が一度、底から跳ねた。カイルは反射的に腕で顔を覆う。鎧の上からでも、風圧が頬を打った。
「な、なんだとっ!?」
牙を剥いていたダイアーウルフたちが、見えない壁にぶつかったように宙へ放り出されていた。巨体が重さを失い、黒い毛並みが砂の中で裏返る。遠吠えは途中で千切れ、風の奥へ消えた。
カイルは息を呑んだ。
風の中心に、人影があった。
薄い革鎧。華奢な肩。長い黒髪。
少女だった。
砂粒の群れが彼女の周りだけ、妙な角度で逸れていく。髪は風に攫われているのではない。風そのものが、彼女の輪郭を避けているように見えた。
「来いっ! 黒鶴っ!!」
凛とした声が、荒野の冷えた空気をまっすぐ切った。
その声に応えるように、少女の背後で黒い影が立ち上がる。
翼に見えた。
けれど羽ばたきではない。影の奥で空気が押し縮められ、目に見えない圧が地面を低く撫でていく。漆黒の輪郭の先で、金と銀の微細な光が、星屑のように瞬いた。
一歩、踏みしめる。砂が外へ弾かれる。もう一歩。ダイアーウルフたちの唸り声が低く揺らぎ、前へ出る足が止まった。
その指が、腰の剣へ伸びる。
鞘の隙間から、白い光が細く漏れた。月光に似ているが、月より冷たい。ロングソードに匹敵する長さの刀身を、彼女は少しの重みも感じていないように抜き放つ。
夜闇の輪郭を背負い、白い剣を掲げる小さな姿。
カイルの喉が詰まった。美しいと思う前に、膝の奥が冷える。あれは助けなのか。災いなのか。判じる言葉を、彼はまだ持たなかった。
白き剣の光が、荒れた大地へ細く走る。
カイルは叫んでいた。
「危ない! 逃げろっ!」
警告は、すぐ風にほどけた。
「場裏じょうり・白、全周展開……爆裂の盾ブラスト・シールド!」
その周囲に、白く輝く微粒子が集まる。球体というより、幾つもの薄い膜が重なったようだった。小さな衛星のように浮かんだ光が、静かに震えはじめる。
鋭い爪を振り上げたダイアーウルフが、彼女へ届く寸前だった。
膜が、内側から弾けた。
轟音が荒野を叩く。圧縮された空気が一斉に解かれ、魔獣の巨体を横から殴りつけた。牙が空を噛み、爪が何もない場所を掻く。断末魔は、砂にまみれて途切れていく。
三度目の衝撃波がカイルの膝を揺らした。余波の風が砂粒を巻き上げ、視界を白く濁らせる。
カイルは立ち尽くした。ダイアーウルフの群れが、次々と地面から剥がされていく。
その中心で、少女だけが呼吸を乱していなかった。
瞳には冷静さがあった。だがそれは、残酷さというより、目の前の工程をひとつずつ見落とさないための冷たさに近かった。白い膜は防ぐだけではない。近づくものの動きと、空気の逃げ道を、同時に奪っている。
夜の翼に見える影が、少女の背後でゆっくり揺れた。救いの姿に見えるのに、近寄れば砕かれる。その矛盾が、カイルの胸の内側を硬くした。
「こいつは一体、どうなってるんだ……?」
低く漏れた声は、自分に向けたものだった。
いつの間にか追いついていたフィルが、砂まみれの頬で少女を見つめている。目の中に恐怖より先に、理解できないものを見た者の焦りが浮かんでいた。
「これは風魔術の障壁か? でも詠唱も魔法陣もなしに、これほどの……? まるで法則から外れている……」
少女が、ふいに振り返った。
薄い翡翠の瞳がこちらを捉える。冷たく見えた。けれど、その奥には苛立ちよりも、巻き込みたくないという急き立てられた光があった。
「あなたたち、いつまでそこに突っ立ってるつもり? こいつらは全部、私が片付ける。だから、とっとと下がっていて!」
カイルは目を見開いた。五十を超えるダイアーウルフの群れを、たった一人で。
「ば、馬鹿なことを言うな! これだけの数を、あんた一人で相手にするなんて、無理に決まってるだろ!」
少女はまばたきひとつしなかった。
「いいから、下がってと言っているの! この場は、私に任せなさい!」
声に、迷いがない。荒野の風より硬いものが、そこにあった。
「だ、だいたい、そんな……そんな剣一本で、どうやって……!?」
「『そんな剣』ですって?」
少女の目元が、ぴくりと動く。先ほどまでの冷たさとは違う、不機嫌さがはっきり顔に出た。
「……まあ、いいわ。とにかく、あなたたちがいたら邪魔なの! 巻き込まれたくなかったら、さっさと行きなさい!!」
カイルは奥歯を噛んだ。
悔しさはあった。けれど足元を撫でる風圧が、ここに立ち続けることの愚かさを教えている。彼は踵を返し、仲間たちを押すように走り出した。
背中に、その視線が触れた気がした。冷たいのに、どこか遠くを見ている目だった。
カイルたちの姿が砂霞に紛れるのを見届けてから、少女は小さく息を吐いた。
唇の端が、ほんのわずかに上がる。笑みと呼ぶには薄く、ためらいと呼ぶには鋭い。剣を握る両手が静かに位置を変え、白い刀身が夕暮れの残光を吸った。
ダイアーウルフたちは動きを止めていた。目の前の小さな生き物を獲物として見ているのか、別の何かとして見ているのか、黒く濁った瞳の底に迷いが浮かぶ。
張り詰めた静けさの中で、少女は剣へ囁いた。誰かに聞かせる声ではない。親しい相手の耳元へ、秘密を落とすような声だった。
「さーてと。ようやく邪魔はいなくなったし、そろそろ本気でやっちゃおうか、『茉凜』。……えっ? あ、そうか……。うん、確かに。先に一箇所に纏めちゃった方が、効率はいいかもね」
ひとり言ではなかった。
カイルには、それだけがわかった。白い剣へ向けられた声には、異様なほど自然な信頼がある。戦場の只中で、誰かと並んで歩いているような響きだった。
白い剣が、天へ掲げられる。
「場裏・白! 風嵐の囚トルネード・バインド!」
透明なドームが、ダイアーウルフたちを包みこんだ。
白い光の筋が幾重にも走り、内側の空気がねじれる。獣たちは一斉に爪を立てたが、爪先は何も掴めない。風が無数の鞭になり、足を払い、首を押し、巨体の重心を崩していく。
遠巻きに見ていたカイルの胸へ、遅れて冷えが戻ってきた。
絶望的な状況は、たった一人の少女の手の中で形を変えていた。魔術にも見える。剣技にも見える。けれどどちらにも収まらない。少なくともフィルの知る術理では、説明がつかない。
「ほら、お前たち、そこにぎゅーっと集まれ」
その声は冷ややかだった。けれど楽しんでいるというより、面倒なものを片づけているように聞こえた。
ドームの内側で、ダイアーウルフたちは互いの体を踏み合いながら一点へ寄せられていく。吠え猛る声は、風の壁に弾かれて、くぐもった反響になった。
白い剣の切っ先が、魔獣たちへ向けられた。
薄い翡翠の瞳が細くなる。カイルには、その顔が笑っているようにも、まったく感情を失っているようにも見えた。どちらなのか、わからない。そのわからなさが、もっと怖かった。
「燃え尽きろ。場裏・赤、焦炎スコーチング・ブレイズ!」
ドームの内部に、赤い熱が灯った。
火柱というより、球の内側に抱えこまれた高温域だった。赤い光が膜に沿って滲み、次の瞬間、閉じ込められた空気ごと内側から膨れ上がる。魔獣たちの絶叫が重なり、焼けた肉の臭いが風の隙間から漏れた。
だが、炎も熱も外へは出ない。
少女の定めた境界の内側だけで、破壊が折りたたまれている。赤い光は膜にぶつかって向きを変え、逃げ場を失った熱が、獣たちの群れを奥へ奥へと追いこんでいった。
少女は目を逸らさなかった。
焦げた風が頬を撫でても、瞬きの間隔だけがわずかにずれている。唇の端に薄い弧があるように見えた。喜びなのか、呼吸を整える癖なのか、カイルには判別できない。
荒野の時間が、そこだけ遅れていた。
「おいおい、まじかよ……」
カイルの声は、砂の上に落ちた。
断末魔はやがて細くなり、風がそれをさらっていく。砂が舞い、焦げた臭いだけがいつまでも残った。
「これは、ただの魔術じゃない……。詠唱もなしに、異なる属性を、こうも自在に……ありえない……」
フィルは瞬きも忘れていた。目の前の現象を見ているのに、見たものをどう呼べばいいのかわからない顔だった。
「……そもそも原理からして違うんだ。そうとしか思えない……」
彼が知る術理は、少女の足元で一枚ずつ剥がれていくようだった。詠唱も魔法陣もない。けれど力は暴走していない。出力が大きいのではない。出力の逃げ道まで、あらかじめ閉じられている。
ドームの内側で赤い光が薄れた。黒く焼け爛れた塊が、元の獣の形を失って沈む。砂の表面に、熱で歪んだ模様が残っていた。
彼女は、その結果を最後まで見た。
検分しているようにも、祈っているようにも見えなかった。ただ、終わったことを確かめている。次に何も残さないための確認だった。
「これで、終わりっ……と」
淡々とした声が、夕闇の空へほどける。
あまりにも軽い響きだった。その軽さが、カイルたちの耳にいつまでも残った。
西の空には、まだわずかな赤が残っている。その中で、少女の小さな影だけが黒く立っていた。風が吹いても、その輪郭は揺らがない。
◇◇◇
すべてが終わったあと、荒野には奇妙な静けさが戻っていた。
地鳴りも咆哮も消え、残っているのは焼けた土の臭いと、誰かの荒い息だけだった。
こちらへ、ゆっくり歩いてくる。
先ほどまで背にあった黒い翼のような影は、もうどこにもない。初めから何もなかったかのように、彼女の背中には薄い革鎧と、風に揺れる黒髪だけがあった。
破壊の中心に立っていた姿と、今目の前にいる少女が同じ人物だと、すぐには信じられなかった。
顔立ちは柔らかい。まだ幼さを残した頬に、戦いの昂りは見えない。薄い翡翠色の瞳は澄んでいて、けれど近づくほど、その奥に小さな疲れが沈んでいるのがわかった。
黒髪が夕暮れの風に揺れる。砂の臭いの中で、その髪だけが濡れた絹のように静かだった。
「……みんな、大丈夫そうでよかった」
声は控えめだった。
戦場の音を破った声とは違う。春先の冷たい水に指を入れるような、そっと触れてくる声音だった。
カイルたちはすぐに返事ができなかった。恐怖が解けたのではない。恐怖の形が変わったのだ。凄惨な力を見せつけられたあとで、こんな小さな声を聞かされて、心が追いつかない。
「あ、ああ……。お、おかげで助かったよ……。本当に、ありがとう」
カイルはようやく頭を下げた。声はまだ震えていた。感謝と困惑が、同じ場所で絡まっている。
彼女はふわりと笑った。先ほどの薄い弧とは違う。安堵が少しだけ頬に滲んだ、年相応の笑みだった。
「ううん、気にしないで。当然のことをしただけよ」
その言葉を聞いて、レルゲンが白髪まじりの髭を撫でた。老いた目だけが、まだ慎重に少女を測っている。
「お嬢さん……いや、お主、もしや巷で噂の、『黒髪のグロンダイル』と呼ばれておるお方ではないかな? 単独で、いかなる魔獣の大群をも屠り去る力を持つと噂の──」
風が一度、四人の間を抜けた。
「……やれやれ、年寄りの肝には毒じゃな」
レルゲンは小さく付け加え、髭の奥で息を吐いた。
彼女は肯定も否定もしなかった。
ただ、少しだけ笑みを深める。長い黒髪が肩先で揺れ、夕闇の色を吸った。
エリスも、フィルも、レルゲンでさえ、言葉を失って見つめていた。
さきほどまでおびただしい命を断っていた手は、今は体の横で静かに落ちている。剣を握っていない指は細く、砂を払う仕草さえどこか頼りない。
けれどカイルは、その頼りなさをそのまま信じることができなかった。
常識を根元から押し曲げる力。人を助けてなお、名乗らない沈黙。白い剣へ向けられた、親しげな声。
――この少女は、一体、何者なんだろう?
答えは出ない。
ただひとつ確かなのは、彼女がいなければ、彼らはあの黒い波に呑まれていたということだけだった。
「……重ねて礼を言う。君がいなければ、今頃俺たちは……。とにかく、救けてくれてありがとう」
カイルは深く頭を下げた。
エリスも唇を引き結び、フィルはまだ何かを言いかけてやめる。レルゲンは杖に体重を預け、長く息を吐いた。
死の淵から戻った安堵は、すぐには温もりにならない。胸の奥に残るのは、冷えた石を抱いているような重さだった。
少女の黒髪が、沈みゆく光を最後に受け止める。
彼女の正体も、事情も、まだ何もわからない。
けれどその日、エレダンの荒野で、四人は確かに見た。
黒髪の少女が、魔獣の群れを止めた。
そしてその少女は、戦いが終わったあと、ひどく静かな声で人の無事を確かめた。
黄昏の赤が落ちる直前、彼女の影だけが風に揺らがなかった。
◇◇◇
――りん。
白銀の塔の上階で、その音は床へ触れた。
石壁の冷たさが足元から這い上がり、梁先の小鈴がひとつ、淡く鳴る。上階の薄い空気がわずかにひずみ、響きだけが塔の奥へゆっくり沁みていった。
声ではない。けれど名だけが、確かな重みを運んだ。因縁深き名を継ぐ呼びかけは、塔の深部へ沈んでいく。
名は、盾にもなる。けれど時々、首輪になる。王家にとってグロンダイルの名は、封じてなお石の冷えに残る古い傷だった。
高窓を撫でた風が、紙の端をかすかに震わせる。灯の芯が一度だけ揺れ、壁の白さが鈍く曇った。
「……申し上げます、先王陛下。『黒髪のグロンダイル』と名乗る魔獣狩りの少女について――ローベルト将軍より続報が届いております」
薄布のカーテンが遅れて波を打ち、頬をかすめた冷気に、先王の瞬きがわずかに遅れた。
年老いた従者は大理石に膝をつき、深く頭を垂れる。裾から忍び込んだ冷たさが脛を上り、残った声の震えが扉板をかすかに揺らした。
報告は、そこで宙に止まった。高窓から差し込んだ外気が書簡の端をめくり、乾いた紙の匂いが静けさへ滲む。
純白のローブの先王は、まだ応えない。腰までの白髪と雪の髭がわずかにそよぎ、組んだ指先にだけ、ゆっくり力がこもる。喉仏が小さく上下し、息だけが途中で止まった。
ふたたび、ちりん。
組んだ手の隙間へ石の冷たさが戻り、掌の内側が軋むように痛んだ。言葉が出るまでの沈黙が、ひどく長い。
「……『あの子』の髪の色を継いだというのか。だが黒髪の巫女が続けて生まれるなどありえぬ……」
言葉の尾が石畳を這い、遠い日の記憶の棘が指先をかすめた。
響きの残りが天井へ溶け、視線が遠くへ滑るあいだに、呼べない名の影が一瞬よぎる。口元がわずかに緩みかけ、すぐに固まった。指の節が食い込み、爪の白みだけが残る。
風がランプの炎を揺らし、壁に伸びた影だけが大きく頷いた。
「噂は、我が愚息――いや、国王の耳にも入っていよう。グロンダイルの名を、このまま黙って見過ごすとは思えぬ……」
先王は振り返ることもなく告げた。
「直ちにローベルトに返信を。『黒髪のグロンダイルの動向を監視せよ。ただし手出しは無用。刺激すれば噂だけが先に走る』と」
従者は頭を垂れたまま、わずかに息を呑んだ。返書の紙が擦れる小さな音が、妙にはっきり耳に残る。
小鈴は、三度目は鳴らなかった。
けれど、ひとたび王都へ根を張った噂は、もう鈴のように静かには消えない。
黒髪のグロンダイル。
その名はやがて、王都の奥へ届く。
名に引かれて、少女は近づく。都はまだ見ぬ黒髪へ、静かに手を伸ばす。
先王の沈黙の届かぬ場所で、別の思惑が、すでにゆっくりと形を取りはじめていた。