第二十七話 アザレア
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。 そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。 アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第二十七話 アザレア
女王陛下の娘。
アリスの心臓が、強く鳴った。
この国の中心に、限りなく近い人。
アリスは反射的に深く礼をした。
「失礼いたしました。アザレア様」
「いいわ。堅苦しいのは嫌いなの」
アザレアは部屋の中をゆっくり歩いた。
ノアの机。積まれた書類。棚。窓辺。
そのすべてを、退屈そうに眺めている。
「白兎は?」
「用事があると、出ていかれました」
「鍵をかけずに?」
アリスは一瞬、言葉に詰まった。
アザレアはその反応を見て、楽しそうに目を細める。
「何を驚いているの? 前はあなたを、ここに閉じ込めていたでしょう」
背筋が冷えた。
その一言に、ずっとどこかから見張られていたような薄ら寒さを感じた。
この部屋で何があったのか。
ノアが何をして、アリスがどう過ごしていたのか。
アザレアは、全てを知っている顔で微笑んでいる。
アリスは唇を結んだ。
アザレアは窓辺に立ち、白薔薇の中庭を見下ろした。
「母様はね、白兎を信用していないの」
アリスは黙って聞いた。
「でも、手放しもしない。扉を開けられる者は、この国にとって便利すぎるから」
その声に、少しだけ棘が混じる。
「白兎も命令には逆らうくせに、逃げ切ることはしない。最後にはちゃんと母様の盤上へ戻ってくる。……そういうところが」
アザレアは小さく笑った。
「愚かよね」
その言葉を聞いた瞬間、アリスの胸の奥で、何かがかっと熱くなった。
「……ノアは、愚かではありません」
気づけば、そう言っていた。
思ったよりまっすぐな声が、静かな部屋に落ちる。
アザレアが振り返った。
紅茶色の瞳が、まっすぐアリスを捉える。
しまった、と思う。
けれど、もう目を逸らしたくなかった。
ノアのあの優しさを。
あの痛みを。
愚か、なんて言葉で片づけられるのは許せなかったから。
アザレアはしばらくアリスを見つめたあと、ふっと笑った。
「へぇ……」
その笑みは、花びらみたいに可憐なのに、少しも温かくなかった。
美しくて、少し怖い。
「思ってたより、生意気なのね」
アリスは唇を引き結んだ。
アザレアは、そんなアリスを楽しむように見つめていた。
「あなたがいるから、白兎はあんな顔をするのね」
「あんな顔……?」
「白兎は、いつも甘く笑っているでしょう。何を隠しているのか分からない、砂糖菓子みたいな顔で」
アザレアはゆっくり歩き、アリスの前に立った。
「でも最近は、その笑顔がなんだか完璧過ぎるの」
アリスは、息を止めた。
「声も、仕草も、目線の外し方まで、ぜんぶ綺麗。まるで、少しでも気を抜いたら何かがこぼれてしまうと分かっているみたいに」
紅茶色の瞳が、アリスを覗き込む。
「人があそこまで綺麗に笑う時はね、たいてい、誰にも触れられたくないものを隠している時なのよ」
アザレアは、まるでそれ以上は言わないと決めているみたいに、唇だけで笑った。
「それが、あなたなのかしら?」
アリスは何も言えなかった。
胸の奥が、静かに揺れている。
ノアの笑顔。
甘くて、綺麗で、何でもないふりをする笑顔。
あの笑顔の下に、ノアはどれだけのものを隠しているのだろう。
「ねえ、ルーシー」
アザレアが、柔らかく名を呼んだ。
「あなた、本当にただの迷い子?」
逃がさない響きだった。
「……私は、ただの迷い子です」
アリスは静かに答えた。
「そう」
アザレアは微笑んだ。
それ以上は追及しない。
けれど、その沈黙の方がずっと怖かった。
アザレアはアリスの横を、すっと通り過ぎた。
淡い花の香りが、ほんの一瞬だけ近づく。
「母様はね、違う花の気配に敏いの…」
耳元に落とされた声に、アリスは指先をぎゅっと握った。
扉の前で、アザレアは少しだけ振り返る。
「特に、あなたのような野薔薇は、整えられた庭園では目立ちすぎるわ」
アリスの喉が、かすかに詰まる。
「このままだと、母様に摘まれるのも時間の問題ね」
忠告のようにも聞こえた。
けれど、その甘い声には、アリスがどう怯えるのかを楽しんでいるような響きが混じっていた。
「……どうして、それを私に?」
アリスが慎重に尋ねると、アザレアは少しだけ意外そうに目を開いた。
そして笑った。
「面白いから」
あまりにもあっさりした答えだった。
アザレアはそれだけ言って、扉を開けた。
廊下へ出ようとした、その時だった。
廊下の向こうから、白い影が歩いてきた。
ノアだった。
アザレアは足を止める。
ノアも、扉の前でぴたりと止まった。
一瞬、廊下の空気が冷える。
「……アザレア様」
ノアの声は丁寧だった。
けれど、いつもの甘さはない。
「久しぶりね、白兎」
「こちらで何を」
「あなたの可愛い子ぶたを見に来ただけよ」
ノアの視線が、一瞬だけ部屋の中のアリスへ向く。
心配している。
アリスは小さく頷いた。
大丈夫、と伝えるように。
アザレアは、その一瞬を見逃さなかった。
「本当に、変わったのね」
「何のことでしょう」
「さあ。あなたが一番分かっているんじゃない?」
アザレアはくすりと笑った。
それから、ノアの横を通り過ぎる。
すれ違いざま、ノアにだけ聞こえるような声で言った。
「母様が気づく前に、あなたも覚悟を決めることね」
ノアの表情が、わずかに強張る。
アザレアは最後に、部屋の中のアリスへ視線を向けた。
「またね。ルーシー」
それだけ言って、アザレアは廊下の奥へ歩いていった。
淡いピンクの髪が、薄暗い廊下の中で花の残像のように揺れる。
足音が遠ざかる。
ノアはしばらく、その背中を見送っていた。
やがて、ゆっくりと執務室へ入ってくる。
「アリス」
声が、いつもより少し低かった。
ノアはアリスの前まで来ると、膝を折るように少し屈んだ。
「何かされた?」
「いいえ」
「変な物、渡されたりは?」
「してません」
ノアの赤い瞳が、アリスの顔色を確かめるように揺れる。
「何か言われた?」
アリスは少しだけ迷った。
けれど、首を横に振ることはしなかった。
「……言われました」
ノアの眉が、ほんのわずかに寄る。
「何を」
「でも…多分、大丈夫です」
「大丈夫?」
ノアが少しだけ目を細めた。
アリスは胸元の薔薇のペンダントをそっと握る。
「アザレア様は、多分……気づいているのだと思います。私が、ただのルーシーではないことに」
ノアは黙った。
けれど、アリスは続けた。
「でも、すぐに女王陛下へ話すつもりなら、あんなふうに私を試す必要はなかったと思います」
ノアの目が、わずかに見開かれる。
「私が何を隠しているのか、どう反応するのか。アザレア様は、それを見ていました。女王陛下に差し出すためというより……まるで面白がるために」
言いながら、アリス自身も少し怖くなる。
けれど、あの紅茶色の瞳を思い出すと、そうとしか思えなかった。
ノアはしばらくアリスを見つめていた。
それから、困ったように息を吐いた。
「……違いますか?」
「ううん。本当に、よく見ているなと思って」
ノアは廊下の方へ視線を向けた。
もうそこに、アザレアの姿はない。
「あの方は、女王陛下の思い通りになるものが嫌いなんだ。君のことを今すぐに差し出して、女王陛下を満足させる。そんなことは、アザレア様の望む形じゃない」
アリスは、少しだけ息を吐いた。
今すぐ女王陛下に突き出されるわけではない。
そのことに、胸の奥のこわばりがほんの少しだけ緩む。
「でも、油断はしないで」
ノアの声が、静かに低くなる。
「アザレア様は敵ではない。けれど、味方でもない。あの方にとって大事なのは、自分が退屈しないことだから」
「……はい」
アリスは小さく頷いた。
その拍子に、握っていた指先がかすかに震えた。
自分では落ち着いているつもりだった。
けれど身体はまだ、さっきのアザレアの声を覚えているみたいだった。
甘い声。
紅茶色の瞳。
『母様に摘まれるのも時間の問題ね』と絡まる蔦の奥に棘を隠したような言葉。
思い出した途端、胸の奥がきゅっと縮こまる。
ノアはその小さな震えに気づいたのか、何も言わずに白い手を伸ばした。
ぽん、と頭に触れる。
「怖かったね」
やさしい手だった。
ノアが戻ってきた。
ちゃんと見てくれている。
それだけで、張り詰めていた身体から少しずつ力が抜けていく。
ふと、目が合った。
窓の外では、夜に沈みかけた白薔薇の中庭が、青白くぼんやり揺れている。
その淡い光がノアの横顔に触れ、白銀の髪の端を静かに照らしていた。
赤い瞳が、穏やかに細められている。
さっきまで冷えていた部屋の空気が、その眼差しだけで少しほどけたような気がした。
あまりにやさしくて、アリスの胸が小さく跳ねた。
その瞬間、さっきのノアを思い出した。
顔を赤くして、目を逸らしたノア。
自分の口からこぼれた、『そうだったら、嬉しいな』という言葉。
あの時、胸の奥で形になりかけたものが、今度ははっきりと輪郭を持つ。
もしかして、ではない。
たぶん、もう気づいていた。
ノアが自分を見てくれると嬉しい。
心配されると、胸が温かくなる。
目が合うだけで、どうしようもなく苦しくなる。
―ノアが好き―
そう思っただけで、胸の奥に小さな灯りがともった。
けれど、その灯りに手を伸ばす前に、ノアは何ごともなかったみたいに、綺麗に笑った。
甘くて、穏やかで、隙のない完璧な笑顔。
「大丈夫。怖い人に会っても、ちゃんと一人で待っていられたね。偉かったよ」
ぽん、ともう一度、頭を撫でられる。
その瞬間、胸にともった小さな灯りが、ふっと揺れた。
褒められている。
大切にされている。
それなのに、胸の奥が冷えていく。
今の言葉は、アリスが欲しかったものではなかった。
まるで、小さな子どもを安心させるみたいな。
ノアはアリスを見ている。
でも、同じ高さでは見ていない。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
ノアの笑顔は、あまりにも綺麗だった。
綺麗すぎて、少し遠い。
届きそうで、届かない。
その時、アザレアの声が耳の奥に蘇る。
『人があそこまで綺麗に笑う時はね、たいてい、触れられたくないものを隠している時なのよ』
ノアが、触れられたくないもの…。
それは、アリスなのだろうか。
それとも、まだ知らされていない、もっと深い何かなのだろうか。
知りたい。
でも、知ってしまうのが怖い。
あの綺麗な笑顔の奥に手を伸ばしたら、ノアが遠くへ行ってしまうような気がした。
アリスは胸元の薔薇のペンダントをそっと握った。
窓の外では、白薔薇の中庭が夜の底へ沈み、花びらの白だけが、闇の中にぼんやり浮かんでいた。
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