第二十八話 星屑の部屋とおしゃべりな種
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あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。 そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。 アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第二十八話 星屑の部屋とおしゃべりな種
その日、ノアは朝から少し忙しそうだった。
いつもなら朝食のあと、紅茶を飲みながら新聞のようなものに目を通し、「今日の天気は少し反抗期だね」などと意味の分からないことを言うのに、その日は食事を終えるとすぐに白い上着を羽織った。
胸元には、蔦と薔薇の金刺繍。
髪はいつもよりきちんと整えられていて、白い兎耳もぴんと立っている。
ハートの女王の側近としての、白兎の顔だった。
「今日は一日、外で仕事があるんだ」
ノアは玄関先でそう言った。
「アリスは家で過ごしていて」
「はい」
アリスが頷くと、ノアは少し言葉を止めた。
それから、いつもより柔らかい声で付け足す。
「でも、家の周りなら自由に出ていいよ。畑でも庭でも。ただ、森の奥へは行かないこと。知らない扉も開けないこと。喋るキノコには返事をしないこと」
「最後のは何故ですか?」
「調子に乗るから」
ノアは真面目な顔で言った。
アリスは思わず笑ってしまう。
以前なら、ノアはもっと曖昧にアリスを家へ閉じ込めていた。
けれど今は違う。
ノアは、アリスを信じようとしている。
その変化が、アリスには分かった。
「分かりました。森の奥には行きません。知らない扉も開けません。喋るキノコにも返事をしません」
「良い子だね」
「また子ども扱い」
ノアは当たり前みたいに、ぽんとアリスの頭を撫でた。
「若い子は、用心しすぎるくらいがちょうどいいんだよ」
「ノアは時々、おじい様よりおじい様です…」
「それは光栄だ」
ノアはいつものように、砂糖を溶かしたような笑顔を浮かべる。
けれど出かける直前、ほんの少しだけアリスを見つめた。
心配している目だった。
アリスは胸元の薔薇のペンダントに触れ、微笑んでみせる。
「大丈夫です。ちゃんと待っています」
ノアの表情が、少しだけほどけた。
「うん。行ってくる」
「いってらっしゃい」
扉が閉まる。
白い背中が小道の向こうへ消えていくまで、アリスは窓辺から見送っていた。
ノアの姿が見えなくなると、家の中は急に静かになった。
さっきまでそこにいた人の気配が、薄い紅茶の香りみたいに、まだ部屋のあちこちに残っている。
椅子の背にかけられた布。
少しだけずれたカップの位置。
玄関先に落ちた、白い兎耳の影の名残。
それを見ていると、胸の奥が小さく疼いた。
アリスはそっと、自分の胸に手を当てる。
前までなら、きっとこんなふうには思わなかった。
ノアがいないと静かだ。
ノアがいないと広い。
ノアがいないと、少しだけ寂しい。
それは、ただ守ってくれる人がそばにいない心細さとは違っていた。
目が合うと胸が跳ねる。
優しくされると嬉しい。
けれど、子どもみたいに頭を撫でられると、胸が痛い。
もう、はっきり気づいてしまった。
アリスは、ノアが好きなのだ。
そう思うだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。
けれど同時に、ノアの綺麗な笑顔も思い出してしまう。
ここから先には来てはいけないと、優しさで線を引くような笑顔。
アリスは窓の外を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……おじい様よりおじい様、なんて言わなければよかったかな」
呟いてから、自分で少しだけ困ったように笑う。
けれど、きっとそういうことではないのだ。
ノアにとっての自分は、六歳のアリスのまま。
ひとりの女性として、同じ高さで見ているわけではない。
そう思うと胸の奥が痛んだ。
でも、納得もしてしまう。
ノアは、不思議の国の住人〈白兎〉
アリスは、別世界から来た〈薔薇の鍵〉
勘違いさせないように、ノアが一線を引くのは、きっと当然なのだと思う。
分かっている。
分かっている、けど…。
好きだと気づいたばかりの気持ちは、どこにも行けずに、胸の奥で小さく疼いていた。
アリスは袖をまくった。
くよくよしてもキリがない。
まずは掃除しよう。
床を掃き、食器を片づけ、窓辺の埃を払う。
ノアの家は不思議なものでいっぱいだけれど、暮らす家としてはきちんと整っている。
棚の上には小さな兎の置物が並び、食器棚の中の皿は色ごとに揃えられていた。
少し几帳面すぎるくらいだ。
アリスは布巾で食卓を拭きながら、ふと笑った。
ノアは飄々としているのに、こういうところは妙にまじめだ。
洗濯物を干し終える頃には、空は淡い水色に晴れていた。
ワンダラーの風は、普通の風より少し甘い。
花の匂いと、焼き菓子の匂いと、雨上がりの石畳の匂いが混ざっている。
アリスは籠を片づけると、外へ出た。
小さな畑には、ムラサキねむりかぶが丸い葉を揺らしていた。
アリスが近づくと、一斉にふぁ、と欠伸をする。
「つられませんからね」
アリスが言うと、かぶたちは少し不満そうに葉を揺らした。
家の裏へ回る。
そこには、かつて花たちが咲いていた場所があった。
赤い花。
黄色い花。
青い花。
うるさくて、お喋りで、噂好きで、ノアのことを腹黒うさぎと呼んでいた花たち。
今そこにあるのは、ただの土だった。
柔らかくならされた、黒い土。
花は一本もない。
あれほど騒がしかった場所が、息をひそめたみたいに静まり返っている。
アリスはその場にしゃがみ込んだ。
指先で土に触れる。
少し湿っている。
ちゃんと手入れされている土だった。
それが、かえってノアらしかった。
消してしまったように見えても、放っておくことはしない。
遠ざける。
隠す。
でも、見えないところで手入れはする。
まるで、アリスに対するノアみたいだと思った。
大切にしてくれる。
けれど、いちばん近い場所には触れさせてくれない。
アリスは土の上に置いた指先を、少しだけ丸めた。
もしも、あの笑顔の奥へ踏み込んだら、ノアは一体どんな顔をするのかな…。
アリスは立ち上がり、家へ戻った。
すると、珍しく廊下の奥の扉が少し開いていることに気づいた。
ノアの部屋だった。
普段、その扉は閉まっている。
鍵がかかっているわけではない。
けれど、アリスも勝手に入ろうとはしなかった。
今日は、扉が細く開いている。
隙間から、淡い青い光が漏れていた。
「……ノア?」
もちろん返事はない。
アリスは少し迷った。
勝手に入ってはいけない。
そう思って踵を返そうとした時、床の上に小さなものが落ちているのが見えた。
丸い粒。
種のようだった。
ひとつ。
その少し先に、もうひとつ。
さらに奥へ、ぽつりぽつりと続いている。
アリスはしゃがみ、最初の種を拾った。
その瞬間。
「ちょっと! やっと気づいたのね!」
「遅いわよ!」
「早く拾ってちょうだい!」
「花ネズミが来てしまう前に!」
種が喋った。
聞き覚えのある声だった。
赤い花。
黄色い花。
青い花。
あの騒がしい花たちの声だ。
「あなたたち……!」
アリスは思わず声を上げた。
「種になっていたの?」
「見れば分かるでしょ!」
「乙女がこんな丸裸の姿にされているのよ!」
「種だけどね!」
「早く拾って!」
「花ネズミが来るわ!」
「花ネズミ?」
アリスが聞き返した瞬間、ノアの部屋の奥から、ガサガサッと音がした。
アリスの背筋が伸びる。
何かがいる。
種たちが一斉に叫んだ。
「来た!」
「来たわ!」
「早く!」
アリスは慌てて床に落ちた種を拾い集めた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
エプロンのポケットへ入れていくたび、種たちは口々に文句を言う。
「もっと丁寧に!」
「押さないで!」
「今、私を下にしたでしょう!」
「種にも品格ってものがあるのよ!」
「静かにしてください、見つかります!」
「もう見つかってるわよ!」
その言葉と同時に、ノアの部屋の中から、またガサガサガサッと大きな音がした。
アリスは恐る恐る、扉を押し開けた。
そして息を呑んだ。
ノアの部屋は、家の他のどの部屋とも違っていた。
まるで、夜空をそのまま閉じ込めたような部屋だった。
壁は深い紺色。
けれど暗いわけではない。
壁のあちこちに、クリスタルのような石がはめ込まれていて、淡い青や銀の光を受けてきらきらと輝いている。
小さな星屑が、壁の中で瞬いているみたいだった。
天井には、細い銀の線で星座のような模様が描かれている。
よく見ると、それは普通の星座ではなく、扉や鍵、兎、薔薇の形をしていた。
窓辺には薄い月色のカーテン。
ベッドは透明なクリスタルでできていて、光を受けるたびに水面のように揺らめいて見える。
そこに掛けられた布団は、絹のように柔らかな白。
枕元には、小さな銀色の灯りが置かれていた。
おしゃれで、静かで、美しい。
台所のにんじん柄エプロンのノアとは、まるで別人の部屋だった。
けれど考えてみれば、これもノアなのかもしれない。
甘くて、柔らかくて、少し年寄りくさくて、でも本当は夜と星と扉を抱えている白兎。
アリスは一瞬、見惚れてしまった。
その時、ベッドの下から何か黒いものが飛び出してきた。
「きゃっ!」
小さな生き物だった。
ネズミにも見えるし、リスにも見える。
身体は丸く、黒い毛はつやつやしている。
耳は花びらのように薄く、尻尾はふさふさ。
目は小さな黒曜石みたいにきらりと光っていた。
その生き物は、口いっぱいに種を詰め込んでいた。
頬袋がぱんぱんに膨らんでいる。
「花ネズミ!」
エプロンのポケットの中で、種たちが悲鳴を上げた。
「大変!」
「種を溜め込んでるわ!」
「私の妹がいる!」
「私の従姉妹も!」
「家系図が崩れる!」
「それは大変なの……?」
アリスが思わず返すより早く、花ネズミは床を走り出した。
素早い。
予想以上に素早い。
ベッドの下を抜け、棚の影へ入り、カーテンを駆け上がり、そこから机へ飛び移る。
頬袋をぱんぱんにしたまま、ふんふんと得意げに鼻を鳴らしていた。
「待って!」
アリスは追いかけた。
花ネズミは机の上を走り回り、ペン立てを倒しそうになる。
「だめ、それノアのもの!」
アリスが手を伸ばすと、花ネズミはぴょんと跳ねて戸棚の上へ逃げた。
戸棚がぐらりと揺れ、中から小瓶がいくつか転がり落ちそうになる。
「危ない!」
アリスは慌てて受け止めた。
その隙に、花ネズミはまたベッドの方へ走る。
エプロンのポケットの中から、種たちが指示を飛ばす。
「右よ!」
「違う、左!」
「下から回り込んで!」
「甘いわ! 花ネズミは斜めに逃げるのよ!」
「斜めってどこですか!」
アリスは息を切らしながら問い返した。
部屋は美しいのに、今や小さな大騒ぎの舞台だった。
クリスタルのベッドの周りをぐるぐる回り、星屑の壁の前を駆け抜け、月色のカーテンがばさばさ揺れる。
花ネズミは最後に、ベッドの下へ潜り込もうとした。
その瞬間、アリスは布団をふわりと持ち上げ、逃げ道を塞いだ。
「今!」
種たちが叫ぶ。
アリスは両手を伸ばし、花ネズミをそっと捕まえた。
「つかまえた……!」
花ネズミはバタバタ暴れた。
けれど小さい。
アリスはできるだけ優しく、でも逃がさないように抱え込む。
「ごめんね。種を返して」
花ネズミは頬をぱんぱんにしたまま、ぷいっと横を向いた。
「返しなさい!」
「種泥棒!」
「頬袋の中で窒息するわ!」
「種だから窒息しないわよ!」
「でも気分が悪いの!」
アリスは困りながら、花ネズミの鼻先を指でそっと撫でた。
「返してくれたら、あとでムラサキねむりかぶの葉をあげます」
花ネズミの耳がぴくりと動いた。
「ふぁあ、って上品にあくびをする」
さらにぴくり。
「新鮮なものを」
花ネズミは少し考えたあと、口を開けた。
ぽろぽろぽろ。
大量の種がアリスの手のひらにこぼれ落ちる。
思ったより多い。
いったいどれだけ溜め込んでいたのだろう。
「私!」
「私も!」
「生きてる!」
「頬袋くさかった!」
「失礼なネズミね!」
種たちは一斉に騒ぎ出した。
アリスはほっと息を吐いた。
「みんな、無事でよかった……」
「感動してる場合じゃないわ!」
「早く瓶へ!」
「じゃなきゃ別の花ネズミが寄ってくる!」
「花ネズミは一匹見たら十二匹いると思いなさい!」
アリスは慌てて床へ視線を走らせた。
床に、小さなガラス瓶が転がっていた。
蓋は外れている。
きっとこの中に、花たちの種が入っていたのだ。
アリスは急いで種たちを瓶の中へ戻した。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
騒がしい声が瓶の中へ入っていく。
「丁寧に!」
「押さないで!」
「私を上にして!」
「赤が上よ!」
「黄色が太陽に近いべきよ!」
「瓶の中で身分争いしないでください!」
アリスは思わずそう注意した。
すべての種を入れ終えると、アリスは急いで蓋を閉めた。
きゅっと音がする。
その瞬間、部屋の中のざわざわした気配が少し落ち着いた。
花ネズミは興味をなくしたように鼻を鳴らし、アリスの手からぴょんと飛び降りた。
そして開いていた窓の隙間から外へ飛び出していく。
「あ、約束の葉っぱ……!」
アリスが声をかけると、花ネズミは窓枠の上で一度振り向き、ふん、と鼻を鳴らした。
まるで「後で取りに来る」と言っているようだった。
そのまま、黒い小さな影は庭の方へ消えていった。
アリスは床に座り込んだ。
疲れた。
とても疲れた。
ノアの部屋の中は、少しだけ乱れている。
ペン立ては倒れ、カーテンは曲がり、布団もずれていた。
あとで直さなければ。
そう思いながら、アリスは瓶を両手で包んだ。
瓶の中から、花たちの声がくぐもって聞こえる。
「もう、ひどい目に遭ったわ」
「でも助かったわね」
「アリス、少しはやるじゃない」
「少しどころか、だいぶ助けたと思うのですが」
アリスが少し不満そうに答えると、瓶の中で花たちが一斉に騒いだ。
「褒めてるのよ!」
「分かりにくいです」
アリスは小さく笑った。
嬉しかった。
花たちは生きていた。
ノアは、花たちを消してしまったわけではなかった。
あの時、アリスの居場所がばれないように。
アリスがアリスだと知っている花たちが、誰かに話してしまわないように。
きっと、こうして種に戻したのだ。
勝手な方法だ。
花たちからしたら迷惑極まりないだろう。
でも、消してはいなかった。
隠していた。
守ろうとしていた。
ノアらしい。
どうしようもなく、怖くて、不器用で、優しい。
アリスは瓶を胸に抱いた。
「よかった……」
心の中に落ちていた影が、少しだけ薄くなる。
ノアの知らなかったことをひとつ知るたび、怖さの奥に隠れていた理由が見えてくる。
星屑のように輝くノアの部屋で、アリスは瓶を抱えたまま静かに座っていた。
夜を詰め込んだような美しい部屋。
その中に隠されていた、おしゃべりな種たち。
アリスは思った。
この部屋は、ノアの心に少し似ている。
美しくて、静かで、奥にたくさんの秘密がある。
外から見えるのは、整えられた机や、星屑みたいな壁や、月色のカーテンだけ。
甘く笑って、何でもないふりをする白兎の顔と同じだ。
けれど、その奥には、こんなにも騒がしくて、放っておけなくて、どうしようもなく生きているものが隠れている。
「……ノア」
気付くと口から名前が溢れていた。
好きになったから、全部を知りたいわけではない。
好きになったから、何もかも許せるわけでもない。
でも、好きになってしまったからこそ、ノアがひとりで抱えているものに、どうしようもないほど触れたいと思ってしまう。
瓶の中で、種たちが小さく騒いだ。
「ちょっと、抱きしめすぎよ!」
「息苦しいわ!」
「種だから息はしないでしょう!」
「気分の問題よ!」
アリスははっとして、慌てて腕の力を緩めた。
「ご、ごめんなさい」
種たちの文句に、思わず笑みがこぼれる。
泣きたいような気持ちの中に、少しだけ温かいものが戻ってきた。
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