第36話 白い馬を飾るなの表紙画像

第36話 白い馬を飾るな

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/11 📚 シリーズ: アドルフ・ヒトラー意匠事務所 📝 5,291文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。

本文

1940年1月。

年が明けても、ミュンヘンの空はあまり新しくなったようには見えなかった。

石畳は黒く濡れ、道端の雪は灰色になり、通りを行く人々の外套の裾には、冬の泥が細く跳ねていた。祝日の名残はまだ窓辺や店先に残っていたが、商店の扉は開き、荷車は動き、新聞売りの声も戻っていた。

アドルフ・ヒトラー意匠事務所も、休み明けの顔をしていた。

ただし、よい顔ではなかった。

一階はかつて帽子店だった場所で、今は受付と応接、簡単な打ち合わせ机が置かれている。帽子を並べていた棚には、紙筒、見本帳、木箱、古い看板の切れ端が詰め込まれていた。二階には製図机と資料棚があり、階段を上がったり下りたりする足音が、一日中、事務所の中を縦に割っていた。

ヒトラーの机も、特別な部屋にあるわけではない。

二階の窓際、やや広めの机がそれだった。ほかの机より少しだけ大きく、上に積まれた紙束が少しだけ傲慢で、椅子の位置だけが妙に正面を主張している。個室ではないのに、そこだけが勝手に所長室のような顔をしていた。

エルゼ・ホフマンは一階で帳簿を開いていた。

「年始最初の確認事項です」

ヒトラーは階段の途中で足を止めた。

「良い響きではない」

「フェーゲライン氏より、年始相談の来訪予定があります」

「ほら見ろ。良い響きではなかった」

フランツ・マイヤーが二階から紙筒を抱えて下りてきた。

「去年のうちから匂ってましたからね」

ヒトラーは振り返った。

「フランツ、仕事を匂いで判断するな」

「今回は馬の匂いも混じっています」

「なお悪い」

受付の机の横で、クララ・ユンゲが記録帳を開いていた。年始の予定、来客、未処理案件、確認書の発送状況を淡々と整理している。

ヒトラーは彼女の足元をちらりと見た。

今日は通常の革靴だった。雨雪用の黒い乗馬ブーツではない。

「ユンゲ君」

「はい」

「今日は騎馬隊ではないのか」

「道が凍っておりませんでしたので」

「道が凍ると騎馬隊になるのか」

「床を濡らさないための判断です」

エルゼが帳簿から目を上げずに言った。

「実際、あの日は玄関掃除が少なく済みました」

ヒトラーは不満そうに鼻を鳴らした。

「事務所が馬場に負けてたまるか」

ユンゲは記録帳に視線を落としたまま言った。

「本日来るのは馬ではなく、フェーゲライン氏です」

「なお悪い」

そのとき、一階の扉が開いた。

冷気と一緒に、明るい声が入ってきた。

「いや、年始から実に働き者の事務所ですね」

ヘルマン・フェーゲラインだった。

細身の外套を着て、手袋を外しながら入ってくる。襟元にはやや派手なスカーフが覗いていた。帽子を取る仕草は軽く、笑顔も軽い。足元は磨かれた革靴で、馬場の泥を踏んできたようには見えなかった。

ヒトラーはそれを見た。

「馬の催しを持ち込む男が、馬場の泥を踏む靴を履いていない」

フェーゲラインは一瞬きょとんとし、それから笑った。

「今日は相談ですから」

「つまり、泥は他人に踏ませる催しだな」

エルゼが静かに席を立った。

「フェーゲラインさん。本日は相談のみでよろしいですね。正式な発注は、内容確認書と見積書の後になります」

「もちろん、もちろん。ホフマンさん、話が早くて助かります」

「早いのではありません。順番です」

ヒトラーは階段を下り切り、応接机の前に立った。

「で、騒がしい案件とは何だ」

フェーゲラインは笑みを崩さず、手袋を揃えて机の上に置いた。

「騒がしいなど、とんでもない。小さな催しです」

ヒトラーは即座に言った。

「小さい催しと言う者ほど、椅子を多く並べる」

フランツが紙筒を抱えたまま、少し横を向いた。

フェーゲラインは気にしなかった。

「乗馬クラブの新年披露会です。冬の時期ですし、屋内外を少し使いましてね。若い騎手の紹介、馬術の簡単な実演、退役軍人会の方々への席、地元名士の挨拶。それから、今の情勢ですから、フィンランド支援の寄付も合わせたいと考えています」

ヒトラーは目を閉じた。

「全部だ」

「はい?」

「馬、若者、退役軍人、名士、挨拶、寄付、フィンランド。全部入っている」

フェーゲラインはにこやかに両手を広げた。

「それだけ多くの方に関心を持っていただけるということです」

「違う。関心ではない。荷物だ。机の上に全部置くな」

エルゼは椅子に座り直し、書類用紙を一枚出した。

「確認します。主催者はどちらですか」

「ミュンヘン郊外の乗馬クラブが中心です。ただ、退役軍人会とスポーツ協会にも協力をお願いしています」

「支払い責任者は」

「それは、最終的には実行委員会で」

エルゼはペンを置いた。

「最終的、という言葉は帳簿に載せにくいです」

フェーゲラインは笑った。

「いや、もちろん責任者は立てます」

ヒトラーが言った。

「立てるな。座らせろ。そして署名させろ」

カイテルが二階から降りてきた。

「内容確認書を用意しますか」

「まず椅子の数を聞け」

ヒトラーが言った。

フェーゲラインは首を傾げた。

「椅子ですか」

「そうだ。椅子の数で嘘が分かる。小さな催しと言って椅子が多ければ、誰かが長く話す。馬術披露と言って客席が大きければ、馬より人を見せたい。慈善と言って入口正面に寄付箱を置くなら、催しではなく関所だ」

フェーゲラインは少し困ったように笑った。

「所長、ずいぶん疑い深い」

「あなたが浅すぎる」

エルゼが淡々と言った。

「椅子の概数をお願いします」

フェーゲラインは咳払いした。

「来賓用が二十、退役軍人会が三十、一般客用に百ほど」

「小さい催しで百五十席か」

ヒトラーは机に手を置いた。

「馬は何頭だ」

「白馬を一頭、中心に置こうかと」

「中心に置くな」

「まだ説明の途中です」

「中心と言った時点で終わっている」

フェーゲラインは初めて笑みを弱めた。

「白馬は絵になります。冬の慈善行事ですし、フィンランドへの支援を表すなら、雪と白馬は分かりやすい」

ヒトラーは低く言った。

「また白か」

ユンゲのペンが、紙の上で止まった。

フェーゲラインは首をかしげた。

「冬ですから」

「冬なら何を白くしてもよいと思うな」

「白馬は清らかな印象を与えます」

「馬を清らかな印象の道具にするな」

「道具ではありません。象徴です」

「象徴にすると、たいてい道具になる」

応接の空気が少し冷えた。

外から馬車の音が聞こえたわけではない。ただ、誰かが濡れた道を歩く足音が扉の外を通り過ぎただけだった。

フェーゲラインは少し声を柔らかくした。

「所長、これは政治ではありません。馬術と慈善です」

ヒトラーは即座に返した。

「その二つに退役軍人会を混ぜた時点で、政治の匂いがする」

「匂いますか」

「馬小屋より強い」

フランツが今度こそ咳払いをした。

エルゼは表情を変えずに書き続けた。

「寄付箱の位置は」

フェーゲラインは答えた。

「入口の正面がよいかと。来場者に分かりやすい」

「却下だ」

ヒトラーが言った。

「なぜです」

「入る前に金を取るな。見てもいない者に、感動を請求するな」

フェーゲラインは肩をすくめた。

「では出口に」

「出る者の背中を捕まえるな」

「では、どこに」

ヒトラーは机に置かれた紙を一枚引き寄せ、鉛筆で簡単な平面図を描き始めた。馬場、観客席、入口、控え室、寄付受付、案内板。線は粗いが、通路の幅だけは妙に正確だった。

「ここだ」

彼は会場の横、主導線から少し外れた位置に印をつけた。

「見た者が、自分で歩いて行ける場所に置け。寄付箱は道を塞がない。人を待ち伏せしない。泣かせてから金を取らない。馬を見せてから金を取るのも、まあ、程度による」

ユンゲが静かに言った。

「程度による、ですか」

「馬が良ければな」

フェーゲラインは少しだけ笑みを戻した。

「では白馬は」

「飾るな」

「飾らない白馬ですか」

「馬は馬でよい」

「しかし、白馬を正面に置けば新聞写真に映えます」

ヒトラーは顔を上げた。

「新聞写真のために馬の立つ場所を決めるな。馬は紙面に載るために立っているのではない」

「所長、あなたは馬がお嫌いだと聞いていましたが」

「馬が嫌いなのではない」

ヒトラーは鉛筆を置いた。

「馬の上に乗ると、自分まで立派になったと思う人間が嫌いなのだ」

少しの沈黙が落ちた。

フェーゲラインは、その沈黙を笑いで崩そうとしたが、うまくいかなかった。

エルゼが代わりに事務の声で切った。

「白馬は使用可。ただし中央装飾扱いにはしない。寄付箱は主導線外。入口正面不可。壇上は低く。来賓席は必要最小限。演説時間は事前に提出。支払い責任者は署名必須」

カイテルが確認書の形にまとめながら言った。

「退役軍人会席については、段差と通路幅を確認します」

ヨードルが階段の上から顔を出した。

「日程はいつですか」

フェーゲラインは上を見た。

「1月下旬を考えています」

「準備期間が短い」

「小さな催しですから」

ヒトラーが言った。

「また言った」

ヨードルは表情を変えずに続けた。

「小さな催しなら、なおさら余計な要素を削る必要があります。演説、花束、記念撮影、寄付箱、退役軍人会紹介、若手騎手紹介、馬術実演。すべて入れると、小さな催しではなく短い混雑になります」

フェーゲラインは苦笑した。

「皆さん、実に厳しい」

エルゼが言った。

「年始ですので」

「年始はもう少し華やかでもよいのでは」

ヒトラーは図面の上に手を置いた。

「華やかさは最後に足すものだ。最初に入れると、通路を塞ぐ」

フェーゲラインは机の上の平面図を覗き込んだ。

「しかし、所長。白い馬はやはり正面に欲しい。来場者が入ってすぐに見える位置に」

「だめだ」

「なぜそこまで」

「白い馬を飾るな」

ヒトラーの声は大きくなかった。

だが、その一言で、応接机の周りの者は全員、少し姿勢を変えた。

「白いものは便利だ。清潔に見える。正しく見える。悲しく見える。勇敢にも見える。だから危ない。フィンランドを白い馬に乗せるな。馬を小さい国の代わりに立たせるな。雪景色を作って、そこで金を集めるな」

フェーゲラインは、ようやく笑みを消した。

「では、どうしろと」

「馬術を見せろ」

「それでは普通です」

「普通でよい。普通に歩ける通路、普通に読める案内、普通に座れる椅子、普通に出せる寄付。それができてから白い布を探せ」

エルゼが紙を一枚、フェーゲラインの前に置いた。

「概算見積もりは、装飾を抑えた案で作成します。追加装飾を希望される場合は、別見積もりです」

フェーゲラインは紙を見た。

「別見積もり」

「はい」

ヒトラーは満足げに頷いた。

「華やかさには値段をつけろ。そうすれば、半分は消える」

フランツが小声で言った。

「残り半分はどうします」

「削る」

フェーゲラインは今度は本当に笑った。

「噂通りですね、所長。少々うるさいが、仕上げは確かだ」

ヒトラーは目を細めた。

「少々を取り消せ」

「では、非常にうるさい」

「よろしい」

エルゼが咳払いした。

「褒め言葉として処理しておきます」

ユンゲは記録帳に短く書いた。

フェーゲライン氏、年始相談。

乗馬クラブ新年披露会。

白馬中央配置案、却下。

寄付箱入口正面案、却下。

支払い責任者、要確認。

そして、少し迷ってから、もう一行足した。

白い馬を飾るな。

ヒトラーはその手元を見た。

「ユンゲ君」

「はい」

「それは残せ」

「承知しました」

フェーゲラインは外套の前を整え、手袋を持った。

「では、主催者側に持ち帰ります。所長、ホフマンさん、正式な依頼になりましたら改めて」

エルゼが言った。

「正式な依頼の前に、支払い責任者のお名前をお願いします」

「抜かりありませんね」

「抜かりは帳簿に載りません」

フェーゲラインは苦笑し、名刺入れから一枚抜いて置いた。

「では、こちらへ連絡を」

ヒトラーはその名刺を見て、言った。

「名刺は白いな」

フェーゲラインは笑った。

「そこもいけませんか」

「まだ何も書かれていない白は、許す」

「書いた後は?」

「内容による」

フェーゲラインは帽子を取り、軽く会釈して出て行った。

扉が閉まると、事務所に冬の静けさが戻った。

フランツが窓の外を見た。

「白馬、見たかったですね」

ヒトラーは鉛筆をしまいながら言った。

「見ればよい。飾るなと言っただけだ」

カイテルが名刺を確認書に挟んだ。

「では、正式案件になる可能性あり、という扱いで」

エルゼは頷いた。

「ただし前金確認後です」

ヨードルが階段の上から言った。

「1月下旬は詰まっています。催しを入れるなら、年始予定表の余白を削る必要があります」

ヒトラーは不機嫌そうに上を見た。

「余白を削るな。飾りを削れ」

ユンゲが記録帳を閉じた。

「所長」

「何だ」

「フェーゲライン氏は、馬場ではもう少し気楽な方に見えました」

「馬場では誰でも気楽に見える。泥が足元を隠すからだ」

エルゼが帳簿を開き直した。

「今日は泥を持ち込んでいませんでした」

ヒトラーは鼻を鳴らした。

「だから信用ならん」

フランツが笑った。

「泥があってもなくても信用しないんですね」

「泥は見える。信用ならんものは、たいてい磨いた靴で来る」

窓の外では、灰色の雪が少しだけ残っていた。

ヘルシンキの名は、まだ予定表の上にあった。

だが、その予定表の紙は、冬の湿気を吸って、端からわずかに波打っていた。

ヒトラーは机の上の平面図をもう一度見た。

白馬の位置には、何も描かなかった。

そこにはただ、通路の線だけが残っていた。

ジャンル・タグ

, , , , , , , , ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 3 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

財団法人はるな会

財団法人はるな会

人とAIによる共著作品発表のため団体という形のペンネームにしました。複数の世界を、ゆっくり旅する物語を書いていきます。ChatGPTことチャティを相棒としてストーリーの概要や場面についてを対話する形で...

👥 フォロワー: 6人

作者ページを見る