第37話 縦に置かれた失敗
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1940年2月。
ミュンヘンの冬は、年が明けても遠慮を知らなかった。
雪は積もるほどではない。だが、石畳の隙間に薄く残り、人が踏むたびに黒い水となって道へ伸びる。朝の空気は冷たく、外套の襟を立てた通行人たちは、どこか皆、肩を少し縮めて歩いていた。
アドルフ・ヒトラー意匠事務所は、その朝からすでに詰まっていた。
詰まっていた、というのは比喩ではなかった。
旧帽子店だった一階の入口には、見本帳を抱えた助手が立ち止まり、階段の下では木箱を持った現場補助員が上を見上げていた。二階からは紙筒を抱えたクレープスが降りようとしており、その後ろではフランツが道具箱を持って待っていた。
上から下へ行く者がいる。
下から上へ行く者がいる。
その間に、誰かの帽子、誰かの外套、誰かの図面筒、誰かの謝罪が挟まっていた。
ブルクドルフが階段の途中で言った。
「どちらかが戻れ」
クレープスが答えた。
「こちらは図面を下ろすところです」
一階の現場補助員が言った。
「こちらは木箱を上げるところです」
ブルクドルフは眉を寄せた。
「図面と木箱なら、木箱が勝つ」
クレープスは紙筒を見下ろした。
「寸法記録が潰れます」
「なら、木箱が負ける」
フランツが後ろから言った。
「どちらでもいいので、私の足が負ける前に決めてください」
一階の帳簿机で、エルゼが顔を上げた。
「階段で会議をしないでください。来客が通れません」
「来客が入る場所もありません」
フランツが言った。
エルゼは一瞬だけ黙った。
それは否定しなかった。
事務所は、最初に借りた二階から始まった。後に一階の帽子店が店を畳み、そこを借り足したことで、受付、応接、帳簿、見本帳、倉庫の一部を下へ移せるようになった。
便利になったはずだった。
だが、便利とは、問題が別の形で増えることでもあった。
一階には客が入る。帳簿もある。古い帽子棚には見本帳と紙筒が詰め込まれ、入口脇には現場道具が置かれ、応接机の横を木箱が通る。
二階には製図机が並ぶ。ヒトラーの机もそこにある。特別な部屋などない。ただ、窓際の机だけが妙に正面を主張し、周囲の空気を勝手に所長の領域にしていた。
常勤だけで13人。
さらに大工、塗装職人、看板描き、電気工、運搬人が出入りする日には、事務所は建物というより、途中で止まった搬入作業のようになった。
ヒトラーは二階の机の前に立ち、階段のほうを見ていた。
階段ではまだ、クレープスと木箱とブルクドルフとフランツが折り合いをつけている。
ヒトラーは言った。
「これは階段ではない」
エルゼが一階から答えた。
「階段です」
「違う。これは予定外の倉庫であり、予定外の廊下であり、予定外の待合室だ」
ヨードルが二階の予定表から目を離さずに言った。
「階段待機は予定に含まれていません」
「含めるな」
ヒトラーは階段を睨んだ。
「事務所が上下に割れている。これは建物ではない。縦に置かれた失敗だ」
ユンゲは一階の受付机で記録帳を開いていた。
「記録しますか」
「しろ」
彼女は短く書いた。
縦に置かれた失敗。
エルゼは帳簿を閉じた。
「所長、物件探しを本気で進めるなら、条件をはっきりさせる必要があります」
ヒトラーは二階の手すりから身を乗り出した。
「条件は明らかだ。階段で仕事をするな」
「それは条件ではなく苦情です」
「では条件にしろ」
エルゼは紙を一枚出した。
「一つ。ワンフロアで収まること」
「当然だ」
「二つ。受付、応接、製図、帳簿、倉庫が無理なく配置できること」
「当然だ」
「三つ。家賃が払えること」
ヒトラーは少し黙った。
「……当然だ」
フランツが階段から顔だけ出した。
「今、少し遅れましたね」
「フランツ、木箱に戻れ」
エルゼは続けた。
「四つ。所長の自宅から徒歩圏内」
ユンゲが顔を上げた。
「そこは譲れないのですね」
ヒトラーは階段を下り始めた。
「事務所へ行くのに車を必要とする時点で、その事務所は遠い」
「社用車はあります」
「車は現場へ行くためにある。自分の机へ行くためではない」
エルゼは頷いた。
「では、その条件で候補を絞ります」
「候補はあるのか」
「午前にホフマン氏の写真館へ寄ったあと、午後に一件見られます」
ヒトラーは足を止めた。
「もうあるのか」
「所長が三日前から階段に怒っていたので」
「私は建物に怒っていた」
「建物は聞いていません。人が聞きました」
ユンゲが記録帳を閉じた。
「写真館への現像受領票と、午後の候補地の住所控えは用意してあります」
ヒトラーは彼女を見た。
「同行は君か」
「はい。受領記録と、物件見回りの記録が必要ですので」
「運転は」
「私が」
フランツが階段からようやく降りてきた。
「私は搬入確認があります」
カイテルが一階奥から言った。
「私は先方確認です」
ヨードルが二階から言った。
「私は予定表から動かせません」
クレープスが紙筒を抱えながら言った。
「私は図面を救出します」
ブルクドルフが木箱を床に置いた。
「私は階段を空けます」
ヒトラーはユンゲを見た。
「君は馬だけでなく車も扱うのか」
ユンゲは淡々と答えた。
「ポルシェワーゲンは馬より止まりやすいです」
「止まる車は困る」
「必要な時に止まる、という意味です」
エルゼが鍵を渡した。
「事故を起こさないでください。車両修理費は今月の帳簿に入れたくありません」
ヒトラーは鍵を見た。
「事故を心配する相手が違う」
「では、所長も車内で大きな身振りをしないでください」
「私は運転しない」
「だからです」
事務所の前に置かれていたポルシェワーゲンは、小さな車だった。
1931年に売り出された小型実用車で、低燃費と都市間移動のしやすさを売りにしていた。古い広告には、ポルシェ博士設計、小型実用車、今冬発売、分割払い相談可、という文字が並んでいた。
高級車ではない。
だが、ヒトラーはこの車を気に入っていた。
「小さいことを恥じていない車は信用できる」
それが彼の評だった。
ユンゲが運転席に座り、ヒトラーは助手席に乗った。資料写真を入れるための封筒と、物件候補の控えが後ろに置かれている。
車はゆっくりと通りへ出た。
ヒトラーはしばらく黙っていたが、角を曲がったところで言った。
「馬より車のほうがよい」
「なぜですか」
「馬は道の真ん中で自分の考えを持つ」
「車にも癖はあります」
「癖は直せる。馬は説得が要る」
ユンゲは前を見たまま言った。
「馬は、説得すれば聞くこともあります」
「人間よりましだな」
「そう思います」
ヒトラーはちらりと彼女を見た。
「今のは私への批判か」
「馬一般への評価です」
「なお悪い」
ホフマンの写真館は、通りの角にあった。
入口の硝子には、肖像写真、舞台写真、建築写真の見本が整然と貼られている。中に入ると、薬品の匂いと紙の匂いが混じっていた。奥には暗室へ続く扉があり、壁際には現像済みの写真袋がいくつも並んでいた。
ホフマンはカウンターの奥から顔を出した。
「ヒトラー、相変わらず時間ぴったりだな」
「写真を待たせると、構図が腐る」
「腐るのは薬品だ」
ホフマンは笑い、棚から大きな封筒を取り出した。
「例の資料写真だ。会場正面、入口、柱、天井、照明位置。文句を言われそうなものは多めに焼いておいた」
ヒトラーは封筒を受け取り、すぐに一枚取り出した。
「柱が邪魔だ」
「写真の中の柱にまで怒るな」
「写真になったことで、邪魔さが永久になる」
ホフマンは肩をすくめた。
「君は写真を記録だと思っていないな」
「写真は、現実がどこに立たされているかを写すものだ」
「普通は現実を写すと言う」
「普通の写真がつまらない理由だ」
ユンゲは受領票を確認し、封筒の枚数を記録した。
その横で、若い女性が一枚の写真を手に取っていた。明るい目つきで、こちらの会話を面白がっているようだった。服装は華やかすぎないが、色の選び方にどこか写真館らしい軽さがあった。
ホフマンが言った。
「そうだ、紹介しておこう。エヴァだ。うちで写真や服飾まわりの手伝いをしている」
エヴァは軽く会釈した。
「エヴァ・ブラウンです」
ヒトラーは短く頷いた。
「ヒトラーだ」
「知っています。写真に怒る人でしょう」
ホフマンが笑った。
「間違ってはいない」
ヒトラーは不満そうに言った。
「写真が悪い時だけだ」
エヴァは首を傾けた。
「つまり、ほとんどいつも?」
ユンゲのペンが紙の上で一瞬だけ止まった。
ホフマンは口元を押さえた。
ヒトラーはエヴァを見た。
「あなたは写真を甘やかす側か」
「いいえ。見られ方を考える側です」
「同じことだ」
「違います。甘やかすのではなく、立たせるのです」
ヒトラーは少しだけ目を細めた。
「立たせる?」
エヴァはユンゲのほうを見た。
「たとえば、あなた」
ユンゲは顔を上げた。
「私ですか」
「姿勢がいいわ。背筋もきれい。でも、少し地味すぎる」
ヒトラーが即座に反応した。
「勤務中だ」
エヴァは笑った。
「勤務中だからこそです。受付や記録の人は、最初に見られるでしょう」
ユンゲは落ち着いて言った。
「記録係ですので、目立つ必要はありません」
「目立つ必要はないけれど、沈む必要もないわ」
ヒトラーは封筒を置いた。
「人間を壁から浮かせるな」
エヴァは楽しそうに彼を見た。
「壁紙の話ではありません」
「服も壁紙に近い。面積がある。色がある。騒ぐ」
「騒がせるんじゃなくて、明るくするの」
「布は明るくなると態度が大きくなる」
エヴァはユンゲの襟元を見た。
「明るい青のブラウスか、少し柔らかい色のスカーフ。上着も、もう少し短くしていいと思う。顔まわりが生きるわ」
「首元を騒がせるな」
ヒトラーが言った。
「所長さん、服にも怒るの?」
ユンゲが静かに言った。
「紙にも怒ります」
ホフマンが続けた。
「写真にも怒る」
ヒトラーは二人を見た。
「紙と写真は怒られる理由がある」
エヴァは言った。
「服にもあります」
「服は身体を覆えばよい」
「それでは洗濯物です」
ホフマンが吹き出した。
ヒトラーは黙った。
それは負けを認めた沈黙ではない。今の言葉をどこから切るべきか、刃物を探している沈黙だった。
エヴァはその隙に続けた。
「ユンゲさんは、少し明るいものを入れた方がいいわ。派手にするのではなく、顔色を起こすの。写真に写った時も、受付に立った時も、そのほうがいい」
ユンゲは少し困ったように、しかし不快ではなさそうに答えた。
「考えておきます」
ヒトラーが言った。
「考えるな」
ユンゲは彼を見た。
「所長」
「考えるなら、事務所に持ち込む前に私に見せろ」
エヴァは笑った。
「許可制なの?」
「事務所の印象に関わる」
「ほら、やっぱり印象を気にしている」
ヒトラーは封筒を持ち直した。
「入口の幅の次だ」
「次なら十分大事です」
ホフマンが言った。
「ヒトラー、彼女は時々こういうところを突く」
「突く場所を選べ」
「選んでいます」
エヴァが言った。
「地味なところを」
ヒトラーは写真袋を抱え、ユンゲに向き直った。
「行くぞ。物件を見に行く」
ユンゲは受領票に署名をもらい、控えをしまった。
エヴァは帰り際に言った。
「ユンゲさん、今度、色見本を見せてあげる」
ヒトラーが振り向いた。
「見せるな」
「所長さんには見せません」
「なお悪い」
ホフマンは笑いながら二人を見送った。
昼食は、写真館から少し離れた食堂で簡単に済ませた。
ヒトラーはスープの皿の縁を見て、厚すぎると言った。ユンゲはそれを記録しなかった。午後に見る物件の住所を確認し、写真袋を膝の上に置いた。
「所長」
「何だ」
「エヴァさんは、見るところが少し違いますね」
「余計なところを見る」
「余計とは限りません」
「首元は余計だ」
「受付の印象は、入口の一部かもしれません」
ヒトラーはスプーンを置いた。
「君まで布の側につくのか」
「記録の側です。印象も記録されます」
「悪い写真館だ。人を惑わせる」
「写真は現実がどこに立たされているかを写すもの、では」
ヒトラーは黙った。
それから、少し不機嫌に言った。
「引用するな」
午後、ポルシェワーゲンはミュンヘンの通りを抜け、候補地へ向かった。
その建物は、ヒトラーの自宅から歩ける距離にあった。通りは騒がしすぎず、しかし寂れてもいない。近くに印刷屋と文具店があり、少し先に郵便局もある。荷物の出入りには悪くなさそうだった。
建物の前には、ボルマンが立っていた。
濃い外套を着て、帽子を手に持ち、すでにそこが半分自分の持ち場であるかのような顔をしている。
ヒトラーは車から降りるなり言った。
「あなたが先にいると、建物がすでに何かを約束したように見える」
ボルマンは笑みを浮かべた。
「所長、よい建物があります」
「それは今から見る」
「以前は法律事務所が入っていました。受付、応接、製図室、倉庫、所長室、すべて同じ階です」
ヒトラーは黙った。
ユンゲはそれを見て、記録帳を開いた。
「すべて同じ階」
ボルマンは続けた。
「さらに、所長のご自宅から徒歩圏内です」
ヒトラーは建物を見上げた。
「どの程度だ」
「急がず歩いても十分ほどです」
「十分は徒歩圏だ」
「裏に小さな駐車場所もあります。ポルシェワーゲンなら十分入ります」
ヒトラーは少しだけ視線を動かした。
建物の横を抜けると、たしかに小さな駐車場所があった。大きな車には狭い。だがポルシェワーゲンなら無理なく入る。荷物の積み下ろしにも使えそうだった。
「小さい車を小さい場所に入れる。合理的だ」
ユンゲが言った。
「珍しく褒めましたね」
「車を褒めた。建物はまだだ」
ボルマンは鍵を取り出した。
「では、中をご覧ください」
入口を開けると、かつての法律事務所の名残がすぐに分かった。
正面には受付の跡がある。壁には外された看板の釘穴が残り、床には長く使われた机の跡が薄く残っていた。右手には応接に使われていた部屋。奥には重い扉のついた執務室。横には書類を保管していたらしい小部屋があり、裏口へ抜ける通路もあった。
すべてが同じ階にあった。
ヒトラーは入口に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
ボルマンはその沈黙を好意的に受け取ったようだった。
「いかがです」
「まだだ」
ヒトラーは一歩入った。
「法律家は嫌いだが、部屋の分け方だけは悪くない」
ユンゲが書いた。
部屋の分け方、悪くない。
ボルマンは言った。
「こちらが受付です」
「受付だった場所だ」
「こちらが応接」
「応接だった場所だ」
「奥が所長室にちょうどよろしいかと」
ヒトラーは振り向いた。
「所長室という名前で部屋を売るな」
ボルマンは笑った。
「机を置けば所長室です」
「机が部屋を偉くするのではない。部屋が机を正しく置けるかだ」
ユンゲのペンが動いた。
机が部屋を偉くするのではない。
ヒトラーは歩き始めた。
「受付はここだ。客をここで止める。奥へ入れるな。応接は右。待たせるなら窓側ではない。窓を見ると人は長居する。製図室は奥の広い部屋だ。光がいる。帳簿は入口に近すぎるな。金の匂いを客に嗅がせるな。倉庫は裏口側。木箱は客に見せるものではない」
ボルマンがにこやかに言った。
「かなり具体的ですね」
「見ているだけだ」
「気に入っていただけましたか」
「まだだ」
ユンゲが言った。
「所長は、気に入り始めると文句が細かくなります」
ボルマンは頷いた。
「では、かなり有望ですね」
ヒトラーは即座に言った。
「勝手に有望にするな」
奥の部屋には、大きな机を置いた跡が床に残っていた。
窓は通りではなく、少し静かな中庭側を向いている。外の音はあるが、入口ほどではない。壁には本棚の跡があり、前の借主が書類を大量に置いていたことが分かった。
ボルマンは言った。
「ここなら所長の机を置けます」
ヒトラーは部屋の中央に立った。
「机だけなら、どこにでも置ける」
「では、何が必要ですか」
「机の周りを人が回れることだ。怒鳴るためではない。図面を広げるためだ」
ユンゲは顔を伏せたまま、少しだけ口元を緩めた。
ヒトラーはそれに気づいた。
「何だ」
「いえ。怒鳴るためではない、と記録しますか」
「するな」
「承知しました」
ボルマンは別の扉を開けた。
「こちらは書類庫でした。倉庫に使えるかと」
ヒトラーは中を覗いた。
「狭い」
ボルマンは少し身を引いた。
「法律事務所の書類庫としては十分だったようです」
「法律家の紙は薄い。こちらの木箱は厚い」
ユンゲが言った。
「ただ、裏口に近いです」
ヒトラーはもう一度見た。
「そこはよい。搬入は客の目に入れるな」
「裏から入れられます」
ボルマンはすかさず言った。
「家主にも、裏口使用の件は確認できます」
ヒトラーは彼を見た。
「確認できます、ではない。もう聞くつもりの顔だ」
「必要になりそうでしたので」
「こちらがまだ決めていないことを、半分決まったことにして持ってくる」
ボルマンは涼しい顔で答えた。
「よい建物は、決断を待ってくれません」
「建物は待つ。人間が待てないだけだ」
ユンゲは記録帳に書いた。
建物は待つ。人間が待てない。
それを見たヒトラーが言った。
「それは残せ」
「はい」
一通り見て回ったあと、三人は受付跡の前に戻った。
外から入る光が床に伸びていた。まだ何もない場所だった。だからこそ、そこには机も棚も椅子も人の流れも、これからいくらでも置けそうだった。
ヒトラーは床を見た。
「ここに受付。右に応接。奥に製図。裏に倉庫。帳簿は入口から見えない位置。来客はここで止める。所員は横を抜ける。紙筒と木箱は同じ通路を通すな」
ボルマンは満足そうに頷いた。
「では、前向きに」
「まだ決めん」
「もちろんです。では、仮押さえとして」
「仮を押さえるな」
「では、押さえずに逃げないようにしておきます」
ヒトラーは顔をしかめた。
「それを仮押さえと言う」
ユンゲが記録帳を閉じた。
「所長、どうしますか」
ヒトラーは答えなかった。
入口から奥まで、もう一度ゆっくり見た。
今の事務所なら、受付から製図机へ行くにも階段を使う。帳簿から応接へ行く途中に木箱があり、資料写真をしまうには誰かの椅子を動かさなければならない。外套を掛ける場所にも困り、雨の日には玄関が濡れ、晴れの日には外部職人が入口を塞ぐ。
ここには、それがない。
少なくとも、まだない。
ヒトラーは低く言った。
「少なくとも、ここでは図面が階段を上らずに済む」
ボルマンは笑った。
「それは、かなり前向きなお言葉です」
「勝手に前向きにするな」
ユンゲが静かに言った。
「記録上は、検討継続とします」
「それでよい」
ヒトラーは出口へ向かった。
「ボルマン」
「はい」
「家賃を聞け。裏口使用。駐車場所。改装の可否。壁を抜けるかどうか。床の耐荷重。暖房。窓。水回り。看板を出せる位置」
ボルマンは頷いた。
「すでにいくつかは確認しています」
ヒトラーは立ち止まった。
「だから信用ならん」
「早いだけです」
「早さは、時々、勝手と同じ顔をする」
ユンゲが書こうとした。
ヒトラーはそれを見た。
「それは書かんでいい」
「承知しました」
外へ出ると、冬の午後はもう少し傾いていた。
ポルシェワーゲンは、小さな駐車場所に静かに収まっていた。大きく見せようとしない車が、大きく見せようとしない場所に置かれている。それは、少なくともヒトラーの目には、悪くない組み合わせだった。
ユンゲが運転席に座る前に言った。
「所長」
「何だ」
「今の建物なら、エヴァさんの言う“印象”も変わるかもしれません」
ヒトラーは助手席に乗り込みながら答えた。
「印象のために移るのではない」
「では、何のためですか」
「線のためだ」
ユンゲは鍵を回した。
「人の通る線ですか」
「机の線、客の線、紙の線、金の線、木箱の線。全部だ」
車がゆっくりと通りへ出た。
ヒトラーは窓の外を見ながら言った。
「事務所は平面で考える。縦に逃がすな」
ユンゲは運転しながら、覚えておくことにした。
記録帳には、あとで書けばよかった。
今は、前を見ている必要があった。
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