第38話 同じ階の契約書
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1940年3月6日。
ミュンヘンの朝は、冬と春のどちらにも決めかねていた。
雪は残っている。だが、白いままではいられない。通りの端に押し寄せられた雪は、石炭の粉と泥を吸って灰色になり、馬車や自動車の通った跡だけが黒く湿っていた。
アドルフ・ヒトラー意匠事務所の一階も、似たような色をしていた。
旧帽子店だった床には、木箱、紙筒、紐束、布見本、古い看板、金具、帳簿箱が置かれている。帽子を並べるための棚には、今や帽子ではなく、整理途中の図面と資料写真が詰め込まれていた。
二階からは、誰かが椅子を動かす音がする。
その下でエルゼが帳簿を閉じ、机の上に契約書を置いた。
「審査は通りました」
ヒトラーは、階段の下で止まった。
「早すぎる」
「順調という意味です」
「順調という言葉は信用ならん。たいてい、誰かが裏で勝手に動いている」
その時、扉が開いた。
ボルマンが入ってきた。
濃い外套に帽子、片手には書類鞄。顔には、すでに物事が半分決まっている人間の笑みがあった。
ヒトラーは彼を見た。
「やはりだ」
ボルマンは帽子を取った。
「所長、おはようございます。よい知らせを持ってきました」
「あなたの“よい知らせ”は、こちらの机を増やす」
「今回は机を置く場所の話です」
「なお悪い」
エルゼは契約書の一部を指で押さえた。
「旧法律事務所跡の借用審査、通過。用途は事務所。受付、応接、製図室、倉庫、所長室相当の部屋、すべて同じ階。裏口使用も条件付きで可。小型車の駐車場所も使用可」
ボルマンが頷いた。
「ポルシェワーゲンなら問題ありません」
ヒトラーは少しだけ沈黙した。
旧事務所の階段では、二階からクレープスが紙筒を抱えて下りようとしており、下からフランツが空の木箱を持って上がろうとしていた。二人は階段の途中で互いを見て、同時に止まった。
ブルクドルフが上から言った。
「どちらか戻れ」
フランツが答えた。
「私は空箱です」
クレープスが言った。
「こちらは図面です」
「空箱が戻れ」
「はい」
フランツは一段下がった。
ヒトラーはその様子を見た。
「同じ階という言葉は、今朝だけは美しく聞こえる」
エルゼが淡々と言った。
「では、契約しますか」
「契約書を見せろ」
「今、見ています」
「違う。私が怒る場所を探す」
エルゼは契約書を差し出した。
「家賃は予定範囲内です。保証金も払えます。昨年分の帳簿は締まりました。未回収はありますが、危険な額ではありません。今年の契約見込みもあります。移転費を入れても、床は抜けません」
ヒトラーは眉を動かした。
「床?」
「帳簿上の床です」
「よろしい。会計がようやく建築を理解した」
「理解したのではありません。比喩を合わせただけです」
ボルマンは鞄から別の書類を出した。
「家主側も前向きです。改装の相談先も二件ほど当たってあります」
ヒトラーは即座に彼を見た。
「なぜもう当たっている」
「決まってから探すと遅いので」
「こちらがまだ決めていないことを、半分決まったことにして持ってくる」
「よい建物は、決断を待ってくれません」
「建物は待つ。人間が待てないだけだ」
ユンゲが一階奥から出てきた。
その姿を見て、ヒトラーは言葉を止めた。
ユンゲはいつもの事務服ではなかった。上は動きやすい上着、下は作業向きのズボン姿。足元には、黒革の乗馬ブーツを合わせている。雨雪の日に履いてくるものと同じだが、今日は完全に引っ越し作業用の実用品に見えた。
ヒトラーは目を細めた。
「ユンゲ君」
「はい」
「君はフィンランドの義勇軍に入るつもりか」
ユンゲは手に持っていた紐束を机に置いた。
「作業しやすい格好を選びました」
「そのうち白い外套まで着るだろうな」
「今日は箱を運ぶだけです」
エルゼが言った。
「少なくとも、裾を引っかける心配はありません」
「エルゼ、君まで義勇軍の補給係になるな」
フランツが空箱を下ろしながら言った。
「ユンゲさんなら、階段で私より役に立ちそうです」
ヒトラーは振り向いた。
「フランツ、比較対象を間違えるな」
「では、馬よりは」
「もっと悪い」
ユンゲは表情を変えずに言った。
「必要なら、上の図面箱を下ろします」
ブルクドルフが二階から顔を出した。
「助かります。だが、重いものは二人で持て」
ヒトラーは言った。
「まるで本当に補給隊だ」
エルゼは契約書を整えた。
「補給隊ではありません。移転準備です」
ボルマンが笑った。
「移転先は、こうした箱もすべて同じ階で動かせます」
ヒトラーは契約書を睨んだ。
「その点だけは、今の発言に価値がある」
午前中は、契約書と荷造りが同時に進んだ。
エルゼは家賃、保証金、支払い日、改装許可、看板掲出、裏口使用、駐車場所の項目を一つずつ確認した。カイテルは家主側への確認書を作り、ヨードルは移転日程表を組んだ。クレープスは図面の箱を分類し、ブルクドルフは運搬の順番を決めた。
フランツは階段を何往復もした。
そのたびに、ヒトラーが言った。
「その階段を忘れるな」
フランツが答えた。
「忘れようがありません」
「新事務所に入ったら、まず階段のないことに感謝しろ」
「建物に感謝するのですか」
「いや、平面にだ」
輸送が乱れたのか、朝刊は昼前の郵便物のような顔をして届いた。
「これは遅版ではない。遅れて来た新聞だ。新聞まで時間にだらしない」
冬戦争の記事が一面を占めていた。フィンランド側の抵抗、講和交渉の噂、北欧をめぐる列国の思惑、そして前線で名を知られた狙撃手の記事が小さく載っていた。
ユンゲが紙面を見た。
「またフィンランドですね」
ヒトラーは新聞を取り上げた。
「白い紙面に白い雪、白い兵士。新聞は白が好きだ」
フランツが覗き込んだ。
「シモ・ヘイヘ、ですか。ずいぶん有名になっていますね」
ヒトラーはユンゲの格好を見た。
「ユンゲ君、シモ・ヘイヘになり損ねたな」
ユンゲは即座に答えた。
「私は狙撃手ではありません」
「箱を狙って運べ。階段で外すな」
ブルクドルフが真面目に言った。
「階段では本当に外さないでください」
エルゼが新聞を見ずに言った。
「誰も狙撃しないでください。家具も人も」
ボルマンは笑ったが、エルゼの目を見て笑いを引っ込めた。
その日の午後、契約書に署名が入った。
エルゼは最後の一枚を重ね、しっかりと角を揃えた。
「これで、新事務所は正式に使えることになります」
ヒトラーは書類を見た。
「紙一枚で部屋が手に入る」
「正確には、紙数枚と保証金です」
「夢がない」
「契約ですので」
ヒトラーは立ち上がり、一階の天井を見た。
その上では、二階の椅子がまた動いている。
「契約書は同じ階にある。事務所もそうなる。ようやく紙と建物の意見が一致した」
ユンゲは記録した。
紙と建物の意見が一致。
ヒトラーはそれを見た。
「それは残せ」
「承知しました」
それから数日、旧事務所は箱の形をした。
受付の後ろには帳簿箱。応接机の上には紐。二階の製図机には、片付けられたはずの紙がまた積まれた。誰かが「これは持っていくのか」と尋ね、誰かが「捨てるな」と答えた。
ヒトラーは失敗案の箱だけは厳しく見張った。
「それは捨てるな」
フランツが言った。
「使わない案ですよ」
「だから残す。使った案は現場に残る。使わなかった失敗は、こちらで飼っておかねばならん」
ユンゲはその横で、失敗案の箱に札をつけた。
失敗案。保存。
エルゼが見て言った。
「保存場所は新事務所で決めてください」
ヒトラーは即座に答えた。
「倉庫ではない。近くに置く」
「なぜです」
「遠くに置くと、失敗を忘れる」
「近すぎると、所長がまた怒ります」
「怒るために置く」
「では、所長室には置かないでください」
ヒトラーは少し考えた。
「所長室という言葉を簡単に使うな」
「新事務所にはあります」
「まだ机を置いていない」
「契約書には部屋があります」
「契約書が部屋を偉くするのではない」
エルゼはため息をついた。
「では、机を置いてから怒ってください」
1940年3月13日。
その日も、事務所は朝から荷造りをしていた。
ユンゲは再び動きやすいズボン姿で、黒革の乗馬ブーツを履いていた。階段で滑らず、箱を持っても裾が邪魔にならない。その実用性は、もはや誰も否定しなかった。
ヒトラーだけが、言わずにはいられなかった。
「ユンゲ君、結局、義勇軍には間に合わなかったな」
「私は事務所の引っ越しに参加しています」
「そちらのほうが確実に重労働だ」
エルゼが言った。
「しかも無給の義勇ではありません。勤務時間です」
ヒトラーは頷いた。
「帳簿に勝てる戦争はない」
その時、外から声がした。
号外だった。
フランツが扉を開け、濡れた紙を手に戻ってきた。
「冬戦争、終結だそうです」
一階にいた者たちの手が止まった。
ボルマンはその日はいなかった。カイテルは確認書を持ったまま、ヨードルは移転日程表の前で、クレープスは紙筒を抱えたまま、ブルクドルフは木箱の蓋を押さえたまま、新聞を見た。
フランツが読み上げた。
「モスクワで講和条約。フィンランドは独立を維持。ただし、カレリア地峡などを割譲。戦闘停止」
ユンゲは記録帳を開きかけたが、すぐには書かなかった。
ヒトラーは号外を受け取った。
紙は湿っていた。インクがわずかに指へ移った。
「終わったのではない」
誰も返事をしなかった。
ヒトラーは紙面の地図を見た。
「線が引き直されただけだ」
エルゼが静かに言った。
「独立は残りました」
「残ったものを勝利と呼びたい者がいる。失ったものを敗北と呼びたい者もいる。だが、地図はどちらにも遠慮しない」
ユンゲが、今度はペンを取った。
ヒトラーは続けた。
「雪の上に線を引くと、春に泥になる」
フランツは窓の外を見た。
通りの雪は、すでに泥になっていた。
ヒトラーは号外を畳み、荷造り途中の箱の上に置いた。
そこには、フィンランド支援展示で使わなかった白い盾の案が入っていた。白馬を中央に置く案を拒んだ時のメモも、別の箱に入っている。
エルゼが言った。
「この新聞も保存しますか」
ヒトラーはしばらく黙った。
「残せ」
「資料としてですか」
「警告としてだ」
ユンゲは書いた。
冬戦争終結。号外保存。警告として。
カイテルが確認書を机に置いた。
「新事務所の鍵は、明日受け取れます」
ヨードルが日程表に線を引いた。
「移転第一便、明後日。大型箱は週明け。製図机は最後です」
ブルクドルフが頷いた。
「階段を使う最後の大仕事です」
ヒトラーは階段を見た。
「最後なら、許す」
フランツが言った。
「階段も喜んでいるでしょうね」
「階段が喜ぶな。人を詰まらせるだけのくせに」
ユンゲは記録帳を閉じた。
「所長、新事務所では、同じ階に置けます」
ヒトラーは号外の置かれた箱を見た。
契約書も、失敗案も、冬戦争の号外も、同じ部屋にあった。
重さは違う。
だが、どれも紙だった。
ヒトラーは低く言った。
「同じ階に置け。紙も、人も、責任もだ」
エルゼが言った。
「契約書は私が持ちます」
「責任は逃がすな」
「逃がしません。家賃も逃がしません」
「家賃の話を締めにするな」
「移転前ですので」
ヒトラーは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
外では、号外を売る声がまだ続いていた。
ミュンヘンの通りには、冬の終わりかけた泥があり、事務所の中には、新しい床へ移るための箱が並んでいた。
白いものは、もうほとんど残っていなかった。
それでも、紙の上には線が残る。
国境にも。
契約書にも。
図面にも。
ヒトラーは、濡れた号外の端を指で押さえ、もう一度だけ言った。
「線は、引いた者の責任だ」
ユンゲはそれを記録した。
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