第二十九話 写真立ての中の知らない顔
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。可憐で不穏な、童話ファンタジー。白兎は、私を救いに来たの?それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第二十九話 写真立ての中の知らない顔
アリスは、花たちの種が入った瓶をそっと棚に戻した。
ノアの部屋の、窓辺に近い小さな棚だった。
瓶の中では、まだ花たちが口々に文句を言っている。
「もう少し右よ!」
「そこだと日当たりが悪いわ!」
「種の身で日当たりも何もないでしょう!」
「気分の問題よ!」
「蓋、ちゃんと閉めてちょうだい。花ネズミがまた来たら大変なんだから!」
「はいはい」
アリスは小さく笑いながら、瓶の蓋をもう一度確かめた。
きゅっと閉まっている。
これなら、花ネズミがまた忍び込んできても、簡単には開けられないだろう。
たぶん。
ワンダラーの生き物は、時々こちらの常識を平然と踏み越えてくるので、絶対とは言えないけれど。
「しばらく、ここにいてくださいね」
「言われなくても動けないわよ!」
「種ですもの!」
「でも助けたことは褒めてあげるわ!」
「だいぶ上からですね……」
アリスは苦笑しながら、瓶を棚の奥へ少しだけ寄せた。
ノアの部屋は、花ネズミの騒動で少し散らかっていた。
星屑みたいに輝く紺色の壁。
クリスタルでできた透明なベッド。
月色のカーテン。
美しい部屋なのに、床には本や小瓶やペンがいくつも転がっている。
アリスはそれを見て、なんとなく申し訳ない気持ちになった。
勝手に入ってしまったのは自分だ。
もちろん、種たちを助けるためだったけれど、ノアの部屋はノアの大切な場所のはずだ。
「ちゃんと戻しておかないと……」
「当然よ!」
「白兎って、見た目より細かいんだから!」
「花瓶の角度まで直されるのよ!」
「でも水やりは丁寧だったわ!」
「腹黒だけど、根腐れはさせない男よ!」
「褒めているのか、悪口なのか、分かりません……」
アリスは床に落ちた本を拾い上げた。
本の表紙は深い青で、銀色の文字が浮かんでいる。
ワンダラーの文字は、読んでいるというより、絡まった糸がほどけるように、文字の方から意味を差し出してくる。
そんな感覚だった。
『扉の眠りと境界の癖』
アリスは小さく瞬きをした。
難しそうな本だ。
読めることと、理解できることは、どうやら別らしい。
アリスはそっと本棚へ戻した。
次に落ちていた薄い本を拾う。
『迷い子の帰し方・初級編』
その横には、やたら分厚い本が落ちていた。
『迷い子の帰し方・上級編・ただし帰りたがらない場合』
アリスは思わず首を傾げた。
「……迷い子にも色々あるのね」
「白兎は昔からそういう本ばっかり読んでたわよ!」
「読んでるくせに、手放すのは下手なのよね!」
「だから腹黒うさぎなのよ!」
瓶の中から、花たちが好き勝手に言う。
アリスは本を棚へ戻しながら、小さく笑った。
ノアらしい、と思ってしまった。
花たちを種に戻したことも、きっとそうだった。
勝手で、不器用で、怖いけど優しい。
アリスは胸元の薔薇のペンダントに触れた。
好きになってしまったからこそ、優しいだけの白兎ではなく、怖いところも、弱いところも、隠しているものも。
知りたい。
そう思う自分が、もう前より少しだけ欲張りになっていることにも気づいていた。
本を棚へ戻していると、棚の奥に小さなものが見えた。
最初は、木目の影かと思った。
けれど違う。
小さな扉だった。
手のひらほどの大きさしかない。
深い紺色の扉で、縁には細かな銀の蔦模様が彫られている。
取っ手は小さな星の形をしていて、扉の上には兎の耳のような飾りがついていた。
「可愛い……」
アリスは思わず呟いた。
けれど扉には、しっかりと南京錠がかけられていた。
小さな扉に、小さな銀色の南京錠。
鍵穴は針の先ほどしかない。
「金庫……にしては小さいわね」
アリスは少しだけ顔を近づける。
扉の向こうからは、何の音もしない。
風も、声も、光も漏れてこない。
ただ、そこにある。
ノアの部屋の本棚の奥に、誰にも気づかれないように隠されている、小さな扉。
アリスはしばらく見つめていた。
気にならないと言ったら嘘になる。
でも、鍵がかかっているということは、開けてほしくないものなのだろう。
アリスは小さな扉から目を離し、本棚から一歩下がった。
扉は、何も語らないまま閉じている。
まるで、ノアの笑顔の奥にあるものみたいだった。
そこにあることは分かるのに、鍵がかかっている。
次に、机の上へ向かった。
インク瓶は幸い倒れていなかったが、羽ペンが机の端から落ちかけていた。
アリスはそれを拾い、丁寧にペン立てへ戻していく。
白い羽。
黒い羽。
銀色の羽。
どれも手触りが違う。
ノアは、この部屋でどんなことを書いているのだろう。
城の報告書。
扉の管理。
女王への返答。
それとも、アリスに見せない手紙。
そんなことを考えながら机を整えていると、ふと、倒れかけた写真立てが目に入った。
アリスは手を止めた。
銀色の細い枠の写真立てだった。
角には小さな薔薇と鍵の模様が彫られている。
ノアの部屋にあるものらしく、美しくて、繊細で、少しだけ寂しい。
写真立ては半分伏せるように傾いていた。
花ネズミが走った時に倒れたのだろう。
アリスはそれを直そうとして、何気なく中を見た。
そこには、三人が写っていた。
ひとりはノアだった。
少しだけ幼い…。
そして、写真の中のノアは、今とは違った。
甘い笑顔ではない。
誰かに見せるために作った笑顔でもない。
もっと自然で、少し照れたような、穏やかな顔をしていた。
そこにいることを安心している人の顔だった。
アリスは、その表情から目を離せなくなった。
ノアが、こんな顔をすることを知らなかった。
真ん中には、女の人がいた。
とても綺麗な人だった。
金色の髪は柔らかく波打ち、肩のあたりで光を受けている。瞳の色までははっきり分からないが、微笑み方がとても優しかった。
その人は、ノアの腕にそっと手を添えていた。
寄り添うような距離。
まるで、昔からそこにいるのが当たり前だったみたいな自然さ。
大人の女性。
落ち着いていて、綺麗で、写真の中にいるだけで周りの空気まで明るくするような人。
そしてもうひとり。
灰色の髪の男の人がいた。
穏やかな顔立ちで、女の人の隣に立っている。
ノアとは違う静けさを持つ人だった。
優しそうで、けれど芯がありそうな目をしている。
とても近い距離で写っていた。
家族のようにも見える。
大切な友人のようにも見える。
ただ、間違いなく言えることがあった。
ノアは、その二人を大切にしている。
写真の中の空気が、それを教えていた。
アリスは、指先が冷たくなるのを感じた。
この女の人。
見たことがある。
チェシャ猫に飲み込まれた時の、白い霧の中。
ノアが守ろうとしていた人。
長い髪。
震える肩。
間違いない。
あの人だ。
アリスの胸が、ぎゅっと苦しくなった。
痛い。
その痛みの理由を、アリスはもう少しだけ知っていた。
ただの不安ではない。
ただの寂しさでもない。
きっとこれは、好きになってしまったから痛いのだ。
ノアは、ずっと前から、この世界で生きている。
扉を開けて、誰かを助けて、誰かを送り、誰かと出会ってきた。
大切な人がいるのは、当たり前だ。
家族のような人。
恩人。
友人。
もしかしたら、もっと特別な人。
いて当然なのに。
胸が苦しい。
なにより、アリスには見せたことのないノアの顔。
そのことが、思ったより深く刺さった。
「……そっか」
アリスは小さく呟いた。
この人が、ノアの大切な人だ。
だから、ノアはアリスに踏み込ませないのかもしれない。
優しく頭を撫でて、綺麗に笑って、ここから先へ来てはいけないと線を引く。
そう思うと、胸の奥がすうっと冷えた。
納得できてしまうことが、悲しかった。
けれど同時に、思い出してしまう。
執務室で、アリスが名前を呼んだ時。
ノアがふいに言葉を失って、頬を赤くしたこと。
ほんの少しでも、ノアも自分を意識してくれたのだと思ってしまった。
その期待が、写真の中の女性の微笑みを見るたびに、ひどく幼くて、恥ずかしいものに思えてくる。
アリスは写真立てを持つ指に力が入りそうになって、慌てて緩めた。
いけない。
写真立てを、そっと元の位置へ戻す。
角度も、できるだけさっきと同じように。
何も見なかったみたいに。
「アリス?」
瓶の中から、花たちの声がした。
「どうしたの?」
「顔色が変よ」
「花ネズミに噛まれた?」
「恋煩いかしら?」
アリスは慌てて首を振った。
「何でもありません」
「その言い方は何でもある時の言い方よ」
「白兎もよくやるわ」
「嫌ですねぇ、秘密を抱える家って」
アリスは返事をしなかった。
でも、見てしまったものは、もう胸の中から消えてくれなかった。
机の上を整える。
ペンを戻す。
紙を揃える。
小瓶を並べる。
きちんと、何もなかったように。
自分がこの部屋で何を見たのか、誰にも分からないように。
最後にもう一度、部屋を見回した。
星屑のような壁。
クリスタルのベッド。
小さな鍵つきの扉。
窓辺近くの棚に戻した、花たちの種の瓶。
そして、机の上の写真立て。
この部屋は美しい。
でも、ただ美しいだけではなかった。
ノアの過去が、静かに息をしている。
アリスの知らない時間が、星屑の隙間に沈んでいる。
アリスは、そっと部屋を出た。
扉を閉める時、ほんの少しだけ迷った。
あの写真立ての中のノアが、まだこちらを見ているような気がしたから。
けれどアリスは、扉を閉めた。
かちり、と小さな音がした。
廊下へ出た途端、息が少し苦しくなった。
胸の奥がぎゅっと詰まって、うまく息を吸えない。
アリスはそのまま、勢いよく階段を登った。
足音が少し大きくなってしまったけれど、止まれなかった。
自分の部屋の扉を開け、ベッドに飛び込むように身体を預ける。
柔らかな布団が、アリスの身体を受け止めた。
けれど、胸の苦しさまでは受け止めてくれなかった。
アリスは枕に顔を埋めた。
大人で、綺麗な女性。
ノアがあんな顔をする相手。
自分とは全然違う。
私は世間知らずで、知らないことばかりで、ノアに守られてばかりいる。
子ども扱いされるのは当然だ。
アリスは枕をぎゅっと掴んだ。
「……いやな子だわ」
声は、布団に吸い込まれて小さく消えた。
ノアの過去に、大切な人がいることを苦しく思うなんて。
ノアが誰かに自然な顔を見せていたことを、寂しいと思うなんて。
そんな自分が、恥ずかしかった。
それでも、消せなかった。
アリスは布団の中で身体を丸めた。
泣きたいわけでもない。
怒りたいわけでもない。
ただ、胸の奥に知らない棘が刺さっている。
抜き方が分からない。
扉の外では、ワンダラーの風が小さく鳴っている。
ノアの家は静かだった。
静かすぎて、自分の心だけが騒がしく聞こえた。
アリスは布団の中で、小さく呟いた。
「私も、ノアの本当の顔が見たい……」
声に出してしまうと、その願いは思っていたより切実だった。
好きだから。
信じたいから。
そばにいたいから。
そして、ただ守られる子どものままではいたくないから。
胸の痛みは、まだ消えない。
けれど、自分の中で何かが芽吹いて、日に日に大きくなっている。
それがどんな花になるのかは、まだ分からない。
けれど、もう見なかったことにはできなかった。