第三十話 秘密のもくもくケーキ
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あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。可憐で不穏な、童話ファンタジー。白兎は、私を救いに来たの?それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第三十話 もくもくケーキ
アリスはベッドの上で丸くなっていた。
ノアの部屋で見た写真が頭から離れない。
窓の外では、昼の光が少しずつ傾き始めている。ワンダラーの午後は、眠たげな蜂蜜みたいに、とろりと部屋の中へ流れ込んでいた。
けれど、アリスの胸の奥だけは、ちっとも甘くならなかった。
布団をぎゅっと抱きしめた、そのとき――。
玄関のベルが静かな部屋に響いた。
ちりんちりん。
銀の鈴を、転がしたような音。
アリスはびくりと肩を揺らす。
ノアだろうか。
そう思ったけれど、ノアならベルを鳴らさずに入ってくるはずだ。
アリスは布団から顔を出した。
ベルがもう一度鳴る。
ちりんちりん。
それから、外から聞き覚えのある声がした。
「おーい! いるんだろ!」
ロビンの声だった。
そのすぐあとに、もっと小さくて柔らかい声が続く。
「お姉ちゃん、いる?」
ネムリだ。
アリスは慌ててベッドから起き上がった。
髪を手で整え、顔を軽く押さえる。
泣いてはいないはずだけれど、きっと少しひどい顔をしている。
それでも、二人を外に待たせておくわけにはいかなかった。
アリスは階段を下り、玄関へ向かう。
扉の覗き窓から外を見ると、そこには茶色の兎耳をぴんと立てたロビンと、ロビンの袖をぎゅっと握ったネムリが立っていた。
アリスはほっと息をつき、扉を開ける。
「遅かったじゃねえか」
開けた瞬間、ロビンが不満そうに言った。
「いるなら早く出ろよ」
「ご、ごめんなさい」
「ロビン、だめだよ。お姉ちゃん、びっくりしちゃうよ」
ネムリはそう言うなり、ぱたぱたと駆け寄ってきて、アリスの腰にぎゅっと抱きついた。
「お姉ちゃん!」
小さな身体が、安心したようにくっついてくる。
アリスは、そっとネムリの頭を撫でた。
「ネムリくん。来てくれたんですね」
「うん。あのね、あのね、今日はロビンと一緒に来たの」
「見りゃ分かるだろ」
ロビンは片手に持った箱を掲げた。
白い箱には、水色のリボンがふんわりとかかっている。結び目には、小さな雲の形をした飾りがぷかぷか揺れている。
「こないだのお詫び。ケーキ買ってきたから、一緒に食おうぜ」
「お詫び……?」
「樹海の件だよ。あと、チェシャ猫の件も少し。俺が全部悪いわけじゃねえけど、まあ、少しは悪かったし」
アリスの頭の中に、樹海で迷ったことや、樹海狼、チェシャ猫に飲み込まれた時のことがよみがえる。
「少し…ですかね…」
「うるせえな。だからケーキ持ってきたんだろ」
ロビンはそう言うと、返事も待たずにドカドカと家の中へ入ってきた。
「あっ…!」
「いいだろ。どうせ白兎いねえんだろ?」
「どうして分かるんですか?」
「いたら、玄関開けた瞬間に俺を睨んでる」
たしかに。
アリスは少しだけ納得してしまった。
ネムリは嬉しそうに紙箱を指さす。
「あのね、あのね。新作のもくもくケーキなの!」
「もくもくケーキ?」
「うん! 食べるとね、すごく美味しくてね、あと秘密なんだけどね……うれしくなっちゃうの!」
「秘密……うれしくなっちゃう……?」
なんだか少し不安な言い方だった。
けれどネムリのきらきらした瞳で見つめられて、アリスは笑って頷いた。
「では、お茶を淹れますね」
ロビンはすでに台所の方へ向かっていた。
「おーい、ティーセットどこだ?」
「あ、待ってください!」
アリスが止めようとした時には、もう遅かった。
ロビンは迷いなく戸棚を開けた。
次の瞬間。
「イテー!!」
大きな悲鳴が、キッチンに響いた。
アリスが駆け寄ると、ロビンの手に白い皿が噛みついていた。
皿の縁には、小さな歯のような模様が並んでいる。模様だと思っていたものが、今はしっかりロビンの指を挟んでいた。
「何だこれ! 皿が噛むなんて聞いてねえぞ!」
「その戸棚の食器たち、凶暴なんです」
「はぁ!? 躾してねえのかよ!」
「自由な子たちで……だからそこを開ける時には、まず子守唄で眠らせてから開けないといけなくて……」
「早く言えよ!」
「言う前に勝手に開けてたんです」
アリスがそう言うと、ネムリもこくこく頷いた。
「そうだよ、ロビン。人の家の戸棚を勝手に開けるのはいけないんだよ」
「ネムリ、お前まで……!」
ロビンは涙目になりながら皿を振った。
アリスは慌てて戸棚の前に立ち、ノアに教わった通り、小さな声で子守唄を歌った。
~眠れ、眠れ、白い皿。
~銀の匙も、青いカップも。
~お茶の時間まで夢を見て。
~静かに、静かに、棚の中。
歌声に合わせて、食器たちはひとつ、またひとつと眠たげに身を寄せ合った。
ロビンの手に噛みついていた皿が、ふにゃりと力を抜く。
かちゃん、と床に落ちる前に、アリスが受け止める。
「ふう……よかった」
「よくねえよ。痛えよ」
ロビンは手をぶんぶん振った。
けれど、それ以上文句は言わずに静かに椅子へ座る。
「……じゃ、お茶頼む」
「はい」
アリスは少し笑いそうになりながら、眠った食器たちの中からティーカップを取り出した。
ポットに茶葉を入れ、お湯を注ぐ。
ふわりと紅茶の香りが広がった。
湯気の中に、小さな花の影が一瞬だけ浮かび、すぐにほどけて消える。
ネムリは椅子にちょこんと座り、両手を膝の上に置いている。
ロビンはキッチンを見回して、鼻で笑った。
「いつ見ても悪趣味な家だな。フリルだの、花柄だの、落ち着かねえ」
「そう?」
ネムリが首を傾げる。
「僕はとってもかわいいと思うな~。白兎のあの白いふわふわの耳ともピッタリ」
「はあ。お前、騙されてるな」
ロビンは椅子の背にもたれた。
「あいつは普段、あんな甘ったるい顔で笑ってるけど、腹ん中は真っ黒な焦げ砂糖うさぎだぞ」
「焦げ砂糖うさぎ……」
アリスは思わず復唱してしまった。
たしかに、少し分かるような、分からないような。
甘いのに、苦い。
ぴったりなような気もして、アリスは少しだけ笑ってしまった。
「まあ、それよりケーキだ。早く食おうぜ」
箱を開けると、白い霧が、もくもくと箱の中からあふれ出した。
「わ……!」
そこには、小さな雲型のケーキが並んでいた。
水色とピンクの渦巻き模様。
ふわふわのクリームが雲のように盛り上がり、所々に銀色の小さな粒が光っている。
そのクリームから、白い霧がほわほわと立ち上り、小さなひつじ雲になって、ケーキの上をふわふわ漂う。
「わぁ、これが……もくもくケーキ……?」
「すげーだろ。なかなか買えない人気商品なんだぞ!」
「そんな貴重なもの、いいんですか?」
「いいの、いいの」
ネムリがにこにこ笑った。
「だって、お姉ちゃんはチェシャ猫から僕を助けてくれたでしょ?」
ネムリは真剣な顔で言った。
「僕、うれしかったよ」
アリスは何も言えなくなった。
代わりに、そっと微笑む。
「……ネムリくん」
ロビンは少し照れたように鼻を鳴らした。
「そういえば、お前、アリスなんだろ?」
アリスの手が止まった。
紅茶を注いでいたポットの先から、最後の一滴が落ちる。
ぽちゃん、と小さな音がした。
その音だけが、急に大きく聞こえた。
「……えっと、何のこと」
「今さら隠すな。あの時、マッドがあんだけ堂々と呼んでたし、白兎も否定しなかっただろ」
ロビンはじろじろとアリスを見る。
それから、信じられないという顔で首を傾げた。
「けど、俺の目からはどう見ても、ちんちくりんの子ぶた娘にしか見えねえんだけどな」
「ちん……」
「ロビン!」
ネムリがぷくっと頬を膨らませた。
「お姉ちゃんに失礼だよ」
「事実を言っただけだろ」
「僕は、子ぶたのお姉ちゃんもかわいいと思うよ」
ネムリはアリスを見上げて、にこっと笑った。
「けど本当のお姉ちゃんも、もちろんかわいいけど」
「ネムリくん……なんで?」
「えっ、チェシャ猫のお腹の中で会った時は、本当のお姉ちゃんの姿だったよ」
アリスは驚いて、そっと自分の髪に触れた。
夢と記憶の狭間では、本当の姿だった。
そのことに、なぜか少しだけホッとした。
「まあ、今さら誰かに言いふらしたりしねーから安心しろよ!」
ロビンはケーキ皿をみんなの前に置いた。
「早く、食おうぜ!」
「わーい! ケーキ、ケーキ!」
その二人の軽さに、アリスは救われ気持ちになった。
フォークを手に取り、小さく切ったケーキを口に運ぶ。
瞬間。
「……!」
思わず、目を見開いた。
口に入れた瞬間、ふわりと雲がほどけるみたいにクリームが溶ける。
水色の部分は冷たい朝の空の味がして、ピンクの部分は花畑で深呼吸した時みたいにやわらかい。
胸の奥に詰まっていた重たいものが、少しずつ軽くなっていく。
もくもく。
ふわふわ。
甘くて、やさしくて、少しだけくすぐったい。
「美味しい……」
アリスは思わず声を上げた。
ネムリが嬉しそうに笑う。
「でしょ!」
ロビンは得意げに鼻を鳴らした。
「だから言っただろ。うまいって!」
アリスはもう一口、ケーキを食べた。
「うん。すごく、美味しいです!」
その時、ネムリがテーブルの上を漂うひつじ雲を指さした。
「お姉ちゃん、次はひつじさんに息を吹きかけてみて」
「ひつじさんに?」
「うん。ふーって」
アリスは言われた通り、テーブルの上を歩いている小さなひつじ雲に、そっと息を吹きかけた。
ふう。
白いひつじ雲がくるりと回る。
そして、ぴょん、と跳ねた。
ひつじだった霧は、白兎の形になった。
長い耳。
ふわふわのしっぽ。
小さな白兎が、ケーキの上をぴょんぴょん跳ねている。
アリスは目を瞬かせた。
「白兎……」
「へえ」
ロビンがにやりと笑う。
「ずいぶん白兎に懐いてるな」
「ち、違います!」
「何が違うんだよ。夢ひつじは、食べたやつが見たいものに変わるんだぞ」
「夢ひつじ……?」
アリスが聞き返すと、ネムリが得意そうに言った。
「もくもくケーキのもうひとつの秘密なの。食べた人の見たいものを、ちょっとだけ見せてくれる夢ひつじがついてるんだよ」
「それを先に言ってください!」
「だって、秘密だもん」
ネムリは悪気なく笑った。
ロビンは白兎雲を指差して、さらににやにやする。
「で? 見たいものが白兎ねえ」
「だから、違います。これは、その……ノアの家に、白兎の形をした物が多いから、たまたま」
「たまたまねえ」
「たまたまです」
アリスは頬が熱くなるのを感じながら、慌てて紅茶を飲んだ。
その時だった。
白兎雲がふわりと背を伸ばした。
小さな兎の形がほどけ、白い霧が人の形へ変わっていく。
白銀の髪。
長い白兎の耳。
赤い瞳。
それは、小さな霧でできたノアだった。
アリスは息を止めた。
霧のノアは、テーブルの上で静かに立っている。
それだけで、胸の奥が跳ねた。
「うわ」
ロビンが半眼になる。
「白兎そのものになったぞ」
「お姉ちゃん、すごいね」
「すごくありません!」
アリスは必死に否定した。
けれど、霧のノアはふわりと微笑んだ。
その笑顔が、いつもの砂糖菓子みたいな笑顔に似ていて。
アリスは、ますます何も言えなくなる。
すると今度は、周りに漂っていたひつじ雲たちが一か所に集まり始めた。
もこもこ。
ふわふわ。
白い霧が少しずつ形を作る。
そこに浮かび上がったのは、ひとりの少女だった。
淡いブラウンの髪。
やわらかな頬。
新緑のような瞳。
アリス本来の姿だった。
「誰だ?」
ロビンが眉を寄せる。
「お姉ちゃんだよ!」
ネムリは自信満々に答えた。
「これが、お姉ちゃんの本当の姿」
ロビンは霧の少女と、目の前のアリスを見比べた。
「……へえ。子ぶたじゃねえんだな」
「当たり前です!」
アリスは思わず言い返した。
けれどその直後、言葉を失った。
霧でできたノアと、本当の姿のアリスが、向かい合っていた。
二人は見つめ合っている。
近づく。
少しずつ。
本当に少しずつ。
白い霧のノアが、アリスの頬へ手を伸ばす。
霧のアリスが、逃げずにその手を受け入れる。
そして、二つの顔が近づいて――。
「わああああああ!」
アリスは真っ赤になって、両手で霧を払った。
白いひつじ雲たちは、ぽふん、と音を立てて散らばる。
テーブルの上に、甘い雲の匂いだけが残った。
「見ました……?」
涙目で尋ねると、ロビンとネムリは、そろってこくりと頷いた。
「見た」
「見たよ」
アリスは両手で顔を覆った。
「忘れてください……」
「無理だろ、今のは」
「お姉ちゃんのうれしいは、白兎さんと仲良くなることなんだね!」
ネムリが無邪気に言った。
アリスはさらに赤くなる。
「な、仲良くっていうか、その……」
「いや、これは仲良くなりたいってより、もっと特別な感じ――」
「ロビンさん!」
アリスが涙目で叫ぶと、ロビンはさすがに口を閉じた。
少しだけ気まずそうに頬をかく。
「……悪かったよ。からかいすぎた」
その言い方が思ったより優しかったので、アリスはますます俯いてしまった。
ロビンはケーキを一口食べてから、ふんと鼻を鳴らす。
「まあ、でも。白兎をどうにかしたいなら、泣いてるだけじゃ無理だぞ」
「どうにか……?」
「お前、白兎に子ども扱いされてんだろ」
図星だった。
アリスは何も言えなくなる。
ロビンは得意げに腕を組んだ。
「なら、あいつをドキッとさせりゃいいんだよ」
「ドキッと……」
「そうだ。白兎をドキドキさせる大作戦だ」
ネムリがぱっと顔を輝かせる。
「作戦! 楽しそう!」
「そうだな~、まずは手料理だな!」
ロビンは自信満々に言った。
「手料理……」
「ああ。白兎が帰ってきた時、お前が料理作って待ってたら、さすがに少しは見る目変わるだろ」
「でも、私、まだ料理はあまり得意では……」
「大丈夫だ。俺もできねえ」
「そっ、そうですか…」
「僕もできないよ」
「そうなんだね……」
アリスは、困ったように笑った。
けれど、ネムリはすでに椅子から降りていた。
「でも、三人ならできるよ!」
その言葉に、アリスは少しだけ迷った。
ノアをドキドキさせる。
その響きは恥ずかしくて、聞いているだけで耳まで熱くなる。
けれど、ただ子ども扱いされるだけの自分から、少しでも変わりたい。
その気持ちは確かにあった。
アリスは小さく頷いた。
「……やってみます」
「よし!」
ロビンが立ち上がる。
「じゃあ、作るぞ。白兎を驚かせる、すげえ料理を」
「何を作るんですか?」
「オムライス」
「すげえ料理、なんですか?」
「卵で包むんだぞ。すげえだろ」
ロビンは真顔だった。
そうして三人は、キッチンに立った。
けれど、作戦は最初から難航した。
まず、ロビンが人参と喧嘩。
「おい、じっとしてろ!」
まな板の上で、人参がじたばた暴れる。
「ロビンさん、野菜に怒鳴らないでください!」
「こいつが逃げるんだよ!」
その横では、ネムリがムラサキねむりかぶのあくびにつられて、こくりと眠ってしまった。
「ネムリくん!?」
「寝たぞ!」
「名前通りすぎます!」
一方、アリスは卵を割ろうとして、つるりと逃げられていた。
「待って!」
卵はころころ転がり、テーブルの下へ逃げる。
ロビンは人参を押さえ、ネムリは眠り、アリスは卵を追いかける。
キッチンは、あっという間に大騒ぎになった。
「白兎ん家の食材、性格悪すぎだろ!」
「ロビンさんが乱暴だからです!」
「卵に逃げられてるやつに言われたくねえ!」
「卵が素早いんです!」
「お姉ちゃん……がんばって……」
「ネムリくん、寝ながら応援してる!?」
何とか野菜を刻み、卵を捕まえ、ご飯を炒める頃には、外の光は夕方に傾いていた。
出来上がったオムライスは、少し不格好だった。
卵はところどころ焦げて、形も少し歪んでいる。
それでも、皿の上にはちゃんと黄色いオムライスがのっていた。
アリスはそれを見て、小さく息を吐いた。
「できた……」
「まあ、食えるだろ」
ロビンが腕を組んで頷く。
「うん。きっと、白兎さん喜ぶよ」
ネムリもにこにこ笑った。
その言葉に、アリスの胸が少しだけ温かくなる。
ロビンは窓の外を見た。
「やべ。もう夕方だ。俺たち帰るわ」
「え、もう?」
「マッドに怒られる。いや、怒るっていうか、静かに見てくる。あれが怖い」
ロビンは箱の残りを片づけ、ネムリの手を引いた。
「じゃあな。白兎がどんな顔したか、あとで教えろよ」
「…えっ」
「言えよ、協力しただろ」
「……はい」
ネムリがアリスにぎゅっと抱きつく。
「お姉ちゃん、またね」
アリスもそっと抱き返した。
「来てくれてありがとう、ネムリくん」
「うん。またロビンと遊びに来るね」
「はい。……でも、戸棚は勝手に開けないでくださいね」
「しつこいな!」
ロビンは耳をぴんと立てながら、ネムリを連れて帰っていった。
扉が閉まる。
家の中は、急に静かになった。
さっきまで笑い声で膨らんでいた部屋が、しぼんだ風船みたいに、すうっと静まり返る。
アリスは食卓に戻り、不格好なオムライスを見つめた。
ノアが帰ってきたら、何と言うだろう。
驚くだろうか。
笑うだろうか。
それとも、また「良い子だね」と頭を撫でるのだろうか。
アリスはケチャップを手に取った。
せっかくなら、何かメッセージを書こう。
そう思って、オムライスの上にケチャップの先を近づけた。
ノアへ。
ありがとう。
おかえりなさい。
どれがいいだろう。
迷っていると、部屋の隅に残っていたひつじ雲が、ふわふわとテーブルへ登ってきた。
「あ……まだいたの?」
ひつじ雲は答えず、オムライスの上でくるりと回った。
そして、白い霧になって形を変えていく。
アリスは息を止めた。
現れたのは、ノアだった。
けれど、いつものノアではない。
甘い笑顔でも、白兎の側近の顔でもない。
写真立ての中で見た、あのノアだった。
少し幼くて、自然で、安心しきったような柔らかな顔。
アリスが、まだ向けられたことのない笑顔。
ケチャップを持つ手が止まった。
胸の奥に、また細い棘が刺さる。
さっきまでロビンとネムリが明るくしてくれた部屋の空気が、急に遠くなる。
夕方の光まで、少しだけ冷たくなった気がした。
夢ひつじのノアは、テーブルの上で静かに微笑んでいた。
誰に向けている笑顔なのか。
考えたくないのに、分かってしまう。
アリスはケチャップをそっと置いた。
オムライスの上には、まだ何も書かれていない。
何も書けなかった。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
アリスは食卓から離れた。
階段を上がり、自分の部屋へ戻る。
扉を閉める直前、もう一度だけ食卓を振り返った。
不格好なオムライス。
その上に立つ、白い霧のノア。
見たことのない笑顔。
アリスは胸元の薔薇のペンダントを握りしめ、静かに扉を閉めた。
かちり。
小さな音が、やけに大きく響いた。