四階に用がある①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
「俺は四階に用がある。何の用だったかは思い出せない」 不条理文学。実験作。問題作。エンディングテーマ曲あり。一部ボイスあり。ヘッドフォン推奨。 ボイス:音読さん ©ondoku3.com エンディングテーマ曲:SUNO AI
本文
一
俺はこの建物の四階に用があった。
何の用だったかは思い出せない。ただ、胸の奥に鈍い焦燥感だけが居座っている。まるで何か大切な約束を忘れているような、あるいは取り返しのつかない締め切りが刻一刻と迫っているような、そんな切迫した感覚だ。頭の中で警鐘が鳴り続けているのに、肝心の理由が霧の向こうに隠れて見えない。
それでも確かに用があったのだ。目的が記憶の底に沈殿したまま形を失っていても、行かなければならないという義務感だけが、胸郭の内側に貼りついて剥がれなかった。義務感というより、もっと原始的な何かだ。皮膚の下に直接刷り込まれたような、反射に近い衝動。エレベーターのボタンを押した人差し指の腹に、まだその感触が残っていた。プラスチックの冷たさと、かすかな抵抗感と、そして押し込んだ瞬間に灯った橙色の光。
建物の内部は、商業施設のような体裁を持っていた。天井は高く、人工の白光が隙間なく降り注いでいた。本物の昼光ではない。影の方向が定まらず、あらゆる物体が等しく照らされて、立体感がどこかぼんやりと崩れていた。床はポリッシュされた御影石調のタイルで、歩くたびに自分の靴底の音が反響した。こつ、こつ、こつ。エコーがわずかにずれて返ってくる。壁際のテナントは看板を掲げているが、業種が読み取れない。文字は読めるが、意味が脳の中で像を結ぶ前に霧散する。ショーウィンドウの中には商品らしきものが陳列されていたが、値札の数字が焦点を合わせようとするたびに滲んだ。
人は多かった。驚くほど多かった。
エスカレーターを流れ下りてくる人々、コンコースを横切る人々、なにかを買って袋を提げて歩く人々。老人、主婦、スーツ姿の男、子供を連れた父親。それぞれが固有の目的地へ向かって動いているはずなのに、群れ全体としては行き先がどこにもないような奇妙な密度感があった。視線が交わる者は一人もいない。俺の存在を認識している者も、おそらくいない。すれ違いざまに肩が触れれば謝罪の言葉が反射的に飛び出すだろうが、それは俺個人へ向けられた言葉ではなく、固形物としての俺の体積への反応に過ぎない。
四階の様子は、おかしかった。
おかしい、という感覚が来たのは、視覚より先に嗅覚だった。何かが違う。下階のフロアには微量に漂っていた食品のにおい、合成樹脂のにおい、大勢の人間が発散する体温の積み重なりが、ここには薄い。代わりに、無臭に近い空気が肺に入ってきた。冷房の風が強く、皮膚の露出部に直接あたって産毛を立てる。俺は思わず腕を摩ったが、それで何かが変わるわけでもなかった。
フロアの構造は下階と同じ体裁を保っていたが、人の密度が急激に落ちていた。往来する人物はいるにはいるが、疎らだった。疎らな分だけ、それぞれの輪郭が際立って見えた。