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四階に用がある②

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/19 📚 シリーズ: 四階に用がある 📝 3,535文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

「俺は四階に用がある。何の用だったかは思い出せない」 不条理文学。実験作。問題作。エンディングテーマ曲あり。一部ボイスあり。ヘッドフォン推奨。 ボイス:音読さん ©ondoku3.com エンディングテーマ曲:SUNO AI

本文

二

美咲と拓也さんが談笑しているのが見えた。俺は遠巻きに二人の会話を聞いていた。

「私、サーモンのお寿司が大好きなんです! 生サーモン、トロサーモン、炙りサーモン……。おいしいですよね!」

美咲の明るい声が響く。

「美咲ちゃんも生が好きなの? 俺も生が大好き。じゃあさ、美咲ちゃん、今度高級寿司店に連れて行ってあげるよ。高級江戸前寿司。美咲ちゃん、好きでしょ?」

「わぁ♪ありがとうございます!」

「いいねえ、トロットロのサーモンピンク色。新鮮な国産天然鮭を生で食いてえなあ、俺もなあ」

天然鮭を生で? 拓也さんは一体何を言っているんだ? あまりにも危険すぎる。

「ちょっと待ってください」

俺は即座に二人の会話を遮った。このままではいけない、そんな強い使命感が俺を突き動かしていた。

「天然鮭は十分に火を通さないと危険ですよ。アニサキス症──食中毒になります」

拓也さんは驚いた顔で振り向き、信じられないと言った表情で俺の顔をまじまじと見つめた。

「はぁ? 何言ってんだお前。実際に生でサーモン食べてるだろ。現実見ろよ」

「そうですよ。浩二さん、おかしいですよ」

「ほらな? 生にビビってんのはお前だけ」

二人は俺を拒絶した。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。丁寧に説明すれば、二人もきっとわかってくれるはずだ。そういう確固たる自信があった。

「いや、そうではなくてですね。大衆寿司店で使われているサーモンは天然鮭ではないんです」

俺は毅然とした態度で言葉を続けた。

「養殖なんですよ。アニサキスの寄生したオキアミを餌としていない。だから加熱しなくても食べることができるんです。そもそも国産でもなくて、ノルウェーやチリから輸入することが多い。生サーモンはノルウェーサーモン──これはアトランティックサーモンの一種なんですが──それを空輸で運んできたもの。トロサーモンは冷凍したトラウトサーモンを使うことが多いんです。トラウトサーモン──サーモントラウトということもありますが──厳密にはサケではなくニジマスなんです。トロサーモンの場合は脂の乗った部位を選別するため、コスト面から考えて圧倒的に冷凍トラウトサーモンを使うことが多い。冷凍せずに空輸を使うとどうしても価格が上がってしまいますからね」

まだ、肝心なことを伝えられていない。命に関わる最も重要な事柄だ。

「あと、一応誤解の無いように補足しておくと、炙りサーモンは火を通しているように思われるかもしれませんが違います。アニサキスを死滅させるには、中心部まで70℃以上または60℃で一分以上の加熱が必要。さっと炙っただけでは意味がないんです。アニサキスは酢、塩、ワサビ、醤油などでは死なず、身の深部で生き続けます。そして──」

「お前な」

拓也さんが俺の言葉を遮った。まだ説明が終わっていないというのに。

「さっきから加熱だの火を通せだのってこだわってるけどさ、トキシラズの寿司食ったことねえの? 国産天然鮭だって火を通さなくても食えるんだ。お前の経験不足だよ」

「アッ──!」

トキシラズの寿司のことを失念していた。確かに国産天然鮭の寿司は存在する。だが、トキシラズが大衆寿司店で出されることはない。一般論が覆されるものではない。

いや、待て。

そうではない。拓也さんはハッキリと高級寿司店と言っていた。最初から議論の土俵は高級寿司店だったのだ。万に一つの出来事が起きるのが高級寿司店だ。

「たっ、確かに拓也さんの言う通りです。トキシラズは国産の天然鮭でした。ですが! ですが、それは適切な冷凍工程を通してアニサキスを死滅させているからなんですよ。生ではなく冷凍なんです! 火を通していないことは事実ですが、厳密には生というわけじゃなくて──」

俺は激しく動揺してしまった。

間違ったことは言っていないのに、これではまるで苦しい言い訳をしているみたいではないか。

「はい、論破! 国産天然鮭の寿司があることは紛れもない事実! 潔く負けを認めろよ」

「うっ……」

俺は何も言い返せなくなってしまった。

何か、何か言葉を繋げなくては。しかし、喉が締め付けられるように詰まり、何の言葉も発することができない。

「なんか私お寿司の気分じゃなくなっちゃいました」

「そうだよね。じゃあさ、ラーメン食べに行こうよ。ラーメン。この先にニューウェーブ系の旨いラーメン屋があるからさ、寄ってかない?」

「わぁ! 私、そのお店知ってます! あそこのダブルスープ濃厚つけ麺、大好き!」

「じゃあさ、これから行こうよ。あっ、そうだ。浩二も来いよ」

俺は拓也さんを見た。勝者の笑み。余裕の表情。そんな空気が感じられた。

「いえ……、俺は四階にも用はあるから……」

俺は力を振り絞ってやっとの思いで言葉を紡いだ。

「そう。なら、しょうがないな。じゃ、美咲ちゃん、行こっか」

「はい! それじゃ浩二さん、今日は失礼します~」

「ああ……、お疲れ……」

二人は四階から立ち去っていった。

俺が食事の誘いを断り二人と別れたのは、けっしていたたまれない気持ちになったからではない。本当に四階に用があったからだ。

--audio-start:{"audioId":"6a2ebdab1593c1dd767f57b5","audioType":"ambient","title":"脳内ミックス","url":"https://pub-7da1aad0507b426ab7d774c64067bff3.r2.dev/audio/2026/06/68fe041f4cc950c2ddb1ab3a/361101c2-7be1-4fbb-8f2f-7037a026e9d7.opus","duration":16.188729,"settings":{"volume":80,"fadeIn":0,"fadeOut":2,"loop":true}}--二人と別れた後も、俺はサーモンの寿司のことが気になって仕方がなかった。

断じて勝ち負けを気にしているのではない。俺は皆がアニサキス被害に遭わないために正確な知識を──。

そもそも高級江戸前寿司店でサーモンを扱うことは稀なのだ。サーモンは江戸前寿司のカテゴリーに入っていない。何故なら、江戸時代に生の鮭を寿司にするなんてありえなかったからだ。天然の鮭のアニサキスリスクは他の魚介類とは危険度の質が違うのだ。天然ヒラメやイカにもアニサキスリスクはあるが次元が違う。天然の鮭はアニサキス寄生率が極めて高く、筋肉の深部まで入りやすい。目視で取り除くことも、捌きで回避することも難しい。職人技で対処するのは困難なのだ。

そして何より大事なのは、サーモンが寿司としてメジャーになれたのは国産天然鮭が理由ではないことだ。養殖サーモンという革命的なアニサキス対策の発明があったからだ。養殖サーモンは昔からあった魚じゃない。“生で食えるサーモン”が発明されたんだ。一九七〇年にノルウェーのヒトラ島にアトランティックサーモンの養殖場が造られたのが始まりだ。この瞬間、「生食厳禁の鮭」から「生食可能なサーモン」に180度変わったんだ。そして、ノルウェー政府による国家プロジェクト──一九八〇年代のプロジェクト・ジャパンによる戦略的なマーケティングの成果。それだけではない。一九九〇年代の劇的な経済変化の影響を見落としてはいけない。ノルウェー国内でサーモンの養殖が成功しすぎて、3万5000トンもの大増産による「不良在庫クライシス」が発生した。そして、日本のバブル崩壊──これがターニングポイントだ!──狂気的な円高への突入、安価な回転寿司店の急成長。これら全てが噛み合わなければ日本でサーモンの寿司が大衆化することはあり得なかった。

今やサーモンは日本の回転寿司で人気ナンバーワンのネタにまで登りつめている。その歴史は人々に永遠に語り継がれるべきシンデレラストーリーなんだ。世界広しといえどもここまで劇的に評価が反転した寿司ネタは他にない。特別なんだ。養殖サーモンは寿司界の特異点、現代の叡智なんだ。

その影響力は国産天然鮭の寿司なんかとは比べ物にならない。高級寿司店のトキシラズは万に一つの例外中の例外。大衆寿司店には出回らないレアケース。それに何より冷凍処理を施しているじゃないか。マイナス20℃以下の極低温で24時間以上──これは家庭用冷蔵庫では困難な基準だ。この徹底した冷凍処理がなければアニサキスは死滅せず、安全とは言い切れない。断じて生食なんかじゃないんだ。生食できるのは養殖サーモンだけなんだ。

俺は間違っていない。俺は負けてなんかいないんだ。

俺は四階に用がある。

何の用だったかは思い出せない。

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冥界焔つむぎ

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