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ここで待ってな

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/16 📚 シリーズ: 八百万の内緒の仕事 📝 1,206文字 ✅ 全年齢

あらすじ

神様も妖怪も、普通に隣にいる。 それが当たり前の現代東京で、 音源オタクの柏木蒼が上野公園で拾ったのは、 硬水を飲んで腹を壊して倒れていた、やたらきれいな男だった。 「軟水……いろはすでいい……頼む……」 なし崩しで同居することになった相手の名は、闇龗神。 飛沫感染担当の龍神で、毎日どこかの湿度を調整しながら、 台風を沈めて帰ってきては冷蔵庫の水をチェックしている。 神様の「仕事」は、人間には内緒だ。 でも蒼は知っている。 こいつ、すごくいい音がする、と。 八百万の神々と妖怪が跋扈する上野を舞台に、 感染症と戦う神様たちのほのぼの日常コメディ。

本文

 飯を食い終わると、玉藻前は当たり前のように蒼を立たせた。

「ごちそうさま。さ、行くわよ」

「……どこに」

「あんた、どうせ今日も家でうだうだしてるだけでしょ。たまには外、出なさい」

 反論する暇もなかった。人付き合いの苦手な蒼にとって、強い流れに逆らうのは、流れに乗るよりずっと難しい。気づけば靴を履かされて、春の昼下がりの上野の街に引っ張り出されていた。くらは「俺、昼寝するわ」と言って、当たり前のように部屋に残っている。誰の家だ、と思ったが、口には出さなかった。

 玉藻前は、街を歩き慣れていた。上野中通りのアーケードを、知った道のように進んでいく。すれ違う店の人間が、何人か会釈をしてきた。蒼の知らない繋がりが、この人にはいくつもあるらしい。

 途中、ころころしたじいさんたちが、串の店先で昼間から赤い顔をしていた。「たまちゃん!」と片手を上げてくる。「あら、じいちゃんたち、もう飲んでるの」と玉藻前が笑った。蒼にも見覚えのある顔だった。名前は、やっぱり知らない。会釈だけ返して、通り過ぎる。

 中通りを抜けて、人通りの少ない横道に入ったところで、玉藻前がふいに足を止めた。

「蒼、あんたここで待ってな」

「え」

「ちょっと、寄るとこあるから。すぐ済むわ」

 言うと、玉藻前は返事も待たず、細い路地のほうへ歩いていった。その背中は、さっきまでのさばさばした空気とは、少し違って見えた。声の調子も、歩き方も。何か、仕事に向かう人間の顔をしていた。

 蒼は、言われた通りに待った。路地の奥で何が行われているのか、見えないし、見に行く気もない。ただ、立ち入ってはいけない場所がある、ということだけは、なんとなくわかった。くらの、あの夕方の路地のばあちゃんの時と、どこか似ている。神様には、人間に見せない仕事の時間がある。それだけのことだった。

 手持ち無沙汰に、蒼はレコーダーを取り出した。横道の環境音を録る。遠くのアーケードのざわめき、鳩の羽音、どこかの店の換気扇の唸り。いつもの癖だった。録っていれば、待つ時間も惜しくない。むしろ、こういう中途半端な場所の音のほうが、あとで使える。

「これ使える」と、誰にともなく呟いた。

 十分ほどで、玉藻前は戻ってきた。

「お待たせ。行きましょ」

「……何してたんすか」

「女の子の用事よ」

 それ以上は、言わなかった。蒼も、それ以上は訊かなかった。訊いたところで、たぶん同じ答えが返ってくるだけだ。

 帰り道、玉藻前はもう、いつものさばさばしたお姉さんに戻っていた。さっき見た「別の顔」のことなど、最初からなかったかのように、くらの水癖の愚痴を喋っている。けれど蒼の中には、あの一瞬が、小さな棘のように残っていた。

 この人にも、くらと同じように、誰にも言わない何かがある。神様というのは、たぶん、みんなそうなのだろう。見えているのに、何をしているかは知られない。蒼はそれを、わざわざ暴こうとは思わなかった。

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灯屋いと

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