録音していいですか
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
神様も妖怪も、普通に隣にいる。 それが当たり前の現代東京で、 音源オタクの柏木蒼が上野公園で拾ったのは、 硬水を飲んで腹を壊して倒れていた、やたらきれいな男だった。 「軟水……いろはすでいい……頼む……」 なし崩しで同居することになった相手の名は、闇龗神。 飛沫感染担当の龍神で、毎日どこかの湿度を調整しながら、 台風を沈めて帰ってきては冷蔵庫の水をチェックしている。 神様の「仕事」は、人間には内緒だ。 でも蒼は知っている。 こいつ、すごくいい音がする、と。 八百万の神々と妖怪が跋扈する上野を舞台に、 感染症と戦う神様たちのほのぼの日常コメディ。
本文
その帰り道のことだった。
玉藻前が、何でもない世間話をしている。くらの水癖の愚痴か、どこかの店の話か、蒼はもう半分しか聞いていなかった。けれど、ふと、その声そのものに耳が引っかかる。
ドアを開けた時にも、いい声だとは思った。けれど、それだけではなかった。玉藻前の声には、聞いたことのない響きが、いくつも層になって混ざっている。日本の音ではない。かといって、どこか一国の音でもない。中国の、インドの、もっと西の——いくつもの土地を渡り歩いてきた音が、一本の声の中で溶け合っていた。歴史の長さが、そのまま音になっている。こんな音は、楽器では絶対に作れない。
気づいたら、蒼は足を止めていた。考えるより先に、口が動く。
「録音していいですか」
玉藻前が、振り返った。きょとんとした顔だった。それから、ゆっくりと唇の端を持ち上げる。
「……それ、口説いてる?」
色気を含んだ、低い声だった。たいていの人間なら、ここで赤くなるか、口ごもるかするのだろう。
「録音していいですか」
蒼は、まったく同じ調子で、もう一度言った。声の響きにしか、興味がない。ほかのことは、本当に、何ひとつ頭に入っていなかった。
玉藻前は、数秒、蒼を見つめた。それから、ふっと噴き出す。
「……口説いてないわね、これは」
からかうつもりが、からかわれた側みたいな顔だった。蒼に、その自覚はない。あるのはただ、録り逃したくないという焦りだけだった。
「で、いいんすか」
「だめ。女の声を勝手に録るもんじゃないわよ」
くらの「録んなよ」と、同じ結論だった。神様の音は、どうしてこう、揃って録らせてくれないのだろう。蒼は内心で深く嘆息して、レコーダーをポケットに戻した。
部屋に戻ると、くらが床で寝ていた。そこに玉藻前が当たり前のように上がり込み、ベッドを占領する。八畳の部屋が、急に狭くなった。
「ちょっと、勝手に寝ないでください」
「いいじゃない、少しくらい。ここ、居心地いいのよね」
蒼は、デスクの椅子にひとり座る。床で寝る龍神と、ベッドを取る九尾の狐。どう眺めても、おかしな部屋だった。
窓の外、電線の上で、やけに大きい烏が一羽、こちらを見ている。蒼は、今日もそれに気づかない。
また、増えた。
やたら顔がよくて、牛丼をもりもり食べて、声に何百年もの音を混ぜて喋る人が、ひとり。何をしているのかは、わからない。たぶん、訊いても教えてくれない。
それでも、いい音のする場所には、いい音のするやつが集まってくるらしい。蒼にとっては、それで、もう十分だった。