エピローグ 駆け抜けよ
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あらすじ
古書カフェ「マロン」の琥珀色の光の中で、二人は出会った。 特撮オタクの中学三年生・相羽勇介は、正義感が高まるとすべての能力がアップする特技を持つ少年。同じく特撮を愛する江村玲愛との出会いは、彼の日常を静かに、しかし確実に塗り替えていく。 クリスマスの夜、交わした小指の約束。だが新年早々、玲愛は交通事故に遭い、記憶を失って目覚める。彼女が覚えているのは、九歳までの記憶だけだった。 「好きという気持ちに、性別も年季も関係ない」 かつて彼女に伝えたその言葉を胸に、勇介は走る。歴代のスーパーヒーローたちが命を懸けて守り続けた「正義の心」を道しるべに、たった一人の少女の笑顔を取り戻すために。 これは、ヒーローに憧れた少年が、本物のヒーローになるまでの物語。 ※作中において実在の人物名などが出ることもありますが、あくまでもリアリティを出すための演出であります。
本文
夜の帳(とばり)が下りる街を、梶山は一人歩いていた。
張り手を喰らった頬の傷が、じくじくと熱を持って痛む。だが、その肉体的な痛み以上に、先ほどロビーで突きつけられた江村玲愛の静かな言葉が、彼の脳裏を何度も激しく殴りつけていた。
『好きという純粋な気持ちを、これから何度踏みにじられようと、私はそれだけは、絶対に曲げない』
(俺は……一体、何をやっていたんだ)
梶山は立ち止まり、深く息を吐き出して冬の空を見上げた。冷たい星々は何の答えもくれない。ただ、己の矮小(わいしょう)さと、独善的な悪意に対する激しい自己嫌悪だけが、鉛のように重く胸の奥底に沈殿していた。
駅へ続くいつもの角を曲がろうとした、その時だった。
薄暗い路地の奥から、ひどく刺々しい、聞き捨てならない男の声が鼓膜を震わせた。
「おい、金出せよ。持ってんだろガキが」
梶山はぴたりと足を止めた。
闇に沈む路地をそっと覗き込む。そこでは、自分より明らかに年下と分かる中学生らしき男女四人組が、見るからに質の悪そうな二人の不良男に、コンクリートの壁際へと追い詰められていた。
(……関係ない)
真っ先に脳裏をよぎったのは、冷徹な自己保身だった。本当に関係のないことだ。一歩、その場を立ち去ろうとして――しかし、彼の足は凍りついたように動かなくなった。
脳裏を過(よぎ)ったのは、涙に濡れながらも、凛として自らの『好き』を貫き通した、あの少女の横顔。
(好きという気持ちを、何度踏みにじられても――)
梶山は、自らの不甲斐なさに激しく舌打ちをした。
「……クソが」
梶山は立ち止まりながらも、気持ちの昂りを感じずにはいられなかった。
(…俺も、ヒーローが好きなんじゃなかったのか?…シャリバンに憧れたんじゃなかったのか?!)
気づいた時には、その足は迷わず前へと踏み出されていた。
大股で路地の闇へと割って入り、怯える中学生たちを背に庇うようにして、二人の不良の前に立ちはだかる。
「やめろよ。相手は年下だろ」
低く、しかし明確な怒りを孕んだ声だった。
「ああ? なんだてめぇ。邪魔すんじゃねえよ、引っ込んでろ」
「ああ、邪魔してやるよ。文句あるか?」
梶山は挑発に乗るように、手前の不良の腕を強く掴んだ。しかし、実戦慣れしている不良たちの動きは容赦がなかった。制空権に入った刹那、もう一人の不良の拳が、梶山の無防備な鳩尾(みぞおち)へと容赦なく突き刺さる。
「ぐっ……、はっ……!」
肺の空気をすべて搾り取られたような衝撃に、梶山は腹を押さえて大きくよろめいた。だが、それでも退かない。
「このっ……!」
激昂した不良の追撃が顔面を捉える。肉の潰れる鈍い音が響き、梶山は激しく壁へと叩きつけられた。切れた口元から、タラリと生暖かい血が滲み出す。
しかし、今日の梶山はそこで心が折れる男ではなかった。泥を這うような悔恨の中で、彼は確かに変わろうとしていた。
「お前ら……ふざけんな!」
咆哮(ほうこう)とともに、梶山は目の前の不良に向かって獰猛なタックルを敢行した。壁に激突させ、その勢いのまま渾身のストレートを顔面へ叩き込む。
不良は不意の反撃にひるみ、鼻を押さえて後退(あとずさ)る。梶山はそいつの襟元を掴んだまま、横から迫るもう一人の不良の腹腹(はらわた)を目がけ、その長い脚を鋭く蹴り込んだ。
「ぐわっ!?」
見事な前蹴りが決まり、男が腹を押さえて悶絶する。間髪入れず、掴んでいた男の額へ、梶山は渾身の頭突きをぶちかました。ゴツ、と鈍い音がして、相手は白目を剥いて地面に崩れ落ちる。
「ってぇ……」
梶山は少し痛そうに自らの額をさすった。粗削りながら、その立ち回りは驚くほど善戦していた。
ところが、勝利の余韻に浸る隙は与えられなかった。
路地のさらに深い暗がりから、ゆっくりと、もう一つの巨大な人影が現れたのだ。さっきの二人とは明らかに格が違う。一回り以上体格のいい、制服を着崩した高校生だった。
「何やってんだよ、お前ら。小汚い中坊相手に手こずってんじゃねえよ」
高校生は、顔を血で汚した梶山を一瞥し、鼻でせせら笑った。
「なんだお前。妙に勇敢だな? ヒーロー気取りかよ」
梶山の顔が、一瞬で引きつった。中学生相手なら体格差でなんとかなる。だが、高校生が現れたとなれば状況は完全に一変する。圧倒的な実力差が、路地の空気を支配した。
それでも、梶山は歯を食いしばり、不格好なファイティングポーズを解かなかった。
「……来いよ」
高校生は面倒そうに肩をすくめると、ゆっくりと歩み寄ってきた。その絶対的な余裕が、逆に底知れない恐怖となって迫る。
耐えかねた梶山が先に動いた。捨て身の、渾身の右ストレート。
だが、高校生は首をわずかに傾けただけで、その拳を軽々と躱した。そればかりか、梶山の伸びきった右腕を強引に掴み、自らの懐へと引き寄せる。
「っ――!?」
ズドン、と、肉厚な肘が梶山の鳩尾に深々とめり込んだ。
今度こそ、声すら出ない。それでも倒れまいと踏ん張る梶山の首根っこを、高校生の大きな手が鷲掴みにした。
そのまま、容赦なくコンクリートの壁に叩きつけられる。
視界が火花を散らす中、正面から鉄拳が飛んできた。
ボカッ! と激しい衝撃が走り、梶山の頭部が大きく横に弾かれた。口の中に生々しい鉄の味が広がる。間髪入れず、顔が下がったところへ、鋭い膝蹴りが顎を突き上げた。
梶山は糸の切れた人形のように、無様に地面へと崩れ落ちた。
ゼー、ゼー、という、彼の荒い呼吸だけが静かな路地に虚しく響く。
高校生は乱れた学ランの袖をパッパと払いながら、つまらなそうに吐き捨てた。
「ヒーローってのはさぁ……強く進まなきゃ意味ねえんだよ、ガキ」
だが、梶山が身を挺して作ったその僅かな隙を、カツアゲされていた男子中学生が見逃さなかった。
「――今だ! 先に逃げろ! 早く!」
彼は恐怖に震えながらも、倒れた男の足に必死で組み付き、女子たちに向かって絶叫した。
「でも――!」
「いいから走れっ!!」
女子二人は涙を流しながら、翻るスカートを翻して、全力で路地の外へと走り出した。
それと同じ頃、俺たち四人は他愛のない特撮トークで談笑しながら、駅前へと続く大通りを歩いていた。
そこへ、路地裏の闇から突如として二人の女子中学生が飛び出してきた。
今にも泣き出しそうな顔で全力疾走し、息を切らしながら、通りかかった俺たちの元へと文字通り滑り込んでくる。
「助けて――っ!」
そのただ事ではない様子に、俺は一瞬で笑顔を消し、彼女たちの目線に合わせて腰を落とした。
「どうした? 何があった」
「ハァ、ハァ……お願い、助けてください! 友達が、奥の路地で悪い人たちに捕まって――!」
女子の一人が、息も絶え絶えに泣きじゃくりながら、俺のダッフルコートを掴む。
「分かった、案内しろ!」
俺は即座に立ち上がると、女子二人を中川くんの元へと押し出した。
「中川くん、こっちを頼む!」
「任せろ! さあ、君たちは早くこっちへ!」
中川くんが鉄壁の包容力で怯える二人を背後に匿う。
俺は一瞬の迷いもなく路地裏へと全力で駆け出した。ゆりかさんと、めぐみさんもその後を追って走る。
暗い路地の奥に踏み込むと、そこでは自分たちより二回りも小さな中学一年生らしき少年たちが、不良たちから一方的な暴力を振るわれている最中だった。
「やめんか、バカどもがァ!!」
俺の肚の底から響く怒号が、暗い路地壁に反響した。
「あ? なんだてめぇは」
勝ち誇っていた不良たちが、一斉にこちらを振り返る。その瞬間、俺の胸の中で、理不尽に対する熱い怒りが限界突破した。
「俺の怒りは爆発寸前――っ!!」
叫ぶと同時に、俺の身体は地を蹴っていた。
夜の闇を切り裂くように跳躍し、先頭の不良の胸元目がけて、完璧なフォームの『ライダーキック』を炸裂させる。ドカァン! と凄まじい衝撃音が響き、男はゴミ箱をなぎ倒しながら派手に吹き飛んでいった。
驚愕して一瞬動きの止まったもう一人の不良に対し、俺は電光石火の速さで踏み込む。右手を開き、相手の顔面を正面から鷲掴みにした。そのまま身体を強引に宙へと持ち上げる。
(―なさけだ。怪我はしないよう手加減はしてやるぜ……!)
脳内でブレーキをかけつつ、そのまま地面へと豪快に叩きつける。必殺の『アイアンクロー・スラム』。背中から強かに打ち付けられた男は、一撃で悶絶して動かなくなった。
「な、何なんだお前は……っ!」
最後に残った、一番大柄な高校生が、驚愕に目を見開いて俺を睨みつける。
「――すべてバッチリ録画してます!」
路地の入り口から、ゆりかさんの凛とした声が響いた。スマートフォンのレンズが、冷たく不良を捉えている。
「これ以上続けるなら、このまま一秒で警察にデータを送信しますからね!」
めぐみさんもその後ろから毅然と言い放った。
高校生はあからさまに舌打ちをすると、一転して卑劣な笑みを浮かべ、ゆりかさんたちを脅迫するように怒鳴り散らした。
「撮るの止めねえと、こいつがどうなっても知らねえぞ!」
高校生は地面に倒れていた男の髪を無理やり掴んで引きずり起こし、その首元に凶悪な腕を絡ませた。ヘッドロックの形だ。
「……梶山?」
その人質となった顔を見て、俺は思わず目を見張った。なぜ、こいつがこんなところにいる。
「えっ、梶山くん?」「嘘、なんで…!」
後ろからゆりかさんたちの驚愕の声が重なる。
梶山の顔は、見る影もないほど血と泥にまみれていた。それでも、朦朧(もうろう)とする目を辛うじて開き、俺を見上げて掠れた声を絞り出した。
「……なんで、お前が……ここに……」
「……ああ、ちょっと通りかかってな。大丈夫か?」
「……大丈夫に、見えるか?……」
「……だよな」
俺は高校生と梶山を交互に見据えた。高校生の太い右腕が、梶山の細い首をがっちりと締め上げている。下手に動けば、本当に首の骨を折りかねない危険なホールドだ。
「スマホを止めろ。でないとこいつの首、ここで折ってやってもいいんだぜ?」
高校生が勝ち誇ったようにニヤリと下卑た笑みを浮かべる。
ゆりかさんが不安そうに俺をちらりと見た。俺は小さく首を振り、目配せで応じる。今は相手を刺激しない方が賢明だ。
「分かった。撮影は一旦止める。だから、そいつを離してくれないか」
「だめだ。お前、スマホを捨ててこっちに来い」
高校生は顎でクイッと俺を挑発し、手招きする。
「嫌だね。何のために?」俺は即答した。
「なーに、ちょっとツラ貸せって言ってんだよ。話があるんだよ、話が」
話? 嘘を吐け。俺を無防備な状態にして、一方的にぶちのめすつもりなのは見え透いている。俺は不敵に笑って言ってやった。
「断る。真っ平ごめんだね」
「あぁ!? こいつがどうなってもいいって言うんだな、ゴラァ!」
不良高校生が激昂し、さらに腕にグッと力を込める。梶山が「ぐっ、う……っ」と苦しげな呻き声を漏らし、顔を赤黒く充血させた。
「きゃあ!」と後ろでゆりかさんたちが悲鳴を上げ、救われた少年たちの顔が青ざめる。
梶山はあれで体格がいい。そう簡単に首がへし折れるとも思えないが――いや、万が一ということもある。
「おい、聞いてんのかガキ!」
「ああっ、聞こえてるよ」
俺はわざとため息をつき、ゆっくりと両手を挙げながら歩き出した。
「分かったよ。その代わり、俺が近づいたら、そいつを絶対に離せよ」
「よーし、最初からそうすりゃいいんだよ、物分かりのいい奴め」
高校生が下劣な勝利の笑みを顔一面に浮かべる。本当に反吐が出るほど嫌な顔だ。
俺は一歩一歩距離を詰め、ついに奴の拳が届く至近距離へと足を踏み入れた。
「へっ、間抜けなガキがよ!」
不良は宣言通り、捕まえていた梶山をゴミのように地面へ放り投げると、その勢いのまま、右の豪腕を大振りに振り回して俺の顔面へと襲いかかった。
俺は咄嗟に両腕を十字に交差させ、ガードの体勢を取る。
ドカァッ! という鈍い衝撃が両腕を突き抜け、脳天まで激しく振動させた。
「オラァッ! どうしたさっきまでの威勢はよォ!!」
奴の怒号とともに、容赦のない拳の乱打が次々と襲いかかる。俺は顔面を死守するようにガードを固め、ただひたすらに耐える。
(……おかしい。いつもなら、ここで『シュピーン!』って音が鳴るはずなのに……!)
攻撃は単調でガードは容易だが、叩きつけられるストレートの一撃一撃に、腕の骨がきしむような悲鳴を上げる。さすがは高校生、これまでの中学生相手とは一撃の重みがまるで違う。
(まさか…! 一日一回変身したら、もうその日は使えないとか、そういう制限仕様なのか…!?)
ドカッ!!
一瞬の隙を突かれ、強烈な前蹴りが俺の腹部を捉えた。俺の身体がくの字に折れ曲がり、そのまま勢いよく後ろのコンクリート壁へと激突した。
「くっ、痛てぇ……っ!」
背中を壁に打ち付けられ、退路を断たれた格好だ。だが、俺は痛みを気合でねじ伏せ、相手の攻撃が終わった一瞬の硬直を突いて、右足の鋭い回し蹴りを放った。
「おっと、危ねえな!」
奴は首をひょいと横に傾げ、俺の蹴りを余裕でかわしてみせる。
「動きが遅えんだよ、ボケ!」
高校生が俺をせせら笑う。
(チッ、こうなったら仕方ねぇ。流星の加護がなかろうが、自分の力だけでブチのめすまでだ。やってやるぜ!)
幸い、力任せでテクニックは大したことはなさそうだ。
俺はすかさず、両腕の肘を直角に曲げ、左手を少し前に、右手を少し後ろにして構える、ウルトラマン80のファイティングポーズを取った。このポーズが、一番実戦に向いてる気がする。もう、一方的に防戦に回るつもりなどサラサラないぜ。
「ガキが、いい加減くたばれやぁぁぁ!!」
奴は勝利を確信したように、全体重を乗せた強烈な右ストレートを俺の顔面目がけて突き出してきた。
直線的な軌道。俺の動体視力が、その拳の弾道をはっきりと捉える。
俺は全神経を右拳に集中させ、決死の『右ストレートのカウンター』を真っ直ぐに放った。
-ドガァッ!!!
完璧なタイミングだった。ヤツのストレートが右の頬をかすって、少しヒヤッとしたが、俺の右拳は、不良高校生の顔面へと寸分の狂いもなくクリーンヒットした。
「ぐ、がふっ……!?」
まさかの痛烈な反撃は、奴にとって完全に想定外だったのだろう。高校生は声にならない悲鳴を上げ、鼻血を派手にブチ撒けながら、仰向けにドサリと地面へと倒れ込んだ。
俺がいつの間にか強くなっていたのか、それともこいつが元々、口だけのたいしたことない奴だったのか。いずれにしても―やったぜ。
その頃、路地の入り口近くの、街灯の届かない暗い陰。
不良中学生の岸田は、その路地の奥で繰り広げられた一部始終を目撃し、完全に硬直していた。彼は鎌田たちの仲間で、少し遅れてこの場所に合流しにきたのだ。
しかし、路地の奥で起きているあまりにも異常な光景に、足が竦んで一歩も動けなくなっていた。
(あ、あいつが……なんでここにいるんだ……)
勇介の姿を認めた瞬間、岸田の顔から一気に血の気が引いた。かつて自分たちを恐怖のどん底に叩き落としたあの男が、今、目の前で大暴れしている。
(っていうか、鎌田の先輩を一撃でぶっ倒したぞ、あの化け物……)
鎌田とは、いま勇介のカウンターを喰らって気絶している不良高校生であり、岸田の二個上の先輩にあたる男だった。だが、日頃から岸田たち後輩に対して横暴の限りを尽くし、時にはカツアゲを強要する鎌田のことを、彼は心の底から煙たがっていた。はっきり言えば、大嫌いだった。
(……けっ、ざまあみろってんだ。これでもう、二度とでけぇ顔はできねぇな)
胸の内で歪んだ快感を覚えながらも、岸田は勇介の視線がこちらに向くのを恐れ、一歩、二歩と音を立てずに後退(あとずさ)った。幸い、勇介はまだこちらに気づいていない。今なら、暗闇に紛れて静かに立ち去ることができる。
間違っても、あの鎌田の仲間だと勘違いされて、あんな恐ろしい拳を喰らうのだけは御免被りたかった。何をされるか分かったもんじゃない。
岸田は背中を丸めると、夕暮れの路地の雑踏へと、音もなく静かに消え去っていった。
地面に倒れ込み、鼻を押さえて悶絶する不良高校生。それを見た他の仲間たちは、あまりの恐怖に蜘蛛の子を散らすように、既に路地の奥へと逃走した後だった。
俺は息を整えながら、襲われていた中学生たちの元へと駆け寄った。見れば、レイさんたちと同じ中学校の制服を着た、一年生たちだった。
「大丈夫かい? 怪我はないか」
「あ…助けてもらって、ありがとうございます…!」
代表の男子中学生が、まだ震える声で頭を下げた。
「大きな怪我がなくて本当に良かった。自分の身体を張って、女の子たちを先に逃がしたんだろ? 凄く立派だったぞ。頑張ったな」
「あ、あの時はとにかく必死で……。後から考えたらめちゃくちゃ怖かったです。でも、二人を守らなきゃって思って……。僕たちは大丈夫です!」
男子中学生は頬を少し赤くしながら、誇らしげに照れ笑いを浮かべた。俺は、この見ず知らずの後輩の勇気ある行動が、どうしようもなく嬉しかった。
「――あと、あの、あの人が最初に僕たちを助けてくれたんです」
彼が真っ直ぐに指差した先。そこには、不良の手から解放され、壁に背を預けて座り込んでいる梶山の姿があった。
やはり、そうだったか。
「きゃあっ!」
その時、背後からゆりかさんと、めぐみさんの鋭い悲鳴が上がった。
「……あっ!」
さっきまでホッとしていた目の前の一年生の顔が、恐怖に急激に強張る。
俺が振り返ると、倒れていたはずの不良高校生が、懐から取り出したであろう伸縮式の金属製警棒をシャキィン! と伸ばし、形相を変えて立ち上がっていた。
「ガキどもが、いい気になってんじゃねえぞ……ぶっ殺してやる!!」
奴は狂ったように叫びながら、右腕を振りかざした。俺もさすがに青ざめる。こんなもので殴られたら「とろろ脳髄」だぜ。
俺の脳天目がけて警棒を振り下ろそうとした。
その、刹那だった。
シュピーン!!!
身体の最深部で、あの硬質で澄み切った効果音が鳴り響いた。変身の合図だ。
来た、やはりヒーローの魂は、俺を裏切らない!
冷たくて澄み切った特異な感覚が、一瞬にして脳内を満たしていく。すべての雑音が消え失せ、世界の動きがスローモーションのようにクリアに切り替わった。
俺は奴が振り下ろした右腕の軌道を完璧に見切り、その手首を左手でガチリと掴んだ。そのまま流れるように身体を反転させ、相手の腕を自分の肩越しに挟み込む。体重を一気にかけ、テコの原理を利用してその肘関節を無慈悲に極めた。
「ぐ、が、ごっ!?」
関節を完全に極められた高校生は、激痛に顔を歪めてその場に崩れ落ちる。俺は警棒を叩き落とすと、腕を解いて即座に距離を取り、立ち上がった。
「俺の怒りは―!」
右腕を抑えながら、執念深くノロノロと立ち上がろうとする敵の顔面を目がけ、しなる右足が空気を切り裂く。超高速の回し蹴りが炸裂。
ブァキッッ!!
そして、回転の勢いを殺さず、そのまま軸を反転。遠心力を極限まで乗せる。
「今!!― 爆発っっ!!!」
完璧なスナップを利かせた、左脚から繰り出される、必殺の後ろ回し蹴りが奴の顔面をとらえた。
―ドビシャァァッ!!!
悪人の巨体が宙を舞い、地面へ激しく叩きつけられる。静寂。不良高校生は今度こそ完全に意識を刈り取られ、顔を押さえたまま地面に激しく倒れ込み、その場でピクリとも動かなくなった。完全勝利だ。
中川くんに匿われていた女子中学生たちも路地へと戻ってき、一年生四人組はお互いの無事を確認し合って涙を浮かべて喜んだ。彼らは俺たちに口々に何度も感謝の言葉を述べると、仲良く手を繋ぎ合って駅の方へと去っていった。
静まり返った路地裏。梶山が、口元の血を袖で乱暴に拭いながら、ふらふらと立ち上がった。
俺は、ゆっくりと彼の方へと歩み寄った。
「大丈夫か」
「……ああ」
「あの子たちを、助けようとしたんだろ?」
「――知らねえよ」
梶山はぶっきらぼうに顔を背けた。
「ただ……放っておけなかっただけだ」
俺は少しの間、その泥塗れの梶山の顔を静かに見つめた。
(レイさんにしたことへの贖罪のつもりだったのか?)
そう問いかけようとして、俺は口を閉じた。そんな無粋な質問は必要ない。俺はただ、最高の笑顔を彼に向けた。
「なんだよ、そのツラは」
「いや。ずいぶんとヒーローらしい、いい顔になったなと思ってさ。――グリッドマンシグマ」
その特撮オタク特有のコードネームを耳にした瞬間、梶山は一瞬だけきょとんとした。それから、意味を理解したのか、ひどく不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「…チッ。俺のことを、あの藤堂武史みたいだと思ってたのかよ。何がグリッドマンシグマだ。あんだけ一方的に殴られといて、なんでそんな綺麗な顔してやがるんだ。嫌みか?」
「そんなこと言ってないって。俺だって今、両腕がめちゃくちゃ痛いんだからな。しばらくは重い物は持てそうにないや」
俺は笑いながら言葉を続けた。
「それにさ、その顔の傷は、誰かを守ろうとして戦った『強さの証』であり、『ヒーローの証明』だ。文句なしに格好いいよ、梶山」
「……お前、なんでそんな爽やかなツラで、そんな気恥ずかしいセリフが吐けるんだよ」
「いいじゃん。これが俺たちの『CLIMAX JUMP』だよ」
俺がウインク混じりに笑うと、梶山は力無く視線を落とし、消え入りそうな声で言葉を絞り出した。
「お前……なんでそんなに、すんなり俺のことを認めてくれるんだよ。……俺は、お前をハメようとしたんだぞ? 江村さんの記憶喪失を利用して、最悪な嘘を吐いて……」
「そんなこと、もう忘れちまったよ」
俺はあっけらかんと言ってのけた。
「認めるべき格好いいことは、ちゃんと認めた方がいい。それだけさ」
「……ふんっ」
梶山は最後まで愛想なく鼻を鳴らしたが、その口元は、隠しきれずに微かに緩んでいた。どこか憑き物が落ちたような、物悲しくも晴れやかな表情で、彼は最後に小さく呟いた。
「……悪かったよ、本当に」
「ああ」
俺は短く、すべてを受け止めるように頷いた。
その時、俺が最後にぶちのめした不良高校生が、顔と右腕を押さえながら、うめき声を上げて弱々しく立ち上がった。俺は彼を睨みつけることもなく、ただ静かに見つめ返した。
同じ相手に、しかも素手と警棒の双方で向かいながらも、二度も返り討ちにされたのだから、完全に戦意を喪失したのだろう。不良は怯えたように肩を震わせると、そのままフラフラと、逃げるように路地の闇へと去っていった。
「あれで……あいつも、少しは変わるのかな」
遠ざかる背中を見送りながら、梶山がポツリと呟いた。
「さあね。正直、俺はあの手の悪党には一ミリも興味ないね」
俺は他人事のように冷ややかに言った。
「…意外と冷めてるんだな」
「悪い奴には容赦しない。それだけさ」
俺が笑いながら肩をすくめると、梶山も小さく声を立てて笑った。
「そうか」
口元を緩ませたまま、梶山はゆっくりと踵(きびす)を返した。
「じゃあな」
「元気でな」
梶山は歩みを止めず、振り返ることもなく、ただ右手を小さく挙げた。
「……ありがとな」
その掠れた声が、夕暮れの街の喧騒に溶けていく。夕日のオレンジ色に染まりながら遠ざかっていく彼の背中は、この路地にやってきた時とは、少しだけ違う気高さと強さを纏っているように見えた。
その一方で、路地の入り口では。
「―聞いてはいたけれど」とめぐみさんが、呆然とした様子で呟いた。
「彼って、あんなに強かったの? 格闘技の有段者か何かなの?」
「…うちの高校の空手部の主将より、よっぽど強いんじゃないのか?」
中川くんが腕を組み、信じられないものを見るような目で深く感心していた。
「まるで本物のヒーローみたい…。とりあえず、私が録画するだけ無駄だったね。…ふふ、あんなの見せられたら、レイが惚れるわけだわ」
ゆりかさんが苦笑いしながらスマートフォンをポケットに収める。
三人は改めて、相羽勇介という男の底知れない器の大きさに、心から舌を巻いていた。
路地裏を出ると、俺たちは駅前でまたの再会を約束し、それぞれの帰路につくために解散した。
夕暮れから夜へと切り替わった道を、俺は一人、自転車のペダルを力強く漕ぎ出した。
街灯が、点々と夜道を照らす光のレールのように灯っていく。冬の澄み切った夜空には、きらきらと星が瞬き始めていた。
(やったぜ。本当に、すべてをやり切った。今日は、いい夢が見られそうだ)
あまりにも激動すぎた一日を振り返りながら、俺は心地よい疲労感とともに自転車を走らせる。
不思議と、カバンの中にある大葉健二氏のブロマイドが、再び微かな温もりを放っているように感じられた。
江村玲愛という一人の少女が、過去の傷を乗り越え、本当の自分を取り戻すための『試練』。その激動のドラマに、一番近くで立ち会うことができた俺は、やっぱり世界一ラッキーな男だ。
確かなことはただ一つ。
俺はレイさんのことが、今日という日を経て、ますますどうしようもないくらいに、大好きになったよ。
これにて任務完了!