平穏を破る異変の影
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
誰もが魔法を使える世界で、セレンだけは生まれつきマナを持たなかった。 「欠陥品」と笑われ、魔法社会の中で不便と孤独を抱えながらも、彼女は幼馴染のケルヒャ・ガロンに支えられ、必死に日々を生きていた。 だが、世界を揺るがす異変をきっかけに、セレンは自分だけの道を見つける。 マナがないなら、理で組めばいい。魔力が足りないなら、仕組みを読み解けばいい。 これは、ゼロマナの少女が物理と理論で魔法を再発明し、やがて賢者と呼ばれるまでの成り上がり譚。
本文
空の境界線が、まるで薄いガラスを叩き割ったかのようにひび割れた。
それは単なる気象の変化でもなければ、誰かが放った強力な魔法による余波でもなかった。ただ、この世界を満たしている「当たり前」の理(ことわり)が、一瞬だけ狂いを見せたのだ。
セレンの叫びも、街の喧騒も、その異変の前では無意味なノイズへと変わる。
ガロンは絶句したように声を漏らし、手に持っていた書類を落とした。紙片が風に舞い、地面へ落ちようとしていたその瞬間――地平線の彼方から、鼓動のような衝撃波が押し寄せた。
ドォォォォン……!
音が、耳から直接突き刺さってくるような重低音。
それが大地を揺らし、屋上の石畳を震わせる。セレンはその振動で膝をつきそうになりながら、必死にバランスを取った。視界の端で、遠くにある防壁や塔の一部が崩れ落ちるのが見える。
「……何かが来た。」
彼女の声は微かに震えていた。だが、それは恐怖よりもむしろ、予測不能な事態に対する身体的な反応に近いものだった。
すぐさま、異常な現象が加速する。
空中に浮かんでいた魔導灯が一斉に火花を散らして消え去り、代わりに歪んだ紫色の放電が空気中を這う。魔法による維持システムが機能不全を起こし、この世界にとっての『当たり前』である便利なインフラが、まるで砂の城のように脆く崩れていく。
下界を見れば、状況はさらに深刻だ。
街の中ではパニックが広がっていた。マナによって動力源を得ている馬車が暴走し、自動点灯していた路灯が爆発したかのような光を放ち、人々が悲鳴を上げて逃げ惑れている。彼らにとって、魔法の喪失は単なる利便性の欠如ではない。呼吸ができなくなることと同義の絶望として迫っているのだ。
一方、セレンには異なる感覚があった。
彼女はこの世界において、「無能」というレッテルを貼られながらも生き抜いてきた。マナがないからこそ、彼女はいつも物理的な強度や、代替手段の確保、そして自分の肉体の限界を計算しながら生きていた。
つまり、魔法の恩恵の上に成り立つ「便利さ」を前提とした生存戦略を持っていない彼女は、この混乱の中で逆説的に強靭な視点を持っていた。
(……みんな、慌てすぎじゃない?)
皮肉な感想が脳裏をよぎる。
魔法に依存している者ほど、その仕組みが壊れた瞬間にいかに無防備であるかが露呈する。一方で、最初から何も持たず、ただ足腰の筋力と道具だけを信じて歩んできた自分は――そう思った瞬間、空気が激変した。
地響きと共に、森との境界線にある丘の上が盛り上がった。
土煙が舞い上がり、そこから「それ」が現れる。
それは本来あるべき姿を歪めた獣だった。体躯は肥大化し、毛皮の間からは不規則な魔力の脈動が見える。まるで周囲の暴走するエネルギーを吸い取って形を変えたかのような、醜悪で禍々しい異形の存在。数頭ではない。少なくとも五つ、いや十以上の影が、獲物を探すようにうめき声を上げながら街の方向へ駆け出した。
「野犬か……いえ、もっと質の悪いものね。」
セレンの声には鋭い拒絶が含まれていた。彼女は眼鏡越しに唸り声を上げる怪異たちを見据え、すぐさま予備の術式用具を取り出そうとした。しかし、彼女の手元まで届く前に、さらに強烈な衝撃が押し寄せた。
ドォォン! どっん!!
近くの塔の一部が崩落し、石塊が屋上へと降り注ぐ。セレンはその石礫(せきれい)を間一髪で避けた。埃が立ち込め、視界が遮られる中、彼女の鼻腔を突き抜けるのは焦げ付いたような臭いと、鉄分を含んだ重苦しい空気だ。
「来るわよ」
セレンは呟いた。
その言葉と共に、彼女は腰のベルトに固定された護身用の短剣――それも練習用とはいえ、鈍く光る鋼の質感を確かめるために握った。
下から叫び声が聞こえる。それは単なる恐怖の叫びではない。何かが物理的に破壊され、誰かが傷ついていることを知らせる悲鳴だ。
街の中へ突入した獣たちが、防衛体制の整っていない民家や市場を蹂躙しているのが遠目にもわかる。魔法による防御結界すら、この異常な魔力暴走の前では無残に引き裂かれているのだ。
ガロンが必死の形相で何かを取り出そうとする一方で、セレンの意識は鋭く研ぎ澄まされていく。
自分たちは今、高い場所から絶望を見ているわけじゃない。これから向かわなければならない戦場の一部として、この混乱の中心へと放り込まれようとしている。
(……いいわよ、想定外なんてあったら、とりあえず対応すればいいだけだし)
彼女はその内面にある焦りを押し殺し、強烈な決意を胸の奥底に刻んだ。
自分の不自由さを呪う時間はもう終わった。今はただ、目の前にある「変化」を受け入れ、立ち向かうしかない。
その時、屋上の端から大きな音が響いた。
崩れた壁の破片が転がり、地表を叩き続ける。そして、さらに近い場所から――まるで獲物を嗅つけつけた捕食者のように、野太い唸り声が聞こえてきた。
森からの連鎖的な侵入ではない。
建物の内部か、あるいはすぐ隣の区画から何かが這い出してくる気配だ。
「来る……!」
ガロンの声と重なるようにして、背後の扉が一瞬で吹き飛ぶような衝撃音が鳴り響いた。
土煙の向こう側、瓦礫の山の中から巨大な影が跳ねた。
それは数メートルもの長さを持ち、異形の獣たちの群れとはまた別の、より純粋な暴走の意志を持った存在だった。
セレンは反射的に横へ飛び退け、腰を低く構えた。
心臓の鼓動が耳元までせり上がってくる。肺の中の空気が熱く感じる。
彼女は震える手で、しっかりと武器を握り直した。
自分の無力さを知っているからこそ、彼女には逃げるという選択肢がない。この状況を変えなければならない。そうでなければ、明日も明後日もこの街の人々は恐怖に怯えながら生きるしかないのだから。
(やるしかないよ。とりあえずやってみよ――)
その瞬間、地響きとともに壁の一片が崩れ落ち、屋上の床を叩いた。
大きな石塊が転がり、再び弾ける火花のような魔力の残導が空間を焼き切る中、セレンは目の前に現れた「脅威」へと視線を固定した。
闇の中で光る双眸が、獲物を捉えた。