無力感の露呈と他者の嘲笑
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
誰もが魔法を使える世界で、セレンだけは生まれつきマナを持たなかった。 「欠陥品」と笑われ、魔法社会の中で不便と孤独を抱えながらも、彼女は幼馴染のケルヒャ・ガロンに支えられ、必死に日々を生きていた。 だが、世界を揺るがす異変をきっかけに、セレンは自分だけの道を見つける。 マナがないなら、理で組めばいい。魔力が足りないなら、仕組みを読み解けばいい。 これは、ゼロマナの少女が物理と理論で魔法を再発明し、やがて賢者と呼ばれるまでの成り上がり譚。
本文
瓦礫の山から這い出した獣は、重苦しい地鳴りとともに咆哮を上げた。その叫びは単なる生物の咆哮ではなく、大気中の魔力が狂暴にうねる際の摩擦音が混じったような、耳障りな不協和音として響く。
セレンは低く構えた姿勢を崩さない。心臓の鼓動が喉元までせり上がり、肺の中の空気が熱く焦げ付く感覚がある。目の前の怪異――放縦した魔力の残滓を吸って肥大化した「何か」は、筋肉の塊のような体躯を揺らしながら距離を詰めてくる。
「……来るわよ!」
セレンの声は鋭かった。彼女は腰のベルトから抜き取った短剣を握りしめる。鋼の感触が手のひらに伝わり、それが自分の唯一の武器であることを再確認する。魔法による防護壁も、瞬時の加速も、すべてを持たない彼女にとって、この瞬間は極めて原始的で、剥き出しの生存競争だった。
獣が跳躍した。
土煙と破片が舞う中、セレンは体を翻す。野性的な動きではない。ただ必死の回避であり、一歩でも早く重い質量から逃れようとする本能的な反応だ。しかし、その瞬間、建物の下層や周囲にいた人々の一部が叫び声を上げた。
「危ない! 避けるな、あそこへ行くな!」
「馬鹿なことをするな、マナの感知すらできない者が手を出していい領域じゃない!」
それは警告というよりも、突き放すような響きを含んだ罵倒に近い言葉だった。彼らはパニックの中で身を守る術を求めている。そして、魔力を持っていないことが明らかなセレンを見て、「無謀な行動をする異端者」として烙印を押すことで自分たちの不安を紛らわせているのだ。
セレンはその視線を背中に受けながら、地表へと続く階段付近に逃げ惑う群衆を見やった。
大半の人々は魔法による保護結界の崩壊によって立ち尽くし、恐怖に硬直している。そこに現れた怪異に対し、何も手に持たないまま怯える人々。彼女なら何ができるか――いや、彼女には何もできないと周囲は思っている。
(……見てればわかるわよ。みんな、ただ止まってるだけだってこと)
皮肉な独り言が脳裏をかすめる。
セレンは獣の爪が迫る瞬間、近くにあった重厚な石柱を蹴り飛ばした。土煙が舞い上がり、物理的な障壁を作り出すための必死の動きだ。だが、その動作を見た数人の「マナを持つ者たち」は、あからさまに顔をしかめた。
「なんだあの不器用な動きは。まるで原始人が石ころで戦おうとしているかのようだ」
「いいから自分の身を守れと言っているんだぞ。そんなもの、通用するはずがないだろう」
罵りの言葉が風に乗って届く。彼らにとって、魔力を使わない行動は無意味な努力であり、滑稽な見世物でしかない。しかし、彼らは知らないのだ。この世界において、術式というショートカットを用意されていない者は、全ての工程を手動でこなさなければならないという事実を。
一歩踏み出すごとに体力を削り、呼吸を乱し、筋力の限界を見極めながら進む道。それは魔法による優雅な跳躍とは程遠い、泥にまみれた這いずりである。
「……勝手なこと言わなくていいわよ。私は私なりにやってるだけだから」
セレンは自分に言い聞かせるように呟いた。彼女の声にはわずかな震えがあったが、同時に鋼のような意志も宿っていた。
『とりあえず、やってみる』――それが彼女の生き方だった。誰かに同情されるためでも、称賛されるためでもない。ただ、目の前の絶望を一つずつ取り除き、前に進むために必要な手段をとる。それだけのことだ。
その時、ガロンの冷静な声が隣から響いた。
「無視していい。彼らの言葉はノイズに過ぎない。君が見ているのは彼らではなく、目の前の獣だ」
ガロンは眼鏡の位置を直し、鋭い視線で状況を分析していた。彼は知っている。この場において、術式への依存がないことがどれほどの重圧を生んでいるかを。そして、それをあえて無視して前進するセレンの覚悟がいかに孤独なものかを。
しかし、現実は容赦なく押し寄せる。
迫り来る怪異の爪が石柱を粉砕し、火花のような魔力の破片を散らしながらセレンの手元まで届く。土埃の中で、彼女の服の端がかすめられ、皮膚に熱い痛みが生じた。
(……マナがあれば、一瞬で弾けるのに)
ふと、そんな思考が頭をよぎった。
もし自分にもわずかでも魔法が使えれば。ほんの一瞬でも防御壁を展開できれば、周りの人々の目は変わっていたかもしれない。軽蔑や同情ではなく、共闘する仲間としての眼差しだったかもしれない。
だが、事実は変えられない。
自分の能力には欠陥がある。それはただの「弱さ」ではない。世界そのものが用意したレールから外れてしまっているという、「構造的な隔絶」だ。
「っ……!」
セレンは叫びと共に跳んだ。獣の影を避け、建物の残骸へと体を投げ出す。背後で爆発音が響き、瓦礫が崩れ落ちた。
周囲の人々からはまたもはや悲鳴に近い嘲笑とも嘆きともつかない声が漏れる。「無駄な抵抗をするな」「諦めることすらできないのか」。彼らはまだ知らないのだ。彼女が決して目立ちたいから必死になっているのではなく、この状況を変える唯一の方法としてしか選択肢がないことを。
突きつけられるのは、残酷なまでの現実だ。
どれほど努力しても、魔力のシステムの上に成り立つ社会では、マナを持たない者の歩みはその価値を正当に評価されない。彼女の努力は「誇り高い挑戦」ではなく、単なる「効率の悪い行動」と片付けられてしまう。
それでも、彼女は立ち上がる。
泥に汚れ、服を引き裂かれながらも、一歩ずつ前に進む。誰かがいなければならない時、そして自分が動かなければならない時、彼女は自分の足で立つ。それがどんなに非効率でも、どんなに他者から馬鹿にされても。
「いいわよ……とりあえずやってみるだけよ……っ!」
セレンは地面を転がりながら、再び剣を構えた。肺から押し出される呼吸が白く濁る。
目の前の怪異は、次の攻撃に向けてその巨大な体を軋ませた。地響きのような音が空気を震わせ、周囲の瓦礫が微かに浮き上がる。
獣の瞳が赤く輝いた。それは獲物を追い詰める捕食者の光であり、同時に溢れ出すエネルギーの暴走による狂気の色だった。
ガロンが短剣を握り直し、鋭い声を上げる。
「来るぞ! 覚悟を決めて!」
二人の視線の先で、巨体がうねり、空間の一部が弾けるような音とともに最悪の瞬間へと加速していく。
その時、建物の屋上階からさらに大きな衝撃音が響き渡った。