『スタートの音は、笑って鳴らす』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/6 📚 シリーズ: 短編集 📝 4,649文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

スタートの合図って、案外うるさい。

ピストルの音じゃなくても、笛でも、スピーカーの「それでは皆さま」でも、あの瞬間に空気が一段硬くなる。硬くなると、転びやすい。

僕はその「硬くする側」の人間だった。

市民マラソンの当日スタッフ。担当はスタートゲートの横、タイム計測の前、緊張が最高潮に達する地点。合図を出し、列を整え、混ざった呼吸を並べる仕事。

午前六時。会場の河川敷はまだ冷えていて、芝が靴底にまとわりつく。テントの中で紙コップの白湯をすすりながら、僕はスタッフ名札を首にかけた。

名前の下に、役割が書いてある。

《スタート係》

雑な肩書きだな、と自分でも思う。

でも今日だけは、雑でいい。雑じゃないと、僕が先に固まる。

「おはようございまーす。スタート係さん、機材チェックいけます?」

運営リーダーの高橋さんが、軍手のまま手を振る。声がでかい。でかい声は安心する。失敗しても拾ってくれそうな音がするからだ。

「はい。いけます」

返事が早いと、楽になる。

早い返事は、だいたい後で首が締まる。分かっているのに、今日は「分かってる」も一旦預けた。

スタートゲートのスピーカーを繋ぎ、タイム計測マットの位置を確認し、コーンを並べる。コーンは三角形。三角形は迷いを減らす。人間も三角形になればいいのに、と僕は時々思う。前、左右、後ろ。どこからでも支え合える形。

そんなことを考えているうちに、参加者が集まり始めた。

ランニングウェアの人、部活帰りみたいな学生、親子で手をつないだ小さな子、そして、明らかに「来てしまった」顔の人。

その「来てしまった」顔の代表が、スタートゲートの端にいた。

黒いパーカーに、スニーカーの紐がほどけかけている女性。呼吸が浅くて、肩が少し上がっている。目は前を見ているのに、心だけが後ろにいる。

僕はそっと近づいた。

「紐、ほどけてますよ」

声をかけると、女性はびくっとして足元を見た。

「あ、すみません……」

反射で謝る。僕と同じ癖だ。

「謝るより先に、座ってください。紐は座った方が結べます」

「え?」

「立ったままだと、呼吸が上に逃げるので」

自分で言って、何の専門家だよ、と内心で突っ込んだ。けど女性は戸惑いながらも、河川敷の縁石に腰を下ろした。指先が震えて、紐がうまく結べない。

「手、冷えてます?」

「……ちょっと」

僕はポケットから、予備のカイロを一つ出した。スタッフ用に箱でもらったやつだ。

「これ、握って。紐はそのあと」

「ありがとうございます……」

握った瞬間、彼女の肩が一ミリ落ちた。落ちる肩は、正直だ。

「初参加ですか」

「……はい。たぶん、最後です」

「最後、決めるの早いですね」

「こういうの、向いてないんです。応援されるのも、苦手で」

応援、という単語だけで、彼女の眉が少し寄る。

僕はそこで、いつもの便利な言葉を飲み込んだ。大丈夫、とか、気にしないで、とか。

代わりに、事実だけを置く。

「ここ、応援うるさいですよね」

彼女が小さく笑った。笑ったのに、すぐ口元を引っ込める。笑うのも怖いらしい。

「うるさいです。『ファイト』って、優しい顔して、刺さる時ある」

「あります。タイミング間違えると、ただの槍です」

「槍……」

彼女は息を吸って、吐いた。深い呼吸じゃない。でも、さっきよりは下に落ちた。

「僕、今日スタート係なんです」

「……合図出す人?」

「はい。硬くする人」

「え」

「硬くしない練習してます。たぶん今日は、合図を変えます」

女性が首をかしげる。僕は名札を指で叩いた。

「ここの仕事、合図を出すだけじゃなくて、転びそうな人を転ばせないことなんですよ」

「そんな役割、あるんですか」

「今、作りました」

僕はカイロの空き箱から、メモ用紙を一枚抜いた。マジックで大きく書く。

《深呼吸券》

そして、下に小さく足す。

《使い方:一回だけ深く吸って、ゆっくり吐く。終わり。》

「これ、持っててください。使いどころは自由です」

「券……」

「券って言うと、逃げ道に見えるでしょ。逃げ道は悪じゃないです。戻れる幅です」

女性はメモを受け取って、指でなぞった。

「……戻れる幅」

「はい。間違えたら戻っていい。遅れたら歩いていい。泣きたくなったら水飲んでいい」

言いながら、僕は自分にも言っていた。

仕事でも、生活でも、僕はいつも「戻る」を許していなかったから。

そのとき、スタート列の前方で声がした。

「おいおい、給水なんか要らねぇだろ。こんな短い距離」

見ると、白髪混じりの男性が腕組みしていた。顔つきが硬い。硬いのに、目の奥が落ち着かない。怖さを「平気」に塗っている人の目だ。

隣のスタッフが困っている。僕は小さく手を挙げて、近づいた。

「給水は、喉のためというより、気持ちのためです」

「気持ち?」

「口が乾いてると、言葉が尖ります。尖ると呼吸も尖ります」

「訳わからん」

「訳わからんでいいです。飲むだけ。二口だけ」

男性はムッとしたが、結局紙コップを受け取った。二口で、眉がほんの少し緩む。

「……こんなので変わるか」

「変わります。一滴で油が回るみたいに」

僕が言うと、男性は鼻で笑った。

「お前、ヤワじゃないだろうな」

「ヤワですよ」

「堂々と言うな」

「堂々と言えるくらいには、ヤワです」

周りのスタッフがくすっと笑った。笑いが刺さらない。刺さらない笑いは、場を柔らかくする。

スタート時刻が近づいた。参加者がゲート前に並び、心臓の音が集まってくる。集合した心臓は、ひとつの獣みたいだ。獣は合図で走る。走る前に、暴れる。

僕はスピーカーのマイクを持った。

台本はある。いつもの挨拶、注意事項、カウントダウン。けれど僕は台本の一行目を捨てた。

代わりに、マイク越しにこう言った。

「みなさん、もう十分やってます。ここに来た時点で、相当えらいです」

会場が一瞬だけ静かになった。

誰かが笑った。そこから笑いが広がる。笑いは波紋みたいに、緊張の角を丸める。

「なので、お願いです。ゴールのことは、ちょっと後で。まずは一回、深呼吸してください」

僕は自分で深く吸って、マイクに息の音を乗せないようにゆっくり吐いた。会場も、つられて息を吐く。数千人のため息。ため息が揃うと、なぜか強い。

「それから、もし途中でつまずいたら。『やっちゃった』で終わらせないでください。『もう一回』って言ってください。歩いてもいい。戻ってもいい。笑ってもいい」

言いながら、僕の胸の中のどこかが少し軽くなった。

僕は今まで、つまずきを「終わり」にしてきた。仕事のミス、返信の遅れ、言い損ねた言葉。全部、心の中で勝手に幕引きして、自分に罰を与えて終わらせてきた。

終わらせるほど、続いてしまうのに。

「では、スタートします。合図は短くいきます。準備できてなくても大丈夫。準備できてない人ほど、今日ここにいます」

カウントダウンの代わりに、僕は短く言った。

「いきます」

そして、合図のボタンを押した。

軽い電子音。乾いた一音。

それだけで、獣が走り出す。走り出したのに、怖さは消えない。怖さは一緒に走る。でも怖さが一緒なら、置いていかれない。

最初の二十メートルで、小さな事故が起きた。

靴紐がほどけたままの青年が、前の人の踵に引っかかって、派手にすっ転んだ。二人、三人、連鎖しそうに足が止まる。止まると、後ろの波が押し寄せる。押し寄せると、転ぶ人が増える。

僕は反射でマイクを握った。

「いったん、止まって! 止まって大丈夫! 焦らない!」

係員としては邪道だ。流れを止めるのは怖い。でも、流れが暴走するほうが怖い。僕の声に、前方の走者が一斉に歩きへ切り替えた。歩く人は、強い。走るより難しい時があるからだ。

転んだ青年が起き上がろうとして、うまく膝が立たない。恥ずかしさで顔が真っ赤だ。僕は近づいて、手を差し出した。

「大丈夫?」

青年は反射で言った。

「だ、大丈夫です!」

声がでかい。でかいのに、足が震えてる。

「大丈夫って言うの、上手いですね」

「え」

「じゃあ、別の言い方。痛い? 恥ずかしい? どっち?」

青年は一拍迷って、吐き出すみたいに言った。

「……両方です」

「採用。両方なら両方で、いったん座りましょう」

スタッフの一人が給水を持ってきて、もう一人がコーンを寄せて通路を作る。周りの走者が「大丈夫?」と声をかける。声かけが槍にならないのは、今の声が“確認”だからだ。誰も、勝手に勇気づけようとしてない。まず現状を確かめている。

青年は水を飲み、膝をさすり、顔を上げた。

「……すみません」

「謝るより先に、もう一回だけ呼吸」

僕が言うと、青年は笑いそうになって、結局ふっと息を吐いた。

波が落ち着いたのを見て、僕はマイクで短く言った。

「再開します。歩きからでいい。今のぶん、みんなチームです」

走者たちが、今度はゆっくり動き出す。走る人も、歩く人も、同じ方向へ向く。たったそれだけで、空気が戻る。転んだ青年は、少し遅れて歩き出した。背中が、さっきより丸い。丸い背中は、折れてるんじゃなく、守ってる背中だ。

黒いパーカーの女性は、列の後方からゆっくり出た。走り出すのが遅いのに、顔が少し柔らかい。手には、あの《深呼吸券》が握られている。握っているだけで、支えになるものがある。

白髪混じりの男性は、スタート直後に一回だけ振り返って、僕を見た。

そして、指で小さく親指を立てた。

勝ち負けじゃない。確認だ。今日も始められた、の確認。

*

ゴール地点へ向かう無線が飛び交う中、僕はスタートゲートの横で、倒れたコーンを直していた。走る人は通過していく。通過していく背中は、みんな同じじゃない。速い背中、遅い背中、揺れる背中、迷いながらの背中。

けれど、背中はみんな前に進んでいる。前に進むだけで、十分な日がある。

しばらくして、黒いパーカーの女性が戻ってきた。息が上がっていて、頬が赤い。走り切ったというより、ちゃんと動いた顔をしている。

「……歩きました」

「最高です」

「途中で一回、立ち止まって……券、使いました」

彼女は《深呼吸券》を見せた。紙が少し湿っている。

「それ、今日の勲章ですね」

「勲章って言われると、また照れる」

「照れたら、もう一回呼吸です」

彼女は笑って、笑いながら目尻を拭いた。泣いてるのに、逃げてない泣き方だった。

「来年も……出るかも」

「“かも”で十分です。決めるの早いと、また硬くなるので」

「スタート係さん、変な人」

「変な人、褒め言葉です」

彼女はもう一度笑って、走者の流れの中へ戻っていった。

片づけの時間になり、高橋さんが僕の肩を叩いた。

「今日のアナウンス、良かったよ。なんか、みんなの顔が変わった」

「顔が変わると、走り方も変わりますね」

「何その理屈」

「さっき現場で生えた理屈です」

高橋さんは笑って、紙コップの水を僕に渡した。

「お疲れ。スタート係さん」

僕は水を飲んだ。水は嘘をつかない。喉が通ると、胸の中の砂が少し動く。

帰り道、河川敷の草の匂いが靴に残っていた。

僕はポケットの中に残った《深呼吸券》の半端な紙を触った。余り紙だ。けれど余りは、捨てなくていい。明日も使える。

電車に乗る前に、僕はスマホを開いて、仕事のチャットを見た。見ただけで、いつもの硬さが戻りそうになる。

そこで僕は、ホームの柱を指で二回、こつんこつんと叩いた。

合図。硬くなる前に戻る合図。

そして、メッセージを一つだけ送った。

『確認に5分ください。今、整え直します』

送信して、息を吐く。

今日の合図は、スタートだけじゃなかった。

僕の生活にも、短い合図が必要だった。

遠くで電車の発車ベルが鳴る。

あの音も、きっと誰かのスタートの音だ。

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