『十年目の白線』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/14 📚 シリーズ: 短編集 📝 4,292文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

朝六時の校庭は、まだ誰のものでもない顔をしている。

白線の消えた土の上に、昨夜の風が残した葉っぱが散っていて、鉄棒の下だけが少し濃く湿っている。そこへ一番乗りで入っていくと、学校という場所は、賑やかさを全部脱いだあとの骨組みみたいだと、三嶋広樹はいつも思う。

軽トラックの荷台から、石灰の袋とラインカーを下ろす。

今週末は小学校の運動会だった。町内会の道具を学校へ貸し出して、その線引きを毎年、広樹が手伝っている。

手伝っている、という言い方も少し違うかもしれない。

気づけば十年、毎年やっていた。

「今年も早いねえ」

正門のほうから声がした。

振り向くと、用務員の安西が竹箒を持って立っている。六十を過ぎたのに、なぜか背中だけは高校球児みたいにまっすぐな人だ。

「他の人が来る前に終わらせたいんで」

「毎年そう言ってる」

「毎年ほんとなんで」

「知ってる」

安西は笑いながら、昇降口の前の葉を掃き始めた。

広樹はラインカーへ石灰を流し込む。さらさらした白い粉が、朝の空気の中で少しだけ光る。

こういう作業は嫌いじゃない。

どこへ線を引くかが決まっていて、その通りに手を動かせば、だいたいちゃんと形になるからだ。

迷わなくて済む仕事は、人を少しだけ楽にする。

広樹は三十九歳。

町の自動車整備工場で働いている。若いころはもっと別の人生を考えていた時期もあったが、今となってはその輪郭もだいぶ薄い。

働いて、帰って、飯を作って、洗濯して、息子を起こして、学校へ送り出す。

毎日はその繰り返しだ。

派手さはない。だが、壊れもしていない。

それなりにやれている。

そう思ってきたし、たぶん間違ってもいない。

ただ最近、ときどき、どこへ向かっているのかだけが少しぼやける。

ラインカーを押して最初の白を引き始める。

まっすぐに見える一本でも、引いている最中は案外ぶれる。手元だけ見ていると蛇行するので、少し先の地面を見る。

それは仕事でも、暮らしでも、似たようなものだった。

トラックの助手席には、まだ寝癖のついた息子が一人、膝を抱えて座っている。

小学校四年生の湊。九歳。来月で十歳になる。

今日は土曜授業がないので連れてきた。家に一人で置いておくよりましだし、本人も学校の校庭が好きだった。

「父ちゃん」

窓を少し開けて、湊が言う。

「何」

「まだ眠い」

「知ってる」

「なんで連れてきたの」

「朝飯のパン、二枚食ったろ」

「食った」

「その元気があるなら手伝える」

「理屈がずるい」

その返しに、広樹は少し笑った。

口の減らなさだけは、母親に似ている。

母親。

そう思うと、胸の奥のどこかがまだ少しだけ固くなる。

広樹の妻、真帆が亡くなって七年になる。

病気だった。見つかったときにはもう遅く、長くはもたなかった。

そのあいだに広樹は、ずいぶんいろんなことを覚えた。保育園の送り迎え、冷凍しても味が落ちにくいおかず、夜中の咳で起きる子どもの背中のさすり方、病院での説明の聞き方、役所の書類、葬儀の順番。

覚えたくて覚えたわけではない。

ただ、その時々で必要だったから体に入った。

そうして七年経ってみると、悲しみは薄くなるというより、生活の奥へ沈んでいくものらしい。見えなくはなるが、なくなりはしない。

十年前の今ごろ、広樹はもっと別の人間だった。

湊が生まれたばかりで、真帆はまだ元気で、工場でも今よりずっと若手で、休みの日には中古のバイクをいじっては「いつか自分の店を持つ」と格好つけたこともある。

その「いつか」は結局来なかった。

来なかったけれど、今の生活が失敗だったとも思えない。

思えないのに、ときどき、どこかの分岐で置いてきたものの影だけが足元へ伸びる。

「父ちゃん」

また湊が呼ぶ。

「今度は何」

「ゴールって、どこ」

広樹はラインカーの手を止めた。

「何の」

「運動会の線」

「それは引く場所決まってるから」

「そうじゃなくて」

湊はあくびを噛み殺しながら言う。

「父ちゃんのやつ」

「父ちゃんのやつ?」

「うん。仕事とか、家とか、そういうやつ」

朝っぱらから、ずいぶん刺さることを聞く。

九歳のくせに、急にそういうところへ入ってくるから油断できない。

「何でそんなこと聞くんだ」

「昨日、先生が“目標を持ちましょう”って言ってた」

「ふうん」

「で、みんな、サッカー選手とか、漫画家とか、ケーキ屋とか言ってた」

「うん」

「父ちゃんは何」

広樹はラインカーの取っ手を持ったまま、少しだけ空を見た。

朝の空は高く、青く、なのにどこか行き止まりがない。

だから余計に困る。

「……分かんない」

正直に言うと、湊は少し目を丸くした。

「分かんないの」

「分かんない」

「大人なのに?」

「大人でもだ」

広樹が言うと、湊は少し考えてから、妙に納得した顔でうなずいた。

「じゃあ、まだ途中なんだ」

その一言が、広樹の胸の真ん中へ静かに落ちた。

まだ途中。

そう言われると、少しだけ救われる気がした。

線引きを再開する。

二本、三本、と白が増えていく。

途中、安西がコーヒーを持ってきてくれた。紙コップの安いブラックが、なぜか朝の校庭にはよく合う。

「湊くん、手伝わんの?」

安西が聞くと、湊は助手席から顔だけ出した。

「今、父ちゃんのゴール聞いてた」

「おお、朝から重いな」

「でしょう」

広樹が言うと、安西は笑った。

「ゴールなんて、見えたことないぞ」

「いや、そこまで堂々と言われると困るんですけど」

「だってほんとだし」

安西は紙コップのふたを指で押さえながら続けた。

「俺だって、用務員になろうと思ってなったわけじゃない。たまたま役場の紹介で来て、気づいたら二十年だ」

「二十年」

「ほら、怖いだろ」

「だいぶ」

「でもな」

安西は校庭を見回した。

「怖いけど、ここまで来たってことは、それなりにやれてるってことでもある」

その言い方が、歌のサビみたいにきれいだったわけではない。

でも、だからこそ妙に残った。

ここまで来たってことは、それなりにやれてる。

広樹はそういう雑な救い方が、案外嫌いじゃなかった。

十時前、町内会の人たちが追加の備品を持って集まり始めた。

万国旗の箱、玉入れの籠、拡声器の予備電池。

そのなかに、湊の担任もいて、明るい声で言った。

「三嶋さん、今年も助かります」

「いえ、毎年なんで」

「湊くん、お父さん似で背伸びましたね」

「口だけ先です」

広樹が返すと、湊は助手席から抗議した。

「父ちゃんも口うるさいじゃん」

「それは生きるのに必要だから」

「理不尽」

周りが笑う。

そういう、どうでもいいやり取りの中で、広樹は少しだけ気づく。

十年前に思い描いていた人生ではない。

でも、十年前にはいなかった関係が、今ここにはいくつもある。毎年顔を合わせる町内会の人。学校の先生。工場の後輩。息子の友達の親。

夢の代わりに生活を選んだのではなく、生活の中で別のものが増えてきたのかもしれない。

最後の直線を引いていたとき、ラインカーの車輪が小石に乗って、白線が少しだけ曲がった。

「あ」

思わず声が出る。

見ると、三メートルほどの線がわずかに蛇行している。

運動会としては支障がない。誰も気づかないかもしれない。

でも、引いた本人には分かる。そういうズレは妙に目につく。

「ごめん」

広樹がつぶやくと、いつの間にか車から降りてきていた湊が、その線を覗き込んだ。

「これ、だめ?」

「いや、だめではないけど」

「まっすぐじゃないから?」

「まあ」

湊は少し考えてから言った。

「でも、父ちゃんっぽい」

「どういう意味だ」

「ちゃんとやろうとしてるのに、たまに変なとこで曲がる」

あまりに的確で、広樹は反論できなかった。

安西が後ろで吹き出している。

「湊くん強いなあ」

「最近こうなんです」

「最近じゃないよ」

湊が真顔で言う。

その真顔が可笑しくて、結局広樹も笑ってしまった。

昼前、作業を終えて軽トラックへ荷物を戻す。

校庭には真新しい白線が走り、テントの位置も決まり、運動会らしい形が見えてきた。

完成ではない。まだ机も椅子も放送席も入る。

でも、途中まで形になった場所というのは、完成品より少しだけ希望に見える。

帰り道、助手席で湊が言った。

「ねえ、父ちゃん」

「何」

「十歳って、すごい?」

「お前が?」

「うん」

「まあ、すごいんじゃない」

「父ちゃんの十年は?」

広樹はハンドルを握りながら、信号待ちで少しだけ考えた。

十年。

仕事を辞めなかった。

子どもを遅刻させずに学校へやった。

洗濯も飯も、だいたい回した。

泣く日も、投げ出したい日もあった。真帆がいない部屋に帰るのが嫌で、コンビニの駐車場で十分動けなかった夜も、一度や二度ではない。

でも、そういう日まで含めて、確かにここまで来た。

「……すごいかもな」

広樹が言うと、湊は得意げにうなずいた。

「だよね」

「何でお前が偉そうなんだ」

「近くで見てたから」

その返事で、広樹は少しだけ目頭が熱くなりかけた。

危ないので、すぐ前を向く。

大人は信号待ちでそう簡単に泣かない。

その夜、夕飯はオムライスにした。

湊が来月十歳になるので、少し早い練習だ。

卵は少し破れた。ケチャップの線も最後に一か所だけよれた。

でも湊はそれを見て、満足そうに言った。

「今日、全部父ちゃんっぽい」

「それ褒めてる?」

「うん」

「ならいいか」

食後、風呂上がりの湊が宿題をしている横で、広樹は何となくノートを開いた。

家計簿でも整備メモでもない、真っ白なページ。

そこへ、珍しく字を書いた。

【次の十年でやりたいこと】

書いてみたものの、すぐには続かない。

店を持つ、は違う気がした。

今さらバイク屋、でもない。

資格を取る。工場で後輩を育てる。湊と一回くらい二人で旅行する。真帆の写真をちゃんとアルバムにする。

浮かんでは消え、消えてはまた少しだけ残る。

広樹はそこで、無理に一つへ絞るのをやめた。

ゴールのテープが見えないなら、見えないなりに白線を引いていけばいい。

まっすぐじゃなくても、途中で少し曲がっても、翌年また引き直せる。

たぶん暮らしも、それくらいのものだ。

窓の外では、夜の住宅街が静かだった。

台所の流しに、洗ったばかりの弁当箱が逆さに置いてある。明日の米を研いだボウルが、まだ少しだけ水を切っている。

そういう、何でもない景色の中に、自分の十年はあるのだと、広樹はようやく少しだけ思えた。

「父ちゃん」

宿題のノートから顔を上げずに、湊が言う。

「何」

「来年も線引く?」

「たぶん」

「じゃあ、そのときまた聞く」

「何を」

「ゴール」

広樹は笑った。

「まだ分かんないと思うぞ」

「いいよ」

湊は平然と言う。

「まだ途中なら」

その一言が、今日いちばん綺麗な答えだった。

広樹は白いページの端に、小さく丸を一つ描いた。十でも、ゴールでもない、ただの途中の印。

それでも今の自分には、そのくらいでちょうどよかった。

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