『名前のつく仕事』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/15 📚 シリーズ: 短編集 📝 4,290文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

朝七時前の洋菓子店は、まだ甘い匂いより先に金属の音がする。

天板の重なる音、冷蔵庫の開く音、ボウルの縁へ泡立て器が当たる音。開店前の厨房は、可愛いよりずっと工場に近い。

その真ん中で、桐島葉月は絞り袋の口をねじりながら、今月のシフト表を見ていた。

自分の休みだったはずの木曜に、赤いペンで一本線が引かれている。

その横に丸っこい字で書き足されていた。

【TV対応のため出勤変更 葉月さんフォローお願いします!】

「……何がお願いしますだ」

小さく言った声は、冷蔵庫のモーター音に溶けた。

葉月は二十八歳。商店街の角にあるパティスリー「ノワール」で働いて六年目になる。

焼き菓子も生菓子も一通りできる。ナッペは速いし、クリームの硬さの見極めも安定している。

店の中ではかなり任されているほうだ。

ただし、その任され方が最近ずっと気に入らない。

何か面倒なことがあると、最後は葉月へ来る。

新作の試作が間に合わない。

予約の数が読めない。

包装資材が足りない。

販売用の説明文が雑。

SNS用の写真が映えない。

そういう「誰かがやらないと困るけど、目立つ人はあまりやりたがらないところ」が、きれいに全部葉月の手元へ落ちてくる。

しかも今週は、地元テレビの情報番組が店へ入る予定だった。

特集は「若手パティシエがつくる初夏の新作」。

店として前に出すのは、オーナーの甥である圭人の新作タルト。

二十四歳。見た目もよく、受け答えも軽やかで、SNSの短い動画では確かに映える。

だが、そのタルトの土台を焼き、フィリングの配合を安定させ、最後に味をまとめたのは、ほぼ葉月だった。

圭人が悪人というわけではない。

そこがまた面倒だった。

愛想もいいし、悪気なく人を頼るのがうまい。

「葉月さんのほうが細かいとこ得意なんで」

そう言って笑えば、大体のことは通ると思っている。

そして、今まで大体通ってきた。

「おはようございまーす」

噂をすればで、圭人が裏口から入ってきた。

白いコックコートを肩にかけ、スマホを見ながら器用にエプロンを結ぶ。

そのままシフト表へ目をやると、悪びれもなく言った。

「あ、休みずらしてもらったんすね。助かります」

「もらったんじゃなくて、ずらされてる」

「でも葉月さんいると安心なんで」

「私は安心じゃない」

圭人は一瞬だけきょとんとしたが、すぐに笑った。

「またまた」

その軽さが、今日はやけに癇に障った。

開店準備が始まる。

葉月は無言でシュー生地を絞り、焼成の様子を見て、仕込み台へ次の材料を並べた。

手はいつも通り動く。

いつも通り動いてしまう自分が、なおさら腹立たしい。

不満があるなら、もっと早く言えばよかった。

でも毎回、「今ここで止めると店が回らない」が先に立つ。

それで結局、自分が引き受ける。

引き受けたあとで、また勝手に消耗する。

ここ数か月、ずっとそれだった。

十時前、オーナーの相良が工房へ降りてきた。

五十代半ば、腕は確かだが、人の使い方だけは時々雑だ。

「葉月、悪いな。木曜」

「悪いと思ってるなら、先に言ってください」

「昨日決まったんだよ」

「昨日決めたなら、昨日言えますよね」

相良は少しだけ黙った。

厨房の空気が、そこでようやく少し変わる。

「TVは店にとって大事なんだ」

「分かってます」

「だから」

「だから私が穴埋め、はもう嫌です」

自分で言ってから、葉月は一瞬だけ喉が熱くなった。

ここまで真っ直ぐ言うつもりはなかった。

でも出てしまったものは、もう戻らない。

相良は眉を寄せた。

「穴埋めって」

「そうでしょう」

葉月は絞り袋を置いた。

「圭人くんの新作、味がまだ揺れてるのも、土台の焼きが安定してないのも、TV用の段取りが雑なのも、最後は私が拾う前提で回ってる」

「……」

「しかも名前は全部向こう」

圭人がさすがに気まずそうな顔になった。

それでも葉月は止まれなかった。

「細かいところ得意だからって、何でもこっちへ投げて、最後だけ“圭人の新作です”って出すの、冗談じゃないんだよ」

厨房がしんとした。

ミキサーの低い音だけが、やけに遠く聞こえる。

圭人が最初に口を開いた。

「葉月さん、俺、別にそんなつもりじゃ」

「うん。悪気ないのは知ってる」

葉月は言う。

「だから余計に嫌なんだよ」

悪意なら、怒りやすい。

けれど善意や無邪気さの顔をした当然みたいな依存は、人を黙らせる。

それに、ずっと黙ってきたのは自分だ。

だから今さら全部を相手のせいにはできない。

でも、だからといってこのままでいいとも思えなかった。

相良が深く息を吐いた。

「……で、葉月はどうしたい」

そこを聞かれると思っていなかったので、葉月は少しだけ詰まった。

怒って終わりなら楽だった。

けれど本当に欲しいのは、ただ謝られることではない。

「木曜、出るなら出ます」

葉月はゆっくり言った。

「でも、条件があります」

「条件?」

「圭人くんのタルトを“二人で仕上げてる”ってちゃんと言うこと」

圭人が目を上げる。

「あと、今日の営業後に、味と段取りの最終確認を最初から二人でやる。私が後ろから直す形じゃなくて」

「……」

「それが無理なら、私は木曜休みます」

相良は腕を組んだ。

圭人は何か言いかけて、言葉を探していた。

葉月は自分の心臓が速いのを感じた。やりすぎたかもしれない。店の空気を悪くしただけかもしれない。

それでも、もう引っ込めたくなかった。

長い沈黙のあと、相良が言った。

「分かった」

葉月は少しだけ目を見開いた。

「圭人」

「……はい」

「木曜のコメント、そう直せ。新作の説明も、二人で詰めろ」

圭人は唇を引き結んだまま、うなずいた。

「はい」

「あと葉月」

「はい」

「お前も、そこまで溜める前に言え」

「……はい」

それは正論だった。

正論すぎて、少しだけ悔しい。

営業後、工房には二人だけ残った。

タルト台を焼き、クリームの酸味を調整し、飾りの果物の切り方を変える。

最初のうちはぎこちなかった。

圭人は妙に静かで、葉月も必要なことしか言わない。

だが作業をしていると、少しずつ言葉が増える。

「ここのレモン、前回より酸い」

「だったらクリーム少し重くしたほうがいい」

「バター足す?」

「いや、生クリームの比率で寄せたい」

「何で」

「口当たり軽いままにしたいから」

圭人は少し驚いた顔で葉月を見る。

「……葉月さん、そこ考えてたんだ」

「逆に何も考えずにやってると思ってた?」

「いや」

圭人は苦笑した。

「正直、ちょっと」

「でしょうね」

葉月も笑っていないのに、少しだけ空気はほどけた。

試作を三回やり直したころには、時計は二十一時を回っていた。

最後の一台を切り分けて食べる。

今度はちゃんと、味が中心へ寄っている。

レモンの香りは立つのに、後味は尖りすぎない。見た目も派手すぎず、でも店のショーケースに入ればちゃんと目を引きそうだった。

「これ、いい」

圭人が言う。

「うん」

葉月も認める。

「やっと」

圭人はフォークを置いた。

「俺さ」

「うん」

「葉月さんが嫌がってるの、ほんとに分かってなかった」

「うん」

「助かってるのは分かってたけど、だから頼っていいと思ってた」

葉月は返事を急がなかった。

圭人は少しだけ言いにくそうに続ける。

「多分、甘えてた」

その言葉が聞けただけで、少しだけ胸のつかえが取れた。

全部が解決したわけではない。

けれど少なくとも、これまでみたいに曖昧に流されることはなかった。

木曜、TVの撮影が入った。

店先には朝から見慣れないケーブルが走り、ディレクターが立ち位置を指示し、リポーターが明るすぎる声で「今日は初夏にぴったりの話題のスイーツを!」と言う。

葉月は工房の奥で、仕上げ用のクリームを絞っていた。

こういう現場は嫌いだ。

音も人も多すぎる。

でも今日は、前より呼吸がしやすい気がした。

撮影の途中、リポーターが圭人へ向かって聞いた。

「こちら、圭人さんの新作なんですよね?」

一瞬だけ、工房の空気が止まる。

葉月は手を止めなかった。

止めなかったが、耳はそこにあった。

「はい、ベースの発想は僕です」

圭人が言う。

「でも、味と仕上がりは葉月さんと一緒に詰めました。細かいバランス、かなり助けてもらってます」

ディレクターが「いいですね、そこもう一回」と食いつく。

葉月は思わず顔を上げた。

圭人は照れくさそうに笑いながら、今度は工房の中の葉月を手で示した。

「うち、見えないとこ強い人が多いんで。今日のこれも、その一人いないと無理でした」

その瞬間、変なふうに胸の奥が熱くなった。

たったそれだけのことだ。

名前を一つ足しただけ。

でも、たぶん自分が欲しかったのは、そういう当たり前の位置だった。

撮影後、リポーターが工房へ入ってきて、葉月へもコメントを求めた。

急で、少し焦った。

でもカメラの赤いランプを見た瞬間、葉月は不思議と落ち着いていた。

「このタルト、すごく爽やかでした。工夫したところは?」

葉月は少しだけ考えてから答えた。

「派手に見える味より、もう一口いける味にしたかったんです」

それは、店への説明でもあり、自分の仕事への説明でもあった。

目立たなくても、最後にちゃんと残るもの。

そこに名前がつくなら、ようやく自分の仕事になる。

放送はその週末だった。

店先のテレビで流れた自分の顔は少し強張っていて、圭人のほうが当然映りはよかった。

でも、思ったほど嫌ではなかった。

店の前を通った常連客が「葉月さん映ってたね」と笑い、次の日には「昨日のタルト、おいしかった」と言って二台予約してくれた。

それで十分すぎた。

閉店後、葉月はショーケースの前へ立った。

今日のタルトは完売。

空いた皿の上に、値札だけが残っている。

「葉月」

後ろから相良が呼ぶ。

「来月、夏の新作やる」

葉月は振り返る。

「誰がですか」

「お前」

「急ですね」

「今さら」

相良は腕を組んだ。

「名前、出せ」

その一言に、葉月は少しだけ黙った。

ずっと欲しかったくせに、いざ渡されると簡単には受け取れない。

責任も、失敗も、ちゃんと自分のものになるからだ。

でも今は、その重さも前ほど嫌ではなかった。

「……やります」

そう答えると、相良は短くうなずいた。

「今度は溜める前に言えよ」

「善処します」

「そこは善処か」

「まだ急には変われないんで」

相良が笑う。

葉月もつられて、少しだけ笑った。

店の外では、夜の商店街の灯りが細く伸びていた。

派手ではない。

でも消えていない。

葉月はショーケースのガラスへ映る自分を見た。

今日の自分は、誰かのフォロー役だけの顔ではなかった。

不器用でも、ちゃんと嫌だと言って、ちゃんと条件を出して、ちゃんと自分の名前が入る場所を取りにいった顔だ。

冗談じゃない。

ほんとうに、冗談じゃないんだよ。

心の中でそう言い直すと、怒りだったはずの言葉が、少しだけ誇らしいものに変わっていた。

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