『切り替え室の窓』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/18 📚 シリーズ: 短編集 📝 4,128文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

商店街の防災無線は、夕方五時になると決まって少しだけ音が割れる。

子どもの帰宅を促す短い放送なのに、なぜか最後の一音だけが毎回遠くでひっくり返るみたいに歪む。

その癖を、野々村春香はもう三年聞いていた。

春香の勤める「まちの放送室」は、市役所の別館二階にある。

市の広報動画、イベント告知、商店街の館内アナウンス、防災訓練の録音、観光用の短い音声案内。

要するに、「誰かの代わりに声を流す場所」だった。

仕事としては嫌いではない。むしろ好きだ。

原稿を整え、ノイズを削り、間の長さを調整して、聞く人にとって一番引っかからない形へ落とす。

春香はそういう見えない整理が得意だった。

ただ、得意と好きは、ときどき違う顔をする。

春香が本当にやりたかったのは、自分の声で番組を持つことだった。

高校時代から放送部で、大学でも学内ラジオをやっていた。誰かの原稿を読むだけじゃなく、空気をつなぎ、話を転がし、聞いている人の夜に少しだけ割り込むみたいなことがしたかった。

でも現実はそう簡単ではなく、卒業後に拾えたのは地方局の制作補助ではなく、市の委託を受けるこの小さな放送室の編集職だった。

声を出す仕事に近いようで、少し違う。

ずっとその違いを分かったふりで飲み込んできた。

「春香さん、今日の録り、先に私やっちゃっていいですか?」

午後三時、後輩の松本未羽がブースの前から顔を出した。

二十四歳。明るい。声がよく通る。少し緊張しても、それが逆に聞きやすさへ変わる得なタイプだ。

春香はパソコンの波形画面から目を上げる。

「商店街の夏祭り告知?」

「はい。館内放送のやつ」

「どうぞ」

「ありがとうございます!」

未羽がブースへ入る。

ヘッドホンをつけ、マイク前へ立ち、背筋を伸ばす。

まだ少し硬い。

でもその硬さごと、ちゃんと前へ出る声だった。

「商店街をご利用のみなさま、本日もご来場ありがとうございます。今週末は、夏の夜市を開催します……」

ガラス越しに聞きながら、春香は胸の内側が少しざらつくのを感じた。

嫉妬と呼ぶには細かい。

焦りと呼ぶには少し遅い。

でも確実に、何かだ。

自分が一歩引いて整える役へ慣れているあいだに、前へ立つことの勘だけが別の人間へ移っていく感じ。

それを認めたくなくて、春香は波形のノイズを必要以上に拡大した。

未羽の録りが終わる。

ガラス戸を開けた未羽が、息を弾ませて言う。

「どうでした?」

「ちょっと語尾だけ明るすぎる」

「やっぱり?」

「でも入りはいい」

「もう一回録ります」

その素直さまで、少し眩しい。

昔の自分も、こういう顔をしていたのだろうか。

そう思ったところで、春香はすぐにそれを打ち消した。昔の自分を美化するのは、たいてい今日の自分に失礼だ。

夕方、室長の加納がやってきた。

五十代、穏やかな顔で厄介ごとだけを平然と置いていく人だ。

「春香さん、来週の市制記念式典なんだけど」

「嫌な予感しかしません」

「司会、急きょ一人足りなくて」

「嫌です」

「最後まで聞いて」

「聞いてもたぶん嫌です」

加納は苦笑しながらファイルを差し出した。

「本番の総合司会は外部のフリーアナウンサーで変わらない。けど、式典前に流す場内アナウンスと、開式直前の注意案内、今年は現場から生でやりたいって」

「録音じゃなくて?」

「うん」

「それを私に?」

「うん」

春香は無言になった。

未羽ではなく自分へ来たことに、一瞬だけ心が動く。

だがその次の瞬間には、嫌な記憶がもう喉元まで上がっていた。

二年前、春香は一度だけ人前の生進行を任された。

夏の科学イベント。ちいさなステージ。

途中で来賓名を一人飛ばし、訂正を焦って言い直し、空気をぐちゃぐちゃにした。大事故ではない。

でも春香自身には十分だった。

あの日から「私は録りと編集の人」と、半分本気で決めた。

「……無理です」

春香が言うと、加納はすぐには引かなかった。

「なんで」

「生、向いてないので」

「誰が決めた」

「自分で」

「それ、いつの話」

春香は苛立って顔を上げた。

「失敗したときの話です」

「二年前の?」

「覚えてるなら聞かないでください」

加納は少しだけ目を細めた。

「覚えてるから聞いてる」

その言い方が嫌だった。

覚えているのに、まだやれと言う。

それは優しさなのか、雑な期待なのか、春香には判別がつかなかった。

「即答しなくていい」

加納はファイルを机へ置く。

「明日の昼までに返事ちょうだい」

「嫌です」

「それ、今の気分だろ」

「大体いつも今の気分です」

「だから、たまには変えてみたら」

そう言って去っていく背中に、春香は小さく舌打ちした。

変えてみたらで変わるなら、ここまでくすぶっていない。

その夜、仕事帰りに寄ったコンビニで、春香はつい余計なものまで買った。

唐揚げ棒、ヨーグルト、辛いポテトチップス、炭酸水。

冷蔵庫に入れながら、自分で自分に呆れる。

こういう買い方をするときは、大体何かから目を逸らしている。

分かっているのにやる。

そこが一番みっともない。

部屋は一人暮らしのワンルームで、きれいでも汚くもない。

テーブルの隅に、小さな録音機材が置いてある。マイク一本、オーディオインターフェース、古いノートパソコン。

使わなくなって久しい。

大学のころは、課題でもないのに短いラジオもどきを録っていた。季節の話、夜道の話、コンビニのレジで見たこと。誰が聞くでもないのに、一人で喋って、一人で編集していた。

その機材へ、春香は何となく触れた。

起動する。

古いソフトを開く。

マイクの前へ座る。

何を喋るか決めていない。

決めていないくせに、ヘッドホンをつけると体だけは少し前のめりになる。

そこで、春香はふと思った。

生が怖いのではなく、「昔の自分ほどできないかもしれない」のが嫌なのではないか。

切り替わらないスイッチを、壊れていることにして放っているだけなのではないか。

「こんばんは」

試しに声を出す。

驚くほど、普通だった。

上手くもないが、死んでもいない。

そのことに、少しだけ腹が立った。

自分はもっと派手に駄目になっていてほしかったのかもしれない。そうすれば諦めがつくから。

でも実際は、ただ触っていないだけだったらしい。

春香は録音を回したまま、五分ほど喋った。

窓の外の雨の匂い。

自販機の灯り。

子どものころ、夜道を歩くときだけ世界が少し広く思えたこと。

話しながら、胸の奥の固まっていたところが少しずつほどける。

うまくやる必要はない。

まず、自分の声がまだ動くことだけ分かればいい。

録り終えて再生すると、たしかに少し言いよどむし、間も安定しない。

でも、聞けた。

自分で聞いて、自分が嫌になるほどではなかった。

翌朝、春香は職場の自販機の前で缶コーヒーを買った。

加納がちょうど通りかかる。

「で?」

「嫌です」

「うん」

「嫌なんですけど」

加納はそこで立ち止まった。

「受けます」

言いながら、胃のあたりが少しだけ痛くなる。

でも、言えた。

それだけで昨日よりましだ。

「よし」

加納は短く頷いた。

「ただし」

春香は指を立てる。

「式典前の案内文、私が全部直します。あと当日の立ち位置も、事前に現場で確認したい」

「当然」

「あと、練習で一回、本当にマイク出してください」

「当然」

「あと、失敗したら慰めてください」

加納は少しだけ笑った。

「そこは善処する」

「雑」

「でも必要だろ」

春香もつられて笑った。

そういう雑さなら、今日は少しありがたかった。

式典当日。

市民ホールのロビーは朝から人でいっぱいだった。

来賓、表彰者、家族連れ、関係者。

場内アナウンス用の小さな卓は、客席の後ろ隅に用意されている。そこへヘッドホンとマイクが一本。

たったそれだけなのに、二年前の記憶はちゃんと近づいてくる。

「顔、白いですよ」

隣で補助に入る未羽が言った。

「知ってる」

「でも、ちょっと楽しそう」

春香は思わずそちらを見た。

「何で」

「マイク前の顔してるから」

その一言で、昨日の自室の録音が蘇る。

あれはたしかに、自分の顔だった。

開場五分前。

春香は息を吸い、マイクを近づける。

「本日は市制記念式典へお越しいただき、ありがとうございます。まもなく開式となります。携帯電話は電源をお切りいただくか、音の鳴らない設定にお願いいたします」

声は少し硬い。

でも、客席のざわめきがわずかに落ち着く。

その変化が耳へ返ってきた瞬間、春香の中で何かが切り替わった。

スイッチ、というほど派手なものではない。

ただ、怖がっていた自分の位置が一段ずれた感じだった。

続けて、トイレの位置、非常口、撮影の注意。

一つずつ丁寧に流す。

言葉が会場の空気へ染みていく。

誰かの役に立つ声は、思っていたよりちゃんと温度がある。

自分はそれを知っていたし、まだ好きなのだと、ようやく認められた。

開式直前、司会のフリーアナウンサーが振り返って小さく親指を立てた。

春香は少しだけ笑う。

それだけで十分だった。

式典は無事終わった。

大きな失敗もなく、終演後、加納がやってきて言った。

「普通によかった」

「褒め方」

「褒めてるよ。普通にちゃんと届いてた」

加納はファイルを抱え直す。

「どうだった?」

春香は少し考えてから答えた。

「嫌でした」

「うん」

「でも、嫌なだけじゃなかったです」

「うん」

「たぶん、今まで勝手に切ってたんだと思います」

「何を」

「自分のスイッチ」

加納は一瞬だけ目を丸くしてから、静かに頷いた。

「じゃあ、次からは切るなよ」

「そこはまだ分かりません」

「正直でよろしい」

春香は苦笑した。

いきなり別人になれるわけではない。

怖いものは怖いし、次だってきっと緊張する。

でも、押してみたら壊れていなかった。

その事実だけで、今日は十分だった。

夜、自宅へ戻った春香は、テーブルの隅の機材を見た。

昨日より少しだけ近い。

ヘッドホンを手に取り、マイクの位置を直す。

誰に聞かせるでもない録音を、もう一度やってみようと思った。

大きな夢の再開ではない。

でも、自分の声を自分で置いておく場所を、また持ってもいい気がした。

窓の外では、商店街の防災無線が五時の代わりに、遅い時刻を告げる短い音を鳴らした。

少しだけ歪む最後の一音が、今日は妙に愛おしく聞こえた。

完璧じゃなくても、届くものはある。

切り替えるのではなく、切り替わってしまう瞬間が、人にはたぶんある。

春香はマイクへ向かって、昨日より少しだけまっすぐ座った。

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